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長い詩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

長い詩のページです。

長い詩

 
 
【長い詩】
 
あたらしい「詩手帖」投稿欄選者にきまった廿楽順治さんのポストに、「新人の詩篇の多くが、いま長すぎる傾向にある。それをまずは叱咤是正してもらえたら」と書きこみした。それにしてもいまの投稿詩篇は「なぜ」長くなるのだろうか。妥当するだろう理由をまず箇条書きにしてみる。
 
・モチベーションが書くまえにはっきりしておらず、書きながらそれを探すから長くなる。
 
・饒舌体そのものが、承認願望を鏡の裏箔にして、時代の傾向になっている。そこへ小説的な散文体がさらに野合する。これはあきらかに詩というジャンルのとりちがえだ。
 
・簡素な詩篇は、じつは総体がみやすいことで、その「肉体」がつよい。その意味では若い世代を中心に、「詩作の身体性」が脆弱化している。身体性は体験の裏打ちとともに、決断力にもかかわっている。
 
・詩作における音韻意識が稀薄。みじかい改行詩篇のほうが音韻意識もはっきりするはずなのに。
 
・参照される先人の作品に、文学性のたかいものが多い。つまり投稿者の多くは、通用している詩史のもとに隠れている才能の本質、本当の秘宝、みじかさの詩篇を体験していない。おそらく他人の詩をあまり読まないで、自分の詩が書かれているのだろうが、そのひとたちは着想が一回りするとすぐに詩作が停滞するだろう。
 
・スペースの占拠面積が達成感と比例する世知辛い「数値性」が作用している。だがはたして投稿欄は「何坪の庭に家を建てた」で済むのだろうか。せまい集合住宅暮らしが実勢なのに。
 
・短い=全体をつかみやすい=読みやすい、という全方向サーヴィスにかかわる等式が成立しなくなってしまった。やはり自己中心主義がそこに介在している。
 
・ネット的には「短いもの」がこのまれる趨勢がはっきりしているので、「長い詩篇」は紙媒体用の特性といえるかもしれない。つまり「紙に乗るのだ」という特殊な意気込みがある。
 
・じっさい投稿欄は一行字数がすくない。それで息の長い一行を書くのを得手とする人間も、実際の改行形態の不恰好を惧れ、散文形へと逃げる。ふたつはちがうのに。
 
 
ところで投稿者は意外と選者の性格にたいし「傾向と対策」をかんがえるものだ。『化車』の長篇詩を除き、廿楽さんはだいたい20行ていどの詩篇を得意とするから、目ざとい投稿者も詩篇を「自然と」短くしだすのではないだろうか。もうひとりの選者は日和聡子さんというから、彼女狙いの投稿者は、古典語彙の目立つ譚詩をさしだしてくる公算もある。廿楽さん狙いなら「非連続性」の織り込みと脱文学性か。猥雑詩篇がふえるかもしれない。
 
もちろん投稿者への評価と、選者への評価は相即している。廿楽さんが反動志向をだして、あたらしいものを拒絶するのもたしかに価値だとおもうが、やりすぎると叩かれるだろう。ご注意を。
 
まあ廿楽さんは自分が新人投稿欄で山本哲也さんに見出された往年の記憶を適用するだろうなあ。ふたりは似ているわけではないが、風通しの良い詩作という点ではたしかに共通点もあった。熱気だけあって、自分のしるしたことを自己検証できていない長い詩篇は、目詰まりして、そのなかにけして風が吹かないし、おおむねは詩行そのものが構造すらあらわにできない。そういう詩篇はたとえ独創を認められても、からい評価がなされるのではないか。愉しみだ。そういう、「詩作の未来」にむけた断行を廿楽さん、日和さんには期待している。
 
いずれにせよ掲載詩篇が長く、しかも選者のとりあげる詩篇にかぶりが少ない(割れる)ので、いま「詩手帖」投稿欄は大量頁になっている。これがたとえば詩集評のスペースをも浸食していると自己チュー型の投稿者はかんがえないだろう。長い詩篇の掲載に、もっと「(以下略)」の断行がくだされれば、自然と長い詩篇も書かれなくなるのではないか。まあこれはちょっと怖い提案だとはおもうが、このていどの恫喝は、いまの甘ったれた投稿者には有効かもしれない。
 
 

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2016年04月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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