黒沢清・クリーピー
【黒沢清監督『クリーピー・偽りの隣人』】
黒沢清監督の『クリーピー・偽りの隣人』がすばらしい。もともと前川裕の原作『クリーピー』に黒沢テイスト的な細部があったのだろう。黒沢監督と脚本の池田千尋は、原作の前半を中心に物語を再構成、2時間強の全体におさめるよう作劇を磨きあげた。
「隣人ホラー」と一括されてしまいそうだが、たとえば現在TV放映中、ユースケ・サンタマリア主演の『火の粉』などとは成り立ちがちがう。「隣接」が「合致」する瞬間の、形而上学的な恐怖が熟考されているのだ。隣接原理が換喩、合致原理が寓喩だとすると、黒沢の演出では換喩的寓喩、あるいは寓喩的換喩が映画にどうあるべきかが追究されている。細かい作品分析は劇場公開時にもういちどみてどこかの媒体用におこなうつもりなので、以下はメモ書きていどで思索ポイントを列挙するにとどめる。
西島秀俊は四年前までは刑事で、しかも犯罪心理学者的な傾向をもっていた。彼は、興味ぶかい「症例」として取り調べ中のひとりのサイコパスの聴取をおこなっていたが、署内逃走をゆるし、結果的にそれが大惨事となる。ひとりの一般人の死、西島自身の負傷、さらには当該サイコパスの射殺を招いたのだった。「刑事の蹉跌」から一切がはじまる点で、『クリーピー』は『カリスマ』と同様の端緒をもつ。となれば以後の彼は「世界の法則」と直面せざるをえないだろう。
物語は、ふたつの層を縒り合せるように――つまり軋むように、進展してゆく。配合、不整合、分裂、合流予感といった原理的な「物語恐怖」に肉薄しようとしているのだ。まずは日野の一家三人失踪事件(未解決)に、大学へ犯罪心理学者として赴任した西島が、学術的な興味をもって接近してゆく(その家族はもともと四人で、8年前の事件当時、修学旅行中だった娘〔その現在が川口春奈〕だけが失踪対象から除外された)。川口は事件の衝撃で記憶が間歇化していて、事件発覚当時の聴取では脈絡あることがいえず証言能力なしと結論づけられた。その意味で統合失調症者の色彩を負わされている。
ところが現在の西島が接近すると、記憶が部分的に再生されている。よみがえってきた光景は家族が「誰か」と電話で話していたときの切迫したようすに集中している。〈「誰か」とは一体「誰か」〉という再帰的な命題が、そのまま作品の使嗾する「世界法則」をふくんでいると気づく必要がある。
西島は妻・竹内結子、総毛が目を覆う大型犬マックス(彼は「映画の犬」だ――うごきを非人間的にくりかえす)とともに、大学への通勤の便からか、「四年後」(ここが映画の現在時制となる)には都下(「稲城市」と作中設定される)の一軒家へ引っ越していた。しなければならないのが隣人への挨拶。最初は隣家へ西島・竹内が連れ立って訪れるが、呼び鈴を押しても応答がなく不在と判断、翌日に竹内が単独で再度挨拶にゆくとまたも応答がなく、挨拶のチョコレートを入れた紙袋は門扉につりさげられる。このとき、「遅延」の感覚をもって香川照之が登場してくる。
絶妙の演技と形容するよりも、その演技の異常事態を指摘したほうがいいだろう。不機嫌と上機嫌。恫喝と寛容。それら相反するものを奇妙な間合いで点滅させ、その「点滅」状態でいわば対象を催眠性にまで陥らせる香川は、まさに『CURE』の萩原聖人に似ている。端的にいえば「発語が行動と一致していない」。彼のメッセージは、内容というよりもそのシンコペーションのリズム様相にこそ集中してしまうのだ。観客は確実に呑まれる。恐怖はひとまずリズムの「不規則な規則性」から生じると、身体的な確認を促されるのだ。
この「発語と行動の不一致」は、大学の研究室(なんとガラス張りだ――講義教室もそう)に助手・戸田昌宏、警察時代の同僚・東出昌大とともに川口春奈を迎え入れ、彼女に失踪事件を再想起してもらうときにも生ずる。奇異なことに、彼女は座った安定状態で話そうとはせず、発語中絶えずうごきまわるのだ。それは失踪事件の重要項目や関係図をしるしたホワイトボードに向かうためとドラマ上の方便が与えられても、動作の開始が無媒介だから、統合失調的な「浮遊」「発語と行動の不一致」を印象させる。しかも満を持したように撮影の芦澤明子の十八番、光量の非現実的な変化がそれに伴ったりする。
「発語と行動の不一致」は、画面上は「信憑と現出の不一致」へとずれるだろう。ひとつ例を出せば、自身にサイコパスのおもかげがわずかににじむ西島は犯罪例を嬉々として学生へ語る。その階段教室も、この少子化時代にはありえないような聴講満席状態となっている。ガラス張りの研究室のむこうではたえず大量の学生(エキストラ)がうごいていて、しかも画面奥行きにもピントの来ているパン・フォーカス状態、ゆえに学生の挙動にも眼が行かざるをえない異様な多元状を呈している。カブトガニをひっくりかえしたようだ。「世界はあふれている」――これもまた「再帰性」「ズレ」とともに、作品の「世界法則」だ。これらがすべて「悪」の属性を物語る点に、注意しなければならない。
「信憑と現出の不一致」が、「一致」をみせる映画的蠱惑も随所にちりばめられている。「場所」自体が犯罪的な瘴気を徴候的にしめしているとき、それが実際に犯罪の現場性をのちに証言するのだ。このために黒沢はお馴染みの半透明のビニール幕のほか、「ゴミ」「市街地の未整理部分」「形状のおかしさ」を活用する。これほど美術達成的な黒沢映画はこれまでになかった(美術は安宅紀史)。上述のように主舞台は日野市、稲城市と、どちらかといえば被差別的な都下の「非繁華地帯」となるのだが、人物が移動する「道中」には工事中の囲い、不法投棄気味のごみ集積部分など、かならず未整理性が悪意にみちて加味されている。
あるいは香川の隣宅の敷地が工事中の囲い(そのなかには用途不明?の鉄塔がある)が前にあるために奥まっていること、逆にかつて川口の住んでいた日野の一家失踪事件現場、現在は空き家のその敷地が、門扉部分が空き地へ不自然に突出しつつ、すべてが交差する鉄路のもとにあることは、そのまま「ヘンな空間じたいが恐怖を産出する」事例となっている。
自然状態なのに、そのなかに不自然が横たわっていること。これも「世界法則」で、これは詳述しないが、やがて香川の住む隣家が、その内部展開において予想不能の細部と連絡しはじめる映画的恐怖をも用意するだろう。ちなみに当初、映画では香川の一家は、父・香川と仲睦まじくみえる中学生の娘・藤野涼子、それとなぜか理由をつけられて顔をみせない母親で構成されていると紹介される。それがのち、香川を対象化して藤野が「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」と西島に宣告する事態へ移行してゆく。世界「成員」に不明性がはらまれている原理的恐怖。その恐怖のために、香川の「言動」はシンコペーションのようにぎくしゃくしているのだ。
詳しい物語展開は書かないが、やがて日野の未解決事件と、現在の香川の隣家の違和感に、時空を超えた同調が引き起こされてゆく。西島はあるとき、日野の一家と自分の一家が隣在をどう抱えているかで共通したトポロジーをもつと直観する。その映画的瞬間。これは「隣在が一致する」という点でなにかの溶解をしるしていて、言語学的・詩学的モデルでなら、換喩と寓喩の同時性が出来したことになるが、「隣接が距離をゼロ化されること」は「愛情の露呈」でもあるだろう。
結果、西島の妻、竹内は、なにか不思議な力をさらに加えられて、香川に完全籠絡させられ、抵抗意志を奪われてゆく。思考の不可能体=アルトー的な余剰、器官なき身体へと、存在ぜんたいが変容させられてゆくのだ。これを黒沢は端的な映画性で表現した。ふたつの身体が重なってみえる逆光構図をつかい、いったん竹内の輪郭を併呑させたのち、香川の輪郭から竹内の輪郭が不安定に溶出するさまを時間的変容として描出したのだった。むろん「重ね」(空間/身体)にかかわるこのような演出は『LOFT』の細部を踏襲している。
『LOFT』といえば機械性(とりわけ回想部分でのズレの復帰)だが、機械性一般は自動性のみならず、むしろ誤作動性をもって強調される。「発語と言動の不一致」「信憑と現出の一致/不一致」「換喩と寓喩の一致」「結果としての悪」といった作品上の現象的な命題はこの点にこそ集中しているのだが、誤作動はうごめき、それじたい生物的な気色わるさを喚起するだろう。
カブトガニを裏返して五対の触肢のうごめきをみれば、「悪」だとおもうだろう。なおかつ、カブトガニの体内組成では脳と心臓と消化器を分離できない。この融合性もまた悪なのだ。作中、こっそりやりとりする電話を西島に咎められたこともある竹内は、香川と親和状態になるにつれて疲弊してゆく。それで怒りにまかせるように剥いていた木の実をジューサーの攪拌にかける。そう、映画『クリーピー』では不一致が攪拌され、その最大値として日野と稲城が一致してしまう。だが一致は不一致でもある――これが作品の最終の「世界法則」だろう。
統合失調的なリズムで、隣接を「呑む」異様な「機械」だと徐々に判明してゆく香川は、悪の造型として現状の映画のいわば頂点にあるが(香川の役柄理解はすさまじい――同時に不一致の奇妙さは彼に対峙する西島にも、竹内にも、香川の「娘」・藤野涼子にも、やがて作中に顔を出す香川の「妻」最所美咲にも、さらには西島の「研究対象」川口春奈にも、飄々としてみえてそうではない刑事・笹野高史にもみんなある――驚くべきことに)、作中、最もショッカー演出を形成するもう一軒の隣家のガス爆発も、不一致の一致であると同時に一致の不一致なのだった。忘れていた隣家領域が「再燃」するためだ。
もともと映画ではたとえばロング位置で人物同士が何かわからぬ動作を規則的に繰り返していれば、それが寓意的にみえる。黒沢的映画演出の発端はそこにあった。人間というか生き物は、その意味で機械にして脱機械となり、そうしたものの最も崇高な原理が誤作動だということになる。さらにいえば空間的な隣接は決してもともとの寓意ではない(これをたとえば前述『火の粉』は誤解している)。ところがふたつの隣接状態がさらに隣接してしまう寓意を映画『クリーピー』はえがく。そうして換喩と寓喩がつながってしまう機械状、それが一種の頓挫か膠着として成立する。このことが現在映画的な強度ともなる。『CURE』『カリスマ』『LOFT』、そしてこの『クリーピー』はすべてその系列上の作物なのだった。
悪の最強造型である香川扮する「誰か」は、隣家の本当の父親ではないとやがて判明する。出自や始原を欠く者、「一致の不一致」。このとき香川は「相補的に」、「不一致の一致」をも分泌しなければならない。それが誤作動の帰結で、ゆえに「殺人を自らおこなわず、かならず代理者を立てる」億劫さを現象させてしまう(これを臆病さと理解した西島は、事の本質の把握に、どこかで挫折している)。実行性ではなく代理性を猖獗させる者は、単独の恐怖を陰謀的な連鎖へかえる増幅をおこなう。フリッツ・ラングのドクトル・マブゼ、さらには『CURE』の萩原聖人がこの系譜だが、そこに「悲劇的に」、『クリーピー』の香川が回収されてしまうのだった。
その香川の「慢心」を作品の終結部は攻撃する。しかしそれは「とってつけた」ようにおもえる点で、「悪意」ある描写になっていないか。解決感がありながら、同時にバッド・エンディングでもあること。これもまた「一致の不一致」「不一致の一致」といっていいだろう。いうまでもなくこのことはニコラス・レイやサミュエル・フラーをはじめ黒沢清の親炙する50年代ハリウッドの呪われた映画作家たちの特徴でもあった。
黒沢清は復活した、実にクリーピーな(薄気味わるい)映画運動の物質性によって。6月18日より全国ロードショーされる本作を再度観て、さらに画面展開を具体的に起こしたい。5月12日、札幌プラザ2・5の試写会にて鑑賞。
2016年05月13日 阿部嘉昭 URL 編集
おもいだしたが、撮影の脅威は、「不気味な領域」の側から、そこに入ってくる者を捉えるという、ホラー原則の禁じ手が駆使されることだった。よく観察すると「不気味な領域」の一種の狭い中間性にこそカメラは定位されている。だから感じるのは侵犯ではなく、狭さそのものが来訪を捉えることなのだった。これはカメラをオペレートする芦澤明子に体積がないという不自然な疑惑を呼びだす。ここに鳥肌が立った。失踪事件のあった日野の家を捉える異様な1ショットもあった。最近流行のドローン空撮がもちいられるのだが、視界はながれない。ただ単に、ドローンの上昇につれ、俯瞰区域が拡大してゆくだけなのだ。ここでは欠性と拡大が同時的に出現していて、これにも驚いた。あと、冒頭のサイコパスの射殺につながる大掛かりな場面では、いろんな映像作品によく使われる階段が利用されているとおもったのだが、横から階段の踊り場をとらえる画角の設定には初めて出会った2016年05月13日 阿部嘉昭 URL 編集