瀬々敬久・64 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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瀬々敬久・64

 
 
【瀬々敬久監督『64―ロクヨン―前編/後編』】
 
本日の北海道新聞夕刊にぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が掲載されています。今回串刺しにしたのは、先週、満を持して公開された瀬々敬久監督『64―ロクヨン―前編/後編』と、原作・横山秀夫にかかわるいろいろ。この連載は三題噺形式で、本当はその瀬々映画と、その映画の中心となる出演陣・佐藤浩市、榮倉奈々、綾野剛がゲスト出演した情報エンターテインメントバラエティ「ジョブチューン」、さらには映画の公開前に映画の製作母体TBSが放送した2本の「月曜名作劇場・横山秀夫サスペンス」中の『刑事の勲章』を三分割フィーチャーしたつもりだったんだけど(いってることがややこしいね―笑)、映画版の説明の前提として導入した去年のNHK土曜ドラマ『64(ロクヨン)』の部分が、「ジョブチューン」にかわり、見出しにつかわれてしまった(異例なことにいつも見出しは三本立てとなる)。
 
NHK土曜ドラマ『64』はおそらくドラマ史上の白眉。警察内の警務vs捜査一課の葛藤と、県警広報課と記者クラブの「情報戦」対決が複雑にからみながら、しかも昭和64年の誘拐事件と平成14年に反復される誘拐事件が主題になる。緻密で重厚な原作小説を、NHKドラマは見事に演出した。光量の少ない画面と、フラッシュバックを多用する時制不安により、一級のノワールドラマとなっていたのだ。とりわけ主演の県警広報官に扮するピエール瀧が、その持前の異相(しかもその面皰痕までもが照明で強調される)をつうじ、ハードボイルドな物質感を醸しだしていて、TVドラマの主演発想としても画期的だったとおもう。ブルーレイボックス化されているので、未見で興味をもたれたかたはぜひ。
 
ともあれそれほどのTVドラマと対決するのだから、瀬々監督のプレッシャーはたいへんだったとおもうが、彼は見事にはじき返した。ピエール瀧の演じた広報官は、映画版では「情」の濃い変化が心を打つ佐藤浩市が演じ、彼を主軸に置いたことで、作品全体が大スケールの情動シンフォニーになったのだった。もともと瀬々敬久は傑作『ユダ』などで利根川周辺に拘泥している。先鋭で現在的な「風景論」の映画作家といわれる彼は、今回も利根川の川筋を活写しながら、エキストラの数とともに、風景論の起動で、TV版のもつシャープネスに対抗し、見事な映像の流れをつくりだした。「夜」の導入、「水」の横溢もある。何よりも冒頭の昭和64年の誘拐事件で、犯人の指示にしたがい移動しつづける誘拐事件被害一家の父親と、それを追尾する警察車両が、ドローン空撮でとらえられて、わくわくした。ドローン空撮はヘリコプター空撮とは質感がちがう。吉本隆明のいう「世界視線」が、ある虚点的な仮定から出現することで、地表にかかわる転覆力をさらにあらわにする、といえばいいのか。
 
横山秀夫の警察リアリズムを芯に置いたサスペンス小説は、もはや松本清張の社会派リアリズムサスペンスから完全に覇権を奪った。同時代性に拘泥した清張小説の「昭和」はもはや「時代劇」としてしか現出できない。判明する犯罪動機の社会因果論、あるいは還元主義は、「人間」のもつ不定形な恐ろしさに肉薄できず、昭和の最後の十五年間の「内出血」型犯罪(by朝倉喬司)を捉えそこなってノスタルジー化した。
 
横山秀夫はどうか。横山はたぶん昭和の最後の十五年に起こった「犯罪の脱因果論的な変質」を基盤にしている。しかも推理を優秀な刑事による一本線にしない。むしろ警察「組織」の内部的葛藤と、犯罪自体の内部性が相似だとしめすために、時代設定が現在からすると十年以上前のものであっても現在性をたもっているのだ。ただし清張にしても横山にしても、リアリズムが「展開の目盛のこまかさ」からくる点はよく承知されている。この意味で絵画的リアリズムの細部は、ドラマという時間芸術へも転位できるのだ。「こまかいものが気持ちわるい」という感覚論のその一点において。上毛新聞の記者時代に横山が知ったのは、警察組織のこまかい内部的な区分けだけではない。リアリズムのもつ内部性の、臓腑的な連関の繊細さもあったはずだ。
 
松本清張の小説を完全に現在時に単純潤色するとたぶん享受者に感覚的矛盾が起こる。小津映画を現在時に設定を替えてリメイクできないのと同断だろう。横山秀夫はどうか。「組織のきしみ」を描く点で現在時に簡単に応用できると一見おもえるが、そうではない。昭和の最後の十五年に兆してきた不気味な変調は、いまや実感が難しくなっていて、それを摘出するためには、昭和64年、それに呪縛された平成14年という微妙な時代枠がやはり必要なのだった。むろんその変調が現在に内出血の痣をあたえている。だからこそ「痣のリアリズム」というべきものがそこに出来する。
 
そうかんがえてみると、横山秀夫の小説を映画にするのに、瀬々敬久ほど適した人材はいないともおもわれてくる。瀬々は平成元年にピンク映画の分野でだが、商業映画デビューした。彼のいとなみは時代論的な視野にかぎれば単純に約言できる。昭和が昭和天皇の霊力によって封印してきたものを、平成へ露呈させて、分裂やら分離やらを不整合やらを映像にもたらし、多時間的なアレゴリー(ベンヤミン的な意味)をつくりだすことがそれだった。瀬々もアレゴリカーにしてメランコリカーだった。その資質が横山小説の深層と同調するのではないか。たしかに瀬々は「昭和」として『64』の平成14年を撮っている。
 
「大規模映画」を商業ベースで撮らされる監督には不安がつきまとう。ニコラス・レイの悲劇などが脳裡をよぎるためだ。ところが「細部」によって「全体」をつくり、しかもそれを流動させてゆく瀬々の堂々たる演出はどうだろう。『感染列島』よりもさらに『64』は部分→全体の連絡が緻密になったが、俳優陣の「座長」として佐藤浩市がもたらした一体性が今回はおおきかったかもしれない。

けれども監督の「空間」にかんする感覚のするどさも忘れるわけにはいかない。前編は、広報官の佐藤浩市が「原則実名」の情報提供を自分の首を賭けて地元記者クラブの面々に約束し、なおかつ「補足」により交通事故で死んだ老人の地味で不如意な一生を語った会見場面がクライマックスだった。このときの「空間」もすばらしかったが、平成14年の誘拐事件が起こり捜査本部がたちあがったため、署内の各部署ががらんどうになったすがたもすごかった。まだ何も描写されていない大スペースの捜査本部のもつ予感性も。後編には「階段昇降」「特殊捜査車両への佐藤の同乗」といったさらに空間的な見せ場が用意されているはずだ。前編はそうした後編の「爆発」に向けての緻密な導火線だったといっていいだろう。いまから6月11日の後編封切りをおもって動悸している。
 
 

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2016年05月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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