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真利子哲也ディストラクション・ベイビーズ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

真利子哲也ディストラクション・ベイビーズのページです。

真利子哲也ディストラクション・ベイビーズ

 
 
真利子哲也監督・脚本『ディストラクション・ベイビーズ』を観る。大傑作だった。
 
通常、「暴力」はその必然として自壊する。たとえば日本刀で連続して人を斬りつけてゆけば、骨と接触した刀身はやがて毀れだすし、肉と脂を裁断したそれは血糊でどろどろになり、鈍く滑りだして重く、数人でもう人が斬れないようになる。あるいは拳による肉弾戦で相手をおもうさま殴りつづければ、やがてはその拳じたいも砕けてゆく。対象があることは征服域の充実をおもわせながら、実際は絶望とさえ連絡している。
 
もっとつきつめよう。暴力は主体である己れにたいして、実際は疲弊してゆくのだ。かんがえをさらに遡行させれば、すでにして「そこにある」暴力の各瞬間に、充実と疲弊が綯い交ぜになるふかい混乱がある。このばあい、映画の「物語」などがおこなう術策はふたつに大別されるだろう。ひとつは、暴力が自己疲弊しないという虚構をつくりあげること。そうしてスーパーヴァイオレンスができあがる。もうひとつは、死に代表される、暴力行使者への応報、あるいは悔悛などの落とし前を物語がつけることだ。
 
予感されるだろうが、『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥は自己疲弊しない連続的な純粋暴力の行使者で、その存在が神域にある。純粋持続は全戦全勝ではないリアリティを前提に、暴力性が彼の身体により強硬かつやわらかく生成し、しかも暴力の目的が暴力行使以外に存在しない点から観照される。だから鑑賞中に立てた鳥肌は、爽快さにたいして反応しているのではないかという錯綜が起こる。観客は知覚の刻々を微分される。
 
武器といえば、拳、さらには履いている靴の先、頭突きをする頭部、膝や肘の活用(これらは身体各部の冷酷な物質化と関連がある)、あるいは「投げ」や「しがみつき」や「噛み」にすぎない(つまり武器のない肉弾的衝突に終始する)そうした「喧嘩」は、たとえばショーマンシップと演劇性に彩られ、「順番」を分節化されたプロレス等にたいして、通常は不恰好に映るだろう。映画では拳による男性身体と男性身体のぶつかりあいは、マチズモを隠れた称揚項目にもつ50年代のハリウッド映画に目立ったものだった。アクロバット体技と破壊力を誇ったブルース・リー主演の諸作で観客が目にしたものは、「気」と、それが必然化される速度(憤怒の「溜め」と爆発直後の電光石火のスピード)だった。ジャッキー・チェン主演作は、アクロバット体技の応酬を、編集と撮影のほんのわずかの速度変調で、いわばユーモアの文脈に音楽化・都市化・舞踏化させてみせた。
 
それらがいわば暴力の映画史の進展経路だったとすると、たぶん「因果化」や「程度較量」を欠いた純粋暴力が連続してゆくときに時間そのものが悲鳴をあげる、絶望と充実の映画系譜がある時期から目立ってくる。そこでは非人間が神域と交錯する逆転がしるされてゆく。対象が神域にあって、その対象にまつわる記述も神域に収まってゆく合致感はそのままいわば光源化する。真利子哲也自身の『イエロー・キッド』、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』、タランティーノ『デス・プルーフ』、井筒和幸『ヒーローショー』、ウクライナ映画『ザ・トライブ』などがその系譜だ。ただし拳と頭部などによるリアルアクションが疲弊と無縁の神域に継続できるとしめし、しかもパズル性のある物語展開で観客を眩暈に包む「魔(神)力」は、この『ディストラクション・ベイビーズ』が最も行使した。
 
手持ちカメラによって、駆り出された俳優たちの不恰好な「喧嘩」を「無編集の持続体」で追ってゆくことは、通常なら速度の停滞や膠着、無展開の退屈を結果する。だから映画では編集こそが暴力の味方、もっといえば暴力の動因そのものとなるのだ。北野武映画の暴力は、「事前」と「事後」の不穏で素早い一瞬の転換であり、それはよくかんがえると「渦中」が欠落している不穏さと結合している。『カリスマ』に代表される黒沢清映画の暴力は、「渦中」だけが一回性の文脈でぶっきらぼうに内挿され、事前と事後が逆になく、たとえば「ぼこん」という鈍い衝撃音だけが耳にのこる、「一瞬から出来した残存効果」が眼目となっている。では『ディストラクション・ベイビーズ』はこの点でどうだったのだろうか。
 
やがて舞台が松山を中心とした愛媛県と判明してゆく『ディストラクション・ベイビーズ』では、喧嘩に明け暮れた「兄」柳楽が生地・三津浜を出奔したと「弟」(村上虹郎=村上淳の息子)から報告される冒頭をもつ。のち、青い作業着に全身をつつんだ柳楽が、昼間の閑散とした飲食店・風俗店の並ぶどこかの都市の路地を彷徨する姿が、主に、柳楽の後姿を捉えた連続する前進移動撮影で、ゆれをともないながら捉えられてゆく。一瞬振り向く柳楽の顔には殴打された痕跡があるが、その物質的な表情がわずかな歓喜を湛えている意味を観客は了解できないだろう。彷徨のやつれや、敗退の打撃と離反する充実が意識されるためだ。
 
その柳楽が、ギターケースを抱えた、見た目は柳楽より屈強そうな男を対象化、かんがえられない無媒介さで喧嘩をしかける展開になってゆく。理由のない純然たる暴力の開始。カメラはそれを観察する。対象への同調と、冷静さの保持、その中間にいるような手持ち撮影で。
 
ミュージシャン風の男が柳楽を倒し、道路上に組み敷き、馬乗りになった局面。柳楽の眼球をミュージシャン風の男の拳が「実際に」殴打したようにしかみえない一瞬が到来する。寸止めの証拠が見当たらないのだ。経験則のあるひとにはわかるだろうが、画面にしめされた強度で眼球が殴打されれば、眼底出血で失明へいたるか、あるいはそうでなくても視力低下と白目の充血をひと月程度は覚悟しなければならない。だから柳楽の眼球と相手の拳の接触は、「映画撮影上ありえない」。それが「ありえたようにみえる」一瞬が脅威をもたらすことになる。
 
観客は心理戦を仕掛けられる。寸止めの約束事を刻々に覆しているようにみえる身体細部どうしの暴力的応酬、それにともなう「ごつんごつん」という鈍い殴打音の陸続、この真偽を――つまり視認できない瞬間の解明をしいられるのだ。ポルノグラフィが猥褻物の真芯を確認させようとする心理操作に似る。「時間」は「瞬間」を内蔵していて、「瞬間」は「時間」を転覆させる。それでポルノグラフィではストップモーションやスローモーションやコマ送りといった、病理的な画面操作が伴走してゆくことになる。「瞬間」がみたくてたまらないのだ。それこそが時間の無意識だから。いずれ『ディストラクション・ベイビーズ』がDVD化されれば、利用者はそんなリモコン操作に疲弊してゆくことになるだろう。そうおもわせるほど、本作の持続的時間には証言をほしがっている不穏な「瞬間」が宝蔵されている。
 
そうした振舞は、もちろん「持続」にたいする冒涜にすぎない。持続相とはそれ自体が充実であるが、そのすがたは筒のような、のっぺらぼうのような退屈さで人を愁殺するものなのではないか。名づけられぬものだけがそこに捉え替えられる。こういえばいい――真の時間は生成されるが、それは人の生成を内実とする。あるいは逆に、人の生成は、時間の生成を内実とする、と。持続でみなければならないのは、微分されて生まれる瞬間の実相ではなく、器官のない円筒の生成なのだ。そう観念してみても、『ディストラクション・ベイビーズ』でのっそりと、やや猫背気味で相手の前に立ち、とつぜん殴りかかり、負ければ執拗に報復戦を挑み、やがては暴力の生成が効率化してゆく柳楽の、その殴打、蹴り、頭突きなどの刻々が、「相手に実際に入っているのではないか」という嫌疑が高まってゆく。この分裂状態こそが前代未聞なのだった。
 
暴力論ではベンヤミンの『暴力批判論』をまず参照するのが現代思想の儀礼となっている。ところがそこでは「法」が媒介されている。法の行使する、もしくはその法に対抗する必然的な「神話的暴力」にたいし、その神話的暴力を排除する、「それ自体としか捉えられない」ような「神的暴力」の対立。この二分法を拡張的につかえば、『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽の暴力は、「理由のなさ」「無媒介性」「自体性」、さらには「純粋持続性」によって神的だとまずいえるのだが、柳楽が本作で闘っている相手は、もちろん神話的暴力ではない。散文的にいうなら、港町の若い不平分子たち、松山の夜の歓楽街を闊歩するヤクザたち、夜の県道を乗り回すヤンキーたち、さらには善意の庶民などにすぎない。
 
それらは仮象でしかないだろう。実際のところ柳楽が闘っている相手は、空間を偶有的に占有している通りすがりの身体であり、柳楽の武器は、相手がつけようとしている性急な「決着」にたいする持続力――ということは時間そのものであり、だから瞬間にたいして持続が異議申立をするときの波のような反復だけが、闘争の実相として現前しているのだ。瞬間と持続の対立は観客の視覚上の葛藤を織りなすのみならず、柳楽の存在じたいが補完している――そんな作品構造に気づかされることにもなる。
 
暴力=時間の持続にたいし、真利子哲也の天才は、持続の下地になる分節化を実に映画的に仕込む点にある。みやすいのは「風景論」の起動だろう。冒頭、松山近郊の漁村、三津浜の港が捉えられるとき、停泊する漁船の隙間をごちゃごちゃしたものがあふれ、それが映像の基底―素地を示唆する。「弟」村上虹郎が自らの居場所である造船所へと、でんでんをしり目にむかうときには山をのぼる捷径が選択されるが、途中、造船所の地所をしめす鉄扉が胸を打つ。その港町の疲弊した光景と、松山の繁華街の光景とが対位法的な展開をつくりあげる。
 
しかも夜の場面での光量変化が展開ごとに見事に設計される。「ありのまま」が活用される自主映画性こそが風景の真実を掴むうえでの王道だということ(最近の日本映画では武正晴『百円の恋』でとくに意識されたものだ)。裏道の薄明かり、モール街の照明の強度、そこから外れた夜の駐車場の、裏通り以上に寂寥をたたえる暗さ、さらには松山から離れた県道のいわば「夜のなかの夜」状態、そのかすかな冷気。このようにして松山近辺は風景的普遍でありつつ特異性でもある。それをあかすのが方言のもつ身体性だっただろう。
 
暴力の分析にかまけてしまったが、作品の主要人物は、柳楽、その弟役の村上のほか、頭頂に髷を載せ、フェミ男の華奢な風情をただよわせながら、臆病で不恰好、しかも卑劣という以上に世界観がやがてゆがんでいるとわかる(そういう役柄を演じればいま最も生き生きとしている)菅田将暉、まなざしに邪険さのある美少女・小松菜奈――この四人だ。人物群の点在は、パズルピースが突飛だが正しい隣接を組織されることで、やがて四人が複合された物語を形成してゆく。そう、エドワード・ヤンの『恐怖分子』のように。
 
作品の無媒介な前提となる柳楽は、ミュージシャン風の男との報復戦に勝利したものの深手を負って(顔が腫れで変形して)公園にいる。ゴミ箱から魚肉ソーセージをとりだしてばくつく姿を、菅田が、そのヤンキー風の学友二人とともに嘲笑う。学友二人は柳楽にちょっかいをだすが、深手を負っても屈強な柳楽に完膚なきまでに叩きのめされる。ここでも持続性と執拗さに息が呑まれる。菅田のへらへらぶり、腰抜けぶりが笑えて、柳楽と好対照をなす(喧嘩に勝利した柳楽は、菅田所有の自転車を、有無をいわさず奪う)。
 
彼らと柳楽の対峙は、間歇を挟んで再燃する。報復を念じる菅田らヤンキー高校生たち。彼らは夜の路地でヤクザにボコられて衰弱している柳楽をみつける。無抵抗の柳楽をさらにボコる。金属バットでとどめがさされるところを、臆病な菅田が制止する。とりあえず持続を生成しない柳楽を、哀れにおもうこころがこの時点での菅田にはあった。
 
菅田と柳楽の邂逅は波状の反復があって、最終合流をみるが、その最終合流には、菅田の同化、あるいは菅田がしるす柳楽への憑依が必要だった。経緯を確認する。まずゲーセンで遊ぶ菅田らがいて、菅田に柳楽は接近し、妙な暴力を行使する。「脱がす」のだ。それは悪臭をふりまく自分の作業着との衣裳交換だったとわかるのだが、柳楽の去ったあと、そのダサい作業着の着心地を確認し、しかも頭頂に髷を結う菅田から発現されてくるのは、華奢でしろい少女性といったようなもので、笑える。のちに彼は女性への卑劣な暴力を発揮しだすのだが、ルサンチマンとみえるその行動の動機(これが柳楽の自体的な暴力には一切ない)は、「自身をふくめた領域」の排除、つまり変形的なミソジニーだったといえるだろう。このとき彼は錯誤的に「柳楽を着た」と気づかなければならない。
 
無理やり衣裳交換をしいられた菅田は、酒瓶を手に柳楽への報復機会を、繁華街をさまよいつつ窺って、柳楽の喧嘩場面に遭遇する。ここでは喧嘩自体への描写よりも、菅田の変貌が映像化される。柳楽は難敵だったヤクザの三浦誠己(彼はフットワークをつかうことから、ボクシング経験があるのだろう)を今度は一撃で倒す。この大立ち回りで、周囲には野次馬が蝟集している。そのなかのひとりとして菅田は、柳楽の暴力の不屈の、しかも自体的としかいえない持続性に感電させられてゆくのだ。「自己にないもの」を認定した彼は、こののち柳楽を仕掛け、その暴力の記録者(ケータイ撮影とネット拡散による)となりつつ、彼の同伴者として、柳楽を縮小した、女性への暴力などを発現することになる。この菅田がなければ、柳楽の暴力の至純性がここまでつよく意識されることのない点に注意したい。
 
真利子哲也の緻密な作劇は、小松菜奈をも柳楽の目撃者とするが、そこでは夾雑物をくみいれるさらに複雑なリズムが刻みこまれる。たぶん「趣味」と世間への嘲笑が反映されているのだろう、眼付に邪気をはらんだうつくしい彼女は、スーパーで万引きしているところを無媒介に捉えられる。ところがおなじ店内には、まだ作業着姿で顔を腫らしている柳楽が、爽快さまで印象させるように遠慮なく店内の食べ物をとりあげて食べつつ大股で闊歩している。唖然とする小松。店内の万引きGメン(中年女性)が小松の万引き行為をスーパー入口から出た直後に咎めたとき、この柳楽が注意喚起の対象とされ、それが結果的に小松の逃走へつながった。小松にとって、最初から柳楽は、自分を超える異物、理解不可能性だった。
 
いわば2Rめの松山のヤクザたちとの柳楽の肉弾抗争で(三浦誠己が初登場する場面)では、そのゴロマキを見物する群衆のなかに、キャバレーへ出勤途中の小松がいる。ここでも彼女は、異物性のつよい柳楽に驚嘆することになる。なおこのゴロマキは、キャバレーの運転手の男の、停車中の車中視界によって捉えられる。真利子『NINIFUNI』のラストシーンの応用だ。ところがクルマのボンネットが、身体どうしが闘いもつれあう場へ昇格し、しかもフロントグラスに血まみれの顔がこすりつけられると、恐慌した運転手はクルマを発車させ、それで柳楽が衝撃を受けることになる。
 
雑踏の一員としてゴロマキを見物することは、開かれた場に守られている(のちにそれが一面の真実にしかすぎないという転覆が起こる)。ところが車内という閉塞した場所で、クルマをも巻き込まれるかたちで喧嘩に直面するとき、閉所の逃げ場のなさが、観客の心理に、驚愕と恐怖をじかに伝播させるのではないか。外延の内包、内包の外延を使い分ける真利子哲也の映画演出は、時間型であると同時に、空間型でもあった。車内からの視点は、のちにさらに増幅形で反復されてゆく。
 
地元不良との抗争方法を相談するため、松山行きに、村上虹郎がくわわって(スケボー技術が素晴らしい)、そこで彼は兄の作業着をまとっている菅田将暉に気づき、兄が周辺にいると確信、以後は兄探しに奔走するようになる――そんな一節を挟んだのち(これが菅田と村上を唯一おなじ場所に置いたシーンで、以後村上にとっての菅田は、兄とともにすべてネット動画、TVニュース内の人物となる――これが作品における「点の接続処理」のひとつのかたちだ)、小松菜奈はキャバレー出勤前にまたもや万引きしているところを、村上の親友づらをした厭な金持ち息子にみられる。柳楽を手分けして別方向で探すというのを口実に、その村上の学友(北村匠海)は、小松を恐喝したのだろう(ここは作中で描かれない)、「ガキ」のくせに場違いなキャバレーの客となる(点在している学友たちもケータイで呼び出された)。そこでつまらない狼藉を働くのだが、このときが実在する小松と村上が隣接した唯一のシーンとなる。
 
むろん点在する者たちをつなぐのは並行モンタージュ(シーンバック)だ。ヤクザとのゴロマキで三浦誠己を叩きのめした柳楽にたいし、色をなしたヤクザたちがついに武器をだして、機転を働かせた見物人の菅田は「警察が来た」と叫び、それからふたりもその場から逃げ出すとき、柳楽への絶賛を多弁に重ね、興奮し、通りがかりにむごたらしく制服姿の女子高生二人を殴打する。
 
やがてモール繁華街へ出るとまだ宵の口で、人が多い。そこで菅田の挑発によって対象化された一般人が、次々に柳楽の殴打の犠牲になってゆく。この無差別暴行も、生々しいカメラワークで捉えられ、実際のエキストラの恐慌にちかい反応も捕捉されてゆく。暴行の場所の直截性と、一般人の外延。菅田はその中間にいて、一般人の対象化、柳楽への励起、そしてその記録化(ケータイの動画撮影)をつづけている。この中間性の位置が道化の位置だ。ところが最外延にいる一般人たちが、菅田を上回る量で、この惨事をケータイに記録しつづけ、のちにそれがネット上で暴発、直截的な暴力とは次元の異なる暴力を映画内に組織することになる。この作品の第一のクライマックスが、キャバレーのシーンと並行モンタージュされていた。
 
しかしなぜ(第一の)クライマックスなのか。そろそろひと足が退けてきて、店舗もシャッターを下ろしかけているその松山の繁華街モールは、道幅がもとは三車線ていどあったほどに広い。空間的には空漠としている。大人数が走り抜けるなどしなければ映画的光景を現出できないだろう。それを真利子演出は、柳楽・菅田の無方向への挑発・殴打、ならびに群衆の取り巻きの位置関係を捉えつつ、暴行場所をゆっくり移動させることで映画的に変えた。もちろん空間は人物のうごきによって活性化する。人物たちはからだ全体で空間をうごくのだが、そのうごきこそが空間を愛に目覚めさせる愛撫なのだった。だから「映画的には」この場面で無差別暴行と愛撫との同時共存という矛盾をみなければならない。
 
人物的には、この作品の真のディストラクション・ベイビーズ――柳楽、菅田、小松はそれぞれ対照的な生成過程をたどる。「対照的な三者」は二者の対照とはちがう。「三」は全体で、その内在域が分割を蒙るときは、二者による時間―空間の並行性にたいし、相互の角度を微分して、いわば「結晶」が現れることになるのだ。柳楽は至純な肉弾暴力の行使者、目的のない者の怖さが一定している。菅田は興奮と多弁により、柳楽を自身に「装填」「着用」しながらも頽廃を遂げて、暴力が通常予定する「自壊」をかたどってゆく。悲劇性は彼にこそある。小松は、万引きだの、世間への嘲笑だのの「悪」を担わされながら、ずっと実質的な発語がない。その彼女が殺害という暴力を行使できる至高性へと急速に生成してゆくのだ。むろん窮地に陥ったこと、さらには軽蔑と怨恨という強烈な感情が発条になっている。
 
「ありのまま」が映るこの作品にはきれいなものが実際は存在していない。小松の容姿が美の範疇に入るようにみえるが、その邪悪なまなざしが阻害要件となるだろう。ただひとつ小松のまとう薄地、花柄のガーリーなワンピースの、布の質感だけが、作中の脅威のようにうつくしいのだった。
 
徐々に作品の作劇の真芯、ならびに結末にふれてゆく気色となるが、未見のひとのためにディテールの記述を抑制したい。モール街の無差別暴行ののち、同様の手口の「四国制覇」を興奮した菅田が欲望する。それは逃走と神出鬼没と攻撃とをリズミカルに反復させることでしかない。隘路に嵌るのはわかりそうなものだが、菅田はそこに自分たちの未来の栄光をみている。彼はバカで、いよいよその昂奮が多弁に拍車をかける。彼らにとって逃走手段にクルマが必要になり、それで運転手を殴打してクルマを強奪する展開となる。このときそのクルマに乗っていたのがキャバレー勤めを終え、帰路につくはずの小松だった。小松と菅田はここが初対面だが、柳楽とはじつは三度目の邂逅で、いわば反復が反復され、合流ができたかたちだ。これは音楽的な躍動とよべるだろう。
 
もともと科白発声が稀少な柳楽。自壊に向かうためにうんざりする多弁化へと傾斜してゆく菅田。それらにたいし車外の暴力をまのあたりにしてクルマとともに暴力の搖動を恐怖裡に味わったのち、車内にいわば「保険=人質」として拉致された小松は、当初、後部座席にガムテープで後ろ手を縛られ、口も封印され、物理的な沈黙をしいられている。ところが俳優は発声のみならず動作でも発語をおこなう。悪と驕慢に汚れた小松は、ふとしたすきにガムテープを口から外そうと躍起になり、実際に口から半分ほどガムテープがめくれ、そのとき隠しもつケータイが鳴って、通話マークを舌で押そうとするアクション主体となる。だがケータイは残酷にもその瞬間に電源切れとなった。
 
ひそかにガムテープを外し、隠しもっていたケータイで助けをもとめようとしたこの小松の「陰謀」が菅田に露顕、その怒りを買って小松はクルマ後部のトランク内に「収納」されることになる。トランクに入れるその前後でようやく拉致したそのキャバ嬢が美形だと菅田が認める。この菅田の迂闊さが興味ぶかい。前言したように菅田はもともとフェミ男で、しかも自分の華奢さにつうじている自己愛者だろう。それが暴力の至純さに憧れ、罹患し、通りすがりの女子高生を殴打するなど、自己の隣接領域へのミソジニーを発現させてゆく。菅田にとって、女性的身体は、自分自身を別にすると「遅れて現れる」。だから小松の美形ぶりにも気づかない。それに気づくのも小松の夏着のワンピースの柄がきれいだったからで、まず彼は小松の胸をワンピースの布ごしに撫でるのだ。第一義的な位置にあるのは、服のしたにある乳房ではなく、布そのものではなかっただろうか。
 
いっぽう柳楽は女性美というものには不可解といえるほど興味をしめさない。ただしのち小松が菅田の陰謀にしいられて郊外の農村で農夫を轢き、その瀕死のからだをトランクに入れる苦行を菅田にしいられたとき(本質的に脆弱な彼は手伝わない)、農夫の突然の眼ざめに「激昂」、それを怒号とともに撲殺してしまう急展開となる(このときのおおむねは音声による間接表現)。途轍もない暴発を成し遂げた小松が青ざめて車内の運転席にもどったとき、「どうやった?」と柳楽が二度訊ねる。「悪」「暴力」を敢行したときの充実について訊いているのだ。つまり女性自体に興味をしめさぬ柳楽は「女性の悪」についてなら性的な欲望対象となるのではないか。これが作中、ひそかに戦慄したディテールだった。
 
監督真利子哲也は、基本的には柳楽の位置にいる。その証拠――クルマの後部トランクに反逆心をもつと露顕した小松を菅田が「収納」するとき、収納の途中からたぶん小松のうつくしさ(それを彼女の逆境が倍加している)に惹かれた菅田が凌辱行為に及ぶ。ところがそのディテールは小松の女優価値もあるのか描写されない。就眠準備にはいった助手席の柳楽が捉えられるだけだ。その姿が間歇的なリズムでゆれることで、クルマ後部での凌辱が示唆されるが、それも早々にカット変換がなされてしまう。監督もまた小松の女性美に興味がなく、その悪に興味があるだけ、というように。詳しくは書かないが、このあと小松は何重の意味での決断的存在となり、何重の意味での悪/暴力を完遂し、いわば至高性へと到達する。感動的だった。
 
ディストラクション・ベイビーズという「複数形」が画面的にたしかに成立するのは、逃走的犯罪者たちが拉致対象とともにクルマを発車させ、ロードムービー過程を開始するそのときだ。「三」を「全体」とする擬制が成立、それが暴力の至高点にむけ三様の微分を開始すると前言した。ところが真利子演出はそこから引き算を採用する。「三」の全容をしめしたのち、そこに誰かが映らない「二」が出来することで、のこりひとりについてのサスペンスが起こり、それがそのまま物語の進展に拍車をかけるのだった。作品のおわりは「柳楽がいない」局面が連続し、それが不穏さを湛えるが、「小松のいない」局面のみ、最後にしるしておこう。
 
さきに部分記述した農村の場面。昼間の農道ともいえる場所に強奪したクルマが停まっている。50歳くらいの農夫が激しく柳楽に怒号をぶつけている。なぜ何も悪いことをしていない自分の息子を一方的に殴打したのかと。その剣幕にやれやれと対応するのは柳楽ではなく、菅田のほうだ。卑劣な彼は、相手の年齢と体力を推測、楯となったのだった。ちなみにこの前に起きたのが、小松のトランクへの収納だった。画面は燦燦たる夏の陽光と、うだるような暑気の気配をつたえている。その小松が一切、画面上に存在していない。まだトランクのなかにいるのか。熱中症で死んでいるのではないか――そんなサスペンスフルな不安がわきのぼる。
 
農夫を腕力で制圧したのち、やけくそのようにトランクの扉を菅田がひらく。鬢の毛が汗ではりつき、衰弱した小松がうつくしい。やはり熱中症で瀕死の状態にある。ところが女性身体にたいしリアルな把握のできない菅田は、その窮地とうつくしさの共存に気づかない(これまた興味ぶかい欠落だ)。「運転しろ」とだけいって小松を引きずりだす。朦朧としている小松。やがてからだをうごかす力があるとおもむろに自覚にした小松は、運転席の前に挟んでいたミネラルウォーターのペットボトルを呑むためからだを躍動させて走り、それを一気飲みする。脱水と体温上昇で瀕死だった彼女の、「生の本能」がとらせた反射行動だった。このあとの彼女は、菅田に「アクセルを踏め」と怒鳴られて農夫を轢くまで、世界把握の不能、混迷、自意識の未点灯といった諸状態のなかを浮遊している。このときもうつくしかった。
 
このあとの場面の記述はおこなわない。予測不能性と予測可能性が縒り合わされ、緊密な作劇がつづいて、最後、見事に「ディストラクション・ベイビーズ」というタイトルが画面に大書され、戦慄にみちびかれるとだけいっておこう。柳楽、菅田、小松には、それぞれまったくかたちのちがう見せ場がある。しかも音楽。フリージャズ・プレイヤーと共演する向井秀徳のパンキッシュ・アンフォルメルな多重ギター中心の音楽はもともと作品の暴力と同調して作中に効果的に流れていたが、エンドロールに流れる向井の弾き語りも、鳥肌が立つほどすばらしかった。
 
――5月24日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

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2016年05月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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