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近況6月11日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

近況6月11日のページです。

近況6月11日

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載「サブカルの海…」がまた載ります。今回、串刺しにしたのは、宮藤官九郎監督・脚本『TOO YOUNG TO DIE』、宮藤官九郎脚本のTVドラマ『ゆとりですがなにか』、それにバラエティ感覚あふれるNHK土曜ドラマ『トットてれび』でした。つまり「クドカン的なもの」についての考察です。
 
『TOO YOUNG…』は自殺と誤認され地獄に落ちた高校生・神木隆之介が赤鬼・長瀬智也からのロック・スピリッツの注入を受け、現世へ、天国への執着を繰り返す一種の「無間的」な反復劇。原稿に書かなかったことをいうと、茹で釜、針山、髑髏だらけの地獄など、出てくる場面の多くが赤い。その赤さが定見的な地獄イメージとリンクしてチープでかわいい。このあたりは中川信夫『地獄』をも髣髴させるのだが、地獄表象に、因果応報などはあまりからまず、からっとしている。
 
輪廻転生、地獄と現世の時差をつかった場面転換により、局面が飛躍的にすすんでゆくなど、クドカンならではの工夫が満載なのだが、それ以外にもロック小ネタがおもしろい。地獄から現世に「メジャーデビュー」した人材としてオジー・オズボーン、ジーン・シモンズ…が数えられて、そのつぎに葉加瀬太郎で「落とす」など。あるいは地獄の山野楽器みたいなところでは物故ミュージシャンの身体細部が売られていて、ジミヘンの左腕を地獄のロッカーが装着するとどうなるか、などもある。
 
神木くんのチャラいキャラがやがて真摯さにむけて成長するすがたもいいが、ぼくはなんといってもクドカン脚本と相性の良い長瀬智也が大好きなのだった。「バカ」の瞬発力がこれほどうつくしく華やかな俳優などいない。おまけに沢田研二ばりの「王子さま」型美声、美形。近年はギター奏法に磨きがかかった点も知られているだろう。それらが十全に活用されたうえで、彼は劇中、アリスのように伸縮自在、それでモンスター的な可愛さまで加味されていた。
 
劇中歌(演奏)は地獄だけあってヘビメタ―パンク系の爆音強調。すべてをバンド活動でも知られるクドカンが作詞しているが、作曲陣は多士済々。なかにナンバガ―ZAZEN BOYSの向井秀徳もいて、彼の作曲したものが意外にフォーキーだったりする。しかし向井さん、映画音楽にフル稼働だなあ。真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ』についてはすこしまえにこの欄に書いた。
 
クドカン人脈、クドカンへの信頼があって、ミュージシャンのカメオ出演も多い。CHAR、野村義男、ローリーなどのほか、嬉しかったのが元・憂歌団の木村充輝が出てくるくだり。ゴスペルをオオっとおもわせるかんじでうたっていた。風情が好き。
 
神木くんが執着する現世の存在が、森川葵。クドカン脚本『ごめんね、青春』ガールズのひとりで、黒島結菜とともにブレイク中だが、いたずらっ気と抒情のブレンド具合により、森川のひ弱さがじつにかわゆく撮られている。『ごめんね、青春』ガールズはノスタルジーの産出装置。そこに波瑠をくわえてもいい。「にっぽん女子」はいまとてもいいかんじだ。
 
『ゆとりですがなにか』は「ゆとり第一世代」と「ゆとりどっぷり世代」の葛藤を中心とした世代論ドラマ(その象徴が太賀)。そう書くと荒井晴彦みたいだが、クドカンはクドカンの流儀で「荒井さん」をやろうとしているのかもしれない。瞬間恋愛をのがれられない人物たちの「機械性」はとうぜんクドカン印だが、ドラマ全体を幾何学的に設計する特徴は減少した。しいていえば「バディドラマ」に「3」を導入するときにできる「余り」が考察されている。人物の多くが可変的で、それがドラマに結節をつくる。ともだちの妹、ともだちのカノジョと接近しつつ、そこに「中間性」がえがかれる。このドラマはそうした中間的感慨の切なさを、ありきたりの都市風俗、都市風景のなかに剔抉しようとしている。
 
俳優では――吉田鋼太郎の役柄がヘン、柳楽優弥の風格が絶好調、美男子と受難が掛け合わされる岡田将生の「ケーリー・グラント感」に磨きがかかり、松坂桃李がこれまでのドラマのなかで最も良く、ひねくれた安藤サクラが上質な悲哀をかもしだす。ネットでは彼女が上司の手塚とおると寝てしまうところで道義性をめぐり論議が起きたようだが、都市に生きる軽さ、その偶有と有限の諦念にふれたものはなかったようにおもう。
 
ほか女優陣では、吉岡里帆が収穫。教育実習生の折れそうな「生真面目」と、恋愛傾斜性(つまり「スケベさ」)が不思議な感触で共存している。これを前髪のノスタルジーと、胸元の豊満さとに身体的には分離できるかもしれない。いずれにせよ、このごろはグラビアアイドル出身の女優が豊作だ。夏菜もそうだし、『グッドパートナー』の第何話かでみた逢沢りなもそう。やはり「にっぽん女子」はいま、いいかんじ。
 
『トットてれび』は黒柳徹子という崇高な自己中心者の、ふわふわ感と、それに離反する原理的な洞察力を見事にえぐりだしている。むろん演ずる満島ひかり(『ごめんね、青春』のヒロイン)の対象分析力がすばらしい。演技は「まなび」からはじまる。これは初期TVの生放送ドラマ、生放送バラエティの舞台裏をアクション連鎖として描いた大森一樹の往年の傑作『トット・チャンネル』、その斎藤由貴では精確にできなかったことだ(彼女は巻き込まれヒロインとして画面展開を右往左往していた記憶がつよい)。
 
『トットてれび』には昭和という時代を客観的に対象化できる時代になったがゆえの「的中感」といったものがある。まずは上述した配役の髣髴性。顔の同異など関係がない。吉田鋼太郎の森繁久彌など絶品だったが、新聞コラムでは向田邦子に扮したミムラを称えた。『トットてれび』の「的中性」があぶないバランスに乗っている点も銘記されてよい。たとえば往年のNHKスタジオと、新橋にあったとされる松重豊が主人の中華料理屋は、かたほうが虚構産出の場、かたほうが実在性の場のはずなのに、どちらもがおなじ質感なのだった。つまり虚実の境が不分明になったそのあわいから、「的中」が現れる――そういうことだ。ところが黒柳が入り浸ったとされる向田のアパート内はそれ自体の「的中」に変化している。あるいは一時代がこれだけ典型的な少数人物群で形象できるわけがないとおもいながら、人物群の隙間に「的中感」が見事に揺曳していたりする。場面から場面の転換が見事な脚本は、大森美香による。音楽には大友良英が加わり、往年の名曲の隙間で彼なりの色を塗っている。
 
そうじて、「現在の的中は中間域(過程や周囲など)にたいして多く起こり、的中感をあたえない」。そうした的中が機能不全を出来させても、当該箇所ならほとんど痣のようにみえるだけだ。今日の話題にした作品では神木くん主演の映画だけが真芯への的中を果敢に志向している。リーダビリティを保持するためだ。宮沢りえのあつかいが象徴的だった。
 
こうして今日の夕刊の記事掲載告知をしていて気づいたが、最近の雑誌掲載報告を怠っていた。ひとつは「現代詩手帖」6月号の詩書月評。美術(油彩)用語「色価」を分析の鍵語として、以下の女性詩作者の詩集を通覧した。
 
・高橋留理子『たまどめ』
・かわいふくみ『ひとりの女神に』
・mako nishitani『汚れた部屋』
・伊藤悠子『まだ空はじゅうぶんに明るいのに』
・来往野恵子『ようこそ』
・最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 
「色価」とはフランス語ではヴァルール。もろもろの「位置」への色彩付与により、諧調的に視界の真実性がます様相をいう美術用語で、往年はよく分析語につかわれた。絵具によってキャンバスに現出できる色が有限だという観点は、色彩付与の隣接性により覆される。たとえばフランドル絵画でガラス器がなぜひかってみえるのかは、そのように色が塗られているためではなく、そのように色彩同士が隣接しているためだ。
 
ただしリアリズム色彩絵画にもちいられる色価はいま別の分析道具になりそうな気がする、モランディなどの作品をふりかえると。モランディの色彩のシックな朦朧感は絵具に白が混ぜられているからだといわれるが、それで全体がグレー(埃)の諧調にあるとみえる。ところが色彩の音楽的な諧調だけではモランディの魅力が伝えられない。事物の厳密な配剤、かたちのおもしろさ、さらに厚塗りの絵具によってうまれる線や面のゆらぎが、「はかなさ」と「たしかさ」を共存させている。このときモランディ的「色価」は事物の配剤(外延)以上に、厚塗りのもつ「時間性」に内包されているといえるのではないか。「デザイン」と「実在」はこのようにして結びつく。
 
「北大短歌」四号では、山田航の圧倒的な現代短歌アンソロジー『桜前線開架宣言』をネタに、現代短歌(口語を中心とした)からにじみだす「あたらしい感情」について分析した。これは以前、最果タヒさんの『死んでしまう系のほくらに』で書いたことを、短歌をつかって延長、短歌の修辞上の宿命「たりなさ」が、いかにあたらしい感情創出に貢献しているかを分析していったものだ。じつはこの延長線上で、朝日新聞読書欄の「売れている本」コーナーに、ふたたび最果タヒさんの、今度はあたらしい詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』についてもしるしている。こちらは身体と感情と都市の「中間」を考察したが、まだ掲載がなされていない。
 
 

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2016年06月11日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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2017年01月27日 編集












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