吉田恵輔・ヒメアノ~ル ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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吉田恵輔・ヒメアノ~ル

 
 
【吉田恵輔脚本・監督『ヒメアノ~ル』】
 
古谷実の(シリアス)マンガは映画化がしにくい、というのが定評だろう。コマ展開がスタチックで、第一局相では人物群が多弁(とくに抽象的な論議がこのまれる)。画力の質からか、人物の顔の特質(とりわけ異物性)にこそ作画の焦点が置かれ、その分うごきの描写が少ない。ポーズでは直立性と正面性が基調となり、そこに独特の立居の魅力=ストレートさが出てくる。強調されるのがアナーキーさまで帯びる羞恥心だ。顔の上気の斜線と涙の湧出、くちもとのふるえ。そこで読者はわらう。
 
古谷の第二局相では上記と離反する無音のコマ連鎖が夜間場面を中心にしてあり、そこから気味悪い幻想がすがたを現わすこともある。もちろん物語は長丁場で、その着眼は「現実にありえそうなズレ」=蓋然性をもとにしている。だから偶有的な人物が、そのまま物語の中心に巻き込まれ、物語と人物の布置が不定形に増殖、このことでいよいよ現実感がます。こうしたリアルな現実的ゆらぎを映画化が体現するなら、その映画自体も長尺化をしいられる。原作と同等の質感をもとうとするなら、『ヒミズ』『シガテラ』『ヒメアノ~ル』など古谷の傑作群は5時間くらいの厚みをもつべきだろうとおもう。
 
「顔のマンガ」である古谷的特質は、「顔のちがう」配役をはじき返す。多弁や長丁場も整除しなければならない。マンガとして充満していたものは、この条件下、映画としての不足を結果することになる。それで「改変」が画策される。
 
かつての園子温『ヒミズ』ではそうした要請から原作マンガを歪曲した。主人公「住田」の自殺で終わらない、東日本大震災に無理にむすびつけられた結末。演説を繰り返すヒロイン二階堂ふみも「茶沢」をまったく髣髴させない。映画とマンガでは物語の初期設定と空間が似ていただけだ。これが原作の映画化といえたのだろうか。90年代末期の学生にとっては、絶望的状況をある「不足」から自覚できない「住田」の、心変わりによる自殺は、こころの深層をえぐるものだった。原作は聖書化していた。それを園子温が改竄した。映画を観たその世代の幾人かは、偶像破壊に接して悲鳴を漏らした、とさえ語っていた。
 
俊英・吉田恵輔によってこのたび映画化された『ヒメアノ~ル』はどうだったのだろうか。そう問うまえに確認しておかなければならないのは、吉田が前作『銀の匙』で、荒川弘の原作マンガを理想的に映画化した事実だ。帯広を舞台とした、牧畜業をめざす若い男女たちのビルドゥングスロマン。その「成長」を、葛藤や失敗譚はあるもののスピーディな語りで描写しつくし、「成長」にともなう重力や斥力を慮外に置いた点が賢明だった。なぜなら、それらを正面切って描こうとすると、物語の推進力が「折れてしまう」脆弱さがこの時代を支配しているためだ。こうした徹底的な向日性の土台があったからこそ、「農」にかかわる諸局面を付帯的に作品は観客に啓蒙することもできた。
 
マンガのキャラクターの画柄は、映画の配役を疎外する。それは俳優の身体的な現実がマンガとは異なる、とうぜんの結果にすぎない。主要人物4人について述べよう。清掃員として働くブルーカラーの主人公「岡田」には濱田岳が起用された。幸福の実感をもてず、恋愛を夢見るこの童貞青年は原作では普遍性を帯びさせられ、悪に立ち向かうまではお人よしの無色無臭を結果している。ところが濱田岳はタイプキャストにみえてしまう。濱田には体形と顔の物質感がありすぎるのだ。
 
濱田の勤め先の上司「安藤」は、爆笑を誘う人気キャラクターだ。不細工さ、こじれて面倒くさい性格、執念とそれを自己瓦解させる無定見や惚れっぽさ、ならびに「アタマがわるいのに多弁なことによって、思考にリアルなゆがみを生じていること」。名手ムロツヨシは、エキセントリックな演技、奇妙なものの類型化を得手とするが、そのルックスはマンガのキャラクターに較べすっきりとしている。しかも科白を整除されて、凡庸な者の怪物性がほぼ消えかかっていたといっていい。
 
原作マンガにおける物語軌道は以下のように敷かれる。「安藤と岡田が親友になる」→「安藤が、喫茶店に勤めるまだことばも交わしたことのないユカを意中の(運命の)女性だと告白」→「告白を手伝ってほしいと安藤が岡田に依頼、ユカの勤める喫茶店に赴くと、そこに岡田の旧知の森田(高校時の同級生)がいて、森田もユカの動向を執拗にうかがっている」→「安藤に促され、森田に凌辱の悪意があるか否かを確認させられる岡田(もちろんそんな唐突な確認を森田は相手にしない)」→「ともあれそのようすから、岡田が森田の知り合いと見てとったユカは、岡田と安藤に相談をもちかける――ストーカー森田から、自分を保護してほしい」→「騎士役を請け合う安藤・岡田のふたり」。
 
安藤とユカの相愛の成就のためにしつらえられた場は、その場でズレて森田の存在を焦点化、しかも(経緯の説明を省略するが)岡田とユカの相愛、そのふたりにたいする森田の殺意の浮上、というさらなる横ズレをもたらすことになる。こうしたズレの増殖がまさに「現実感覚」=「実人生の感触」なのだった。古谷の話法はすごい。これにたいし映画版『ヒメアノ~ル』は直線状の因果関係に出来事が連鎖されすぎているといえる。方向性の分岐に打たれる余地がないのだ。
 
配役に戻ると、邪恋の悪意から庇護されなければならないユカは、古谷マンガ特有のヒロイン顔をあてがわされている(古谷マンガのヒロインの顔は、『ヒミズ』の「茶沢」を除くとひとつしかない)。健康優良児的な向日性、長身、のびやかな肢体、けれどもそれらに反する趣味の特殊性があり、打算から外れて恋愛相手を積極的に選択する。選択しながらも相愛成立までの恥じらいが尋常ではない。それらは古谷の「理想」を体現する半ば抽象的な存在、つまりは「空から降りてきた偶有」にちかい。それが美しい裸身をもっているのだ。
 
「ユカ」役を映画で宛がわれたのは、容貌に地上的な現実感のある佐津川愛美だった。彼女は役柄に、科白発語の局面局面に、心理主義的な裏打ちをかける。それでキャラクターを地上的に縮減してしまう。ところが古谷マンガのヒロインは、「お人よし」と「恥じらい」が混淆して光源化、このとき発せられることばが神聖な「直言」に変貌する。矛盾形容となるが、その理想性は、ひらべったい奥行なのだ。
 
『ヒメアノ~ル』でもその手の科白は、岡田―ユカの笑うしかない相愛確認場面に、安藤を出し抜こうとふたりが決意する場面に、あるいは安藤からの懲罰を怖れながらふたりが気持ちいいセックスに延々励んでしまう場面に用意されていた。ところがそれらに佐津川は心理主義的な奥行や翳りをあたえてしまう。初交渉のとき童貞と判明してしまう岡田に避妊具をつけてあげたりして手練をついみせるユカは、その後、自分のそれまでの男性体験が10人と告白させられるが、性的遍歴の恥辱が、そのまま光源化してしまう古谷的存在の逆説を表現できていなかった。なにより「直言」の唐突さが運営できないのだ。
 
肝腎のシリアルキラー「森田」はどうか。原作マンガでは、古谷特有の眼と眼のあいだが離れた「サカナ顔」として表象されるこのキャラクターは、顔だちの整った、しかも性格の温順さが表情のどこかに滲みだす森田剛によって演じられている。森田剛の「人間性」には、存在の物質的な共約不能性はない。むろんそれはマンガのキャラクターと俳優とのあいだに必然的に起こるイメージの齟齬にすぎない。
 
ところがこの森田剛は映画『ヒメアノ~ル』の終末20分ていどで起こる「不穏な爆発連鎖」を予備するふくみを彼なりに表現していた。原作でのズレと蛇足と無計画によって偶発的に連鎖する森田の殺人遍歴は映画では極端に省略され、行動の迷走から逆照射される、本当に怖ろしいシリアル殺人の無思想性(というか思考不可能性)は物語形成からは感触されない。それでも森田剛は、高校時代の残忍きわまりない「いじめ」に巻き込まれた体験、その報復として「ワグっちゃん」とおこなった殺人を「因果関係」の基軸にしながら、その端々でみせる無気力、自己把握の不能、頭痛、放心、(どうでもいいという)投げやり、無計画によって生じた偶有性を踏破してしまうこと、本質的なバカであること――などによって、(反)哲学的な存在へと昇華するのだった。いま述べた属性こそが、「悪意」「計画性」よりもさらに怖い――それこそが「現代」で、作品に現在性の色彩をあたえたのは、森田剛といえるだろう。
 
たとえば公園のベンチで森田が、岡田を待ちながら喫煙している。路上喫煙禁止の啓蒙係として老人が、森田の喫煙を咎める。森田はすぐに煙草を消す。このとき「直前まであった喫煙を注意する」老人にたいし、「いま煙草を吸っていない自分が無謬であること」で抗弁する森田。通常の時間性が飛び越えられた論理を森田は展開しているのだが、この逸脱に気づかない彼には、思考の深部に穴が開いていて、それが恐怖の文脈におさまるのだ。原作の物語をスピーディに消化しながら、このディテールを外さなかった、脚本も手掛けた吉田恵輔の優秀さはこの場面からも伝わってくる。森田が欠いているのは「的中」だ。かさねられる殺人は、行為上はそのひとつひとつが的中していながら、森田自身の感覚には、あるいは意味形成にはまったく的中していない――おなじ事態がこのちいさな喫煙注意のディテールからも窺われたのだった。
 
古谷実のマンガの映画化のしがたさは、古谷的人物が何らかの行動を起こす空間=舞台に選好性がなく、ただ現実的な通用性のみを帯びている点からも生じている(となると『ヒミズ』の主舞台、池に面した淋しい「貸しボート屋」だけが例外を形成していることになる)。吉田はそうした宿命を、作品終盤の爆発のために、変更しなかった。たとえば冒頭、ビル清掃を通じて、岡田と安藤にはじめて交情が生じる場面では、変哲のないビルの玄関部分が捉えられ、しかも画面中いちばん大きな比率を占めるのがその灰色のゆかだったりする。
 
映画的粉飾とは無縁な美術上の貧しさは、これまたユカの働くレストラン的な喫茶店でも踏襲される(これも「ありもの」の借用だ)。しかもユカ―彼女の職場での立居をチラ見する安藤・岡田―それとは別方向のテラス上でガラス窓ごしにさりげなさを装っている森田、この3位置の関係性すらさほどカッティングで強調されていない。前言したことだが、ムロツヨシ演じる安藤は、蕩尽的な多弁とその奇怪な恋愛論理を封殺され、ドラマ上の恋の迷走も省略され、原作マンガのような爆笑装置とはなっていない。好演はしているが。
 
森田が往年の殺人事実の公開をネタに送金を強要するホテルの跡取り息子「ワグッちゃん」(駒木根隆介・扮――その恋人役「久美子」に扮する山田真歩の風情はすばらしかった)が、久美子の使嗾により、恐喝主・森田の殺害を決意するのは、原作ではセックスの高揚が引き金になっていた。それも割愛され、原作にあった森田の偶発性の高いパチプロ殺害も省略され、運転免許のない森田が死体運搬・埋葬のために運転手役を必要とするという設定も除外された。ワグッちゃん―久美子の森田殺害計画は、岡田殺害の助力をすでに電話でワグッちゃんに依頼していた森田のアパートの部屋で実行に移される。原作では半分すぎあたりに出現するこのエピソードは、映画ではまだ前半にあたる部分に置かれ、物語の転調を効果的にする物語の「溜め」すら等閑されている。
 
彼らは返り討ちにあってしまう。失敗したのは、首絞めのための縄の差出しを滞った久美子の動顛からだ。ワグッちゃんは包丁でめった刺しにされて大量出血、末期の痙攣をかたどっているし、久美子の殺害も残忍きわまりない。吉田の演出は、物語をスピーディに駆け抜けても、殺人にともなうディテールは省略しない――これによって低予算映画に緊張の芯棒を通すということだっただろう。
 
このとき初めて編集の荒業が出来する。初交合渦中の岡田とユカはいつしか後背位での性交をおこなっており、ユカ=佐津川の臀部が画面手前に突きだされている暗示的な構図が選択されている。これとシーンバックされて、臀部を突きだした久美子=山田真歩にのしかかってその背中をめった刺しにする森田がその背後から捉えられるのだ。あってはならぬ同調。首筋を斬るなどの手練がなければ、包丁で致命傷を与えるためには不恰好なほど回数の多いめった刺しが要る(この点は、そののち屋敷に闖入して一家の主人を玄関口で殺す森田にも踏襲される――なお、原作マンガで森田が闖入したのは、絶望感にさいなまれる奇妙な天涯孤独の女の家だった)。とりわけ殺傷箇所に肋骨があれば刃こぼれをも付帯するだろう。そうしたリアリティを、行為の物質感として吉田恵輔は過たず画面運動に転写させたのだった。
 
観客は気づく、この映画では暴力が二重になっていると。まずは包丁による、やがては警官・鈴木卓爾から奪った拳銃発射による、森田の暴力の直截性。包丁では不恰好な反復、拳銃では不気味な間合いを突き破る突発性が主眼となる。もうひとつは、岡田―ユカ―安藤の織りなす「ひねくれた」恋愛映画的な日常性と、その周囲に頻発する森田の殺人とが、ドラマ上、因果がふくめられているとはいえ、感触としては無媒介に織りあわされているその組成そのものが暴力的だということだ。これを運動的には「攪拌」とよぶべきかもしれない。
 
とうぜん攪拌は、岡田たちの第一世界と、森田の第二世界との合流を予定することになる。このとき満を持して脚本・監督の吉田恵輔がおこなったのが、原作の結末の大胆な改変だった。原作からは「外れた」新規な展開が、終盤20分くらいをおおいつくすとき、観客は異様な恐怖と興奮へ導かれるだろう。しかもこの改変は『ヒミズ』における園子温の「歪曲」とはまったく似ていない。吉田がおこなったことは、原作に潜勢していた内在域の純然たる増幅だったからだ。
 
ネタバレになるので、以下は迂回的な記述をとらざるをえない。事態はタイトル、キャストクレジットが出てくる作品中盤から変化してくる。あるいはユカのアパートの部屋の扉を森田剛が執拗に蹴って、それを隣の住人が咎めるあたりから厭な感じに変化してくる。執拗さそのものがおぞましいのだが、その執拗さに「放心」がふくまれる森田の存在的な不如意のほうがむしろ衝撃なのだ。
 
古谷の原作マンガの終盤では、主要人物のうちユカ、安藤はなかば忘れられた存在になってしまうが(これを構成の不備ととるか、蓋然性計算ととるかは微妙なところだ)、映画は①「森田の領域」と②「岡田・安藤・ユカの領域」を近接性によって密接に縒り合せる。絲が軋む。「伏線」によって物語をより進めなくてはならない映画が①②の距離化を踏襲すれば瑕疵となるだろうが、敢然と吉田はそれに抗った。しかも①②が重複すれば、色合いは①のそれへと集約される。結果、映画はただ「暴力」によって、ありきたりの「できあい空間」に深甚な色彩を付加したのだ。スピーディな作劇からは一見判別しがたいが、監督吉田のおこなったことは、攪拌とミニマリズムが離反しない奇蹟のような融合だった。
 
森田剛によって、ムロツヨシ、佐津川愛美、濱田岳に何が起こるか――その原作にないディテールは、マンガという基底を底からぶち破る、真の暴発といっていいものだ。このために序破急の呼吸が作品全体に選択されているのだが、その「序」すらスピーディで、全体がノンストップにおもえるのが映画版『ヒメアノ~ル』の特質だった。吉田はマンガ原作の桎梏から逃れるとともに、語りの形式をも発明したのだといえる。
 
起こったことは書かないが、原作から付加されたものを最後に暗示的にしるしておこう。まず森田が運転免許をもっていない原作の設定が外されたことは、最終局面で映画的な果実をむすぶ。このとき「犬」が活用される。さらには、濱田岳=岡田には、高校時代の森田=森田剛を救出できなかった決定的な瞬間があった。濱田の森田剛への説得などにはそうした因果法則・心理機制が働いている。それが抒情的な音声を展開に侵入させもするのだが、決定的な事柄は別にある。岡田が慚愧する過去の具体性を、まったく非対称に森田が記憶していなかったことのほうがむしろ骨子なのだ。非対称性そのものが鈍く「非―的中領域」を的中している――そうした「世界のざらついた感触」こそが、映画『ヒメアノ~ル』の真の主役だったのではないか。最後の森田の右脚の断面から血がしたたる音もそこから発せられていた。
 
――6月12日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。書き忘れていたが、映画の上映時間は、ありえないほど圧縮された99分だった。
 
 

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2016年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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