連詩大興行(2)
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(承前)
つまりは、連句的時間がある、ということだった。
あらためて整理すると、
多人数で局面局面の「五・七・五」「七・七」に句作の役割を配分し、
前句をうけてトータル36句を進行させ完成させる際に、
一句・一句の接合面には機知によるズレ(見立て替え)があって
それで時間・空間が単純接合ではなく
ダイナミックに反転する側面ももっている、ということだ。
こうした手つきから通常の「ただ流れるだけの」時間とはちがう、
スケールの大きい、「人事」の匂いに溢れかえった
翻転を繰り返す詩の時間が成立してしまう――
芭蕉を宗匠とした一座の連句の醍醐味はまさにここにあっただろう。
僕はたまたま芭蕉、芭蕉、としるしているが
門人、地方の粋人、金満家(これらが多く開催者となる)など
多彩なメンバーによって開かれる連句の座は
集団創作であるかぎり
一人の主体に創作の全体を帰することもできない。
むろんそれはそれ自体でユートピックな光景と映る。
これが「作者は死んだ」(フーコーやバルトなどの発言)を旗印に
文学解析の方向を変えたポストモダン以降の潮流とも照応し
70年代以後に、詩人同士の高踏的な連詩が
一部で繰り返された理由ともなっているだろう。
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さて、分節単位とリズムのはっきりとした連句的な組成を
(自由)詩がそのまま簒奪することは構造上、不可能だ。
言葉の濃度がちがう。古語とはそういうものだし。
ならば芭蕉連句「見立て替え」の醍醐味を僕らはどう実現するのか。
たとえば4行程度の独立詩聯をメンバーで連続させてゆく
現在の連詩の多くの作例では
前の4行を後の4行が見立て替えるというような試みは
あまりなされていないようにおもう。
詩想の発展が最大の眼目で、
その付帯効果として、見立て替えではなく
「ポジジョンの立ち替え」といったものがおこなわれているのだ。
たとえば前任者が詩篇に日本的なイメージを籠めれば
後任者はそこに古代ギリシャ的なものを籠めよう、とか。
そして前任者の詩篇から透けてくる主題にたいし、
一種の批評的な肉付けがなされる――
おおかたの詩篇の「運び」の眼目はそのへんにあるのではないか。
ただそれでは空間が変転しながら、
見え出した主題の色彩が濃くなってゆく
一風変わった長篇詩の作成と選ぶところがない。
全体は実は「一貫している」。つまり作者の個別性が弱い。
だが芭蕉連句の全体性は「全体であると同時に」「割れている」。
この時間性の面白みが4行詩連鎖による連詩にほぼ見当たらない。
組成を一瞥しただけで、それが見当たらないという印象も起こる。
こうしたことは連句を「ある程度」理解したうえで
安直に連句の特性を詩に当てはめてしまった点に起因していないか。
ならば僕らは代わりの方法を編み出されねばならない。
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もともと詩篇には、詩行の運び自体に
連句的なズレや跨りの意識があるものだ。
稲川方人の詩を試しに例示してみよう
(『われらを生かしめる者はどこか』より
(路傍)と括弧をつけられた詩篇単位――
論議上、詩行アタマには算用数字を付す)。
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1 無常の造形としてすぐれ、
2 さらにみちたりている罪は幸福だ
3 路傍よ
4 その罪のあるところを道として、
5 うしなわれた馬が走った。
6 強烈のさとり、
7 よきもあしきも、
8 それは迷わぬいっぽんの坂を謎として
9 手をあげる。
10 乗り合いバスがきた。
11 ここに在るから、
12 のちの世の、またの地までゆく。
13 強烈のさとり、
14 生けるものの無言に一拍して、
15 やつぎばやの現代だ。
16 まぢかの永遠がみだれる。
17 もう一便、
18 乗り合いバスが来て、
19 手をあげる。
20 よきもあしきも
21 ともにかたぶいた。
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上記にかんして、詩を書く者には
詩が一行ごとに発想される際の、
飛躍、回帰、気散じ、疲弊などを含んだ「呼吸」が
生々しく伝わってくるのではないか。
教科書的には坂道でバスを待つ者がいて、
その者が抽象としての「待機-到着」に
バスの実在性を超えた時間哲学を紡いでいるという解釈が成立する。
馬の幻像の提示も「本気」だし
現代を生きることの疎外意識も正直だ。
ところで行表示1、2なら美学的述志が伴われているが
詩行の運びは「路傍よ」と問いかけたところで
とつぜん別次元にズレてしまう――
この発想の飛躍がたとえば連句的なのだった。
ルフランにあたるものが詩行内に間歇的に散ってもいる。
まずは6、13の《強烈のさとり、》がそれで
僕は、これなどはすごくヘンな詩句だとおもう(笑)。
用語に無理というか駄目押しがある。
7《よきもあしきも、》、20《よきもあしきも》、
11《乗り合いバスがきた。》、18《乗り合いバスがきて、》など
ほかにも相互に近似する詩行が詩篇のなかに散っている。
これらは詩想の膠着をしるすのではない。
連句的な前後関係により一行の立ち方が微妙に異なっていること、
つまり同一性ではなくむしろ偏差をしめしていると僕はとる。
それでいながらこんな少ない全体詩行のなかで
ロマン派音楽のメインテーマのような主題回帰と似たものが
この「(擬似)反復」によって演じられてもいる。
ただこれも「同一性をともなった回帰」というよりむしろ
「ズレを孕んだ回帰」というべきで、
このときにも稲川詩の時間が
連句性のほうに親近しているという判断がさらに生まれる。
連句独吟のようにこの詩篇が書かれていないか。
そうして「孤独」も立ってくる。
ここでの稲川方人の凄いところは、
必殺詩行の提示が16《まぢかの永遠がみだれる。》、
あるいは少し点を甘くすれば、
21《ともにかたぶいた》と極端に抑制されている点にあるとおもう。
それで読む者には1-2行目とこれらのみが印象に残ってしまう。
ではそのあいだにあったものとは何だったのか。
「透明な時間の連接」だとおもう。
それがまた、詩行の連句性を指示しているというのが僕の判断だ。
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詩行の運びがそれ自体で連句性を志向できるという点を
いまの例示でご理解いただけたとおもう。
例示は稲川と実は似た詩行の運びをする西脇順三郎でもよかった。
すると、逆を即座に立証できることにもなる。
4行詩篇を連鎖させてゆく連詩の方法では
その4行内から連句性が逆に奪われてしまうのだった
(4行という単位が短すぎる)。
だから4行の「単位」のやりとりだけが前面に飛び出す。
ところが、「4行単位」同士の連接では
前記のように、見立て替えがほぼ介在していない。
だから全体が単純加算の単調な印象もあたえてしまう。
そうしてむしろ見立て替えの複雑さや脱臼感の栄誉は
たとえば稲川詩が詩行の運びに内在しているものが担うことになる。
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では僕らのような総計12人という連詩の「座」で
見立て替えを自然におこなうためにはどうしたらいいだろうか。
芭蕉型連句では「替えられる」「見立て」の対象は
たとえば人物の動作を示す「七・七」や
ある季節の世界を表す「五・七・五」といった
参加者一人の持分の「総体」だった。
その「総体」がクルックルッと捻られて
その捻りが連続することで
連句的時間が稔り豊かに進行していったといっていい。
ならば着眼の単位をもっと「部分」に縮減したらどうか。
前任者のつかった詩語、あるいは詩的フレーズを
後任者が見立て替える(対象は単数でも複数でもいい)。
見立て替えて、それを自分の詩の時間に組み入れる。
そうして相手の示した世界を自らにズラして包含することで
詩の時間が大きく連続して流れてゆく。季節も推移する。
このとき詩篇同士の細部が、当然「ズレ」のスパークを発する。
これは(自由)詩の媒体属性に即した方法だ、とおもう。
連句のもつ形状性に4行詩連鎖のように引かれてもいない。
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同時に、参加者個々の詩篇では、それ自体に、
連句的な時間の「ズレ」も孕まれているようにする。
僕らはそれで連詩運営のための「規則」をさらに考えた。
出した結論は、ひとりの詩篇が行アキを含まないトータルで
30行の鉄則を遵守すること、これがひとつ。
自分の現実をも詩に組みこむこと、これがふたつ。
このふたつの原則は実は「対」だとおもう。
30行は詩篇として長いとおもうひとは案外、多いだろう。
しかもそのなかに自分の現実を「も」組み込むべしといわれれば
当然、詩篇は、聯の区別があってもなくても
意味上のレベルで「内部分割」される。
その「内部分割」にこそ連句的接合のズレが生まれるのではないか。
もうひとつ。
後任者が前任者の詩想をうけて何かを「付ける」とき
詩語や詩的フレーズの「見立て替え」を眼目におくという規則は
「見立て替え」対象の選択を相当程度に自由にするだろう。
これで「4行連鎖」的な逼塞から参加者が解かれることになる。
さらに。
芭蕉連句の魅惑は、たとえば圧倒的な月の句が組み込まれる一方で
「雑事」「人事」の人間臭さに溢れ返っている点にもある。
それが「自分の現実をも組みこむ」という約束によって
自然に実現されてもゆくだろう。
そうだった、4行連鎖型の連詩の多くは
詩的に純粋な組成を誇るものが多く、それなりに高潔だが、
芭蕉連句的な「雑味」「俳味」にほぼ欠けていたのだった。
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使用された詩語(別段キレイなものと限らない)と詩的フレーズの
「見立て替え」という点については
まだまだ具体的な例示をして説明を加える必要があるとおもう。
もう長くなってしまったので、以下の展開は次の日記で――
(この項、つづく)