べつのはなし
去る6月29日は、ビートルズ来日50周年記念日だった。本日の北海道新聞夕刊掲載コラムではそれにちなんで、ビートルズ関連の番組・本、さらにそこからアナロジーされる音楽本をあつかった。NHKのドキュメンタリー「アナザーストーリーズ・運命の分岐点・ビートルズ旋風」、大村亨『「ビートルズと日本」熱狂の記録』、大山甲日『フランク・ザッパを聴く アルバム・ガイド大全』。記事の紹介は書かない。北海道在住のかたには、ぜひ実地に読んでいただければ。ポップな記事だとは保証しておきます。
ここではべつのはなし。
ぼくは自分の四大ミュージシャンを、ジョン・レノン、ジミ・ヘンドリックス、フランク・ザッパ、筒美京平だとよく説明する。それに加えるなら熱狂対象は、ザ・バンドとニール・ヤングとルー・リードとエリック・ドルフィとスティーヴ・レイシーかな。マニアックな名前もさらにいろいろあげられるけど(そういえば少しまえに、大阪からいらした近藤久也さんご夫婦を、岩木誠一郎さん、海東セラさん、それとぼくが札幌の居酒屋で歓待したとき、なにか70年代音楽の無茶苦茶マニアックな話になったなあ――エイモス・ギャレットとかジェシ・エド・デイヴィスとか、スライド・ギタリストベスト3とか)。
ジョン・レノンはビートルズ結成時から解散時までずっと好きだが(なにしろ歌詞発想に飛躍のうつくしさがあり、歌唱力のみならず変化能力という点でも稀代のヴォーカリストだった)、とりわけジョンのテンション・コード、テンション・メロディの独自性を大切にしている。ルーツミュージックの「構成」に驚くべき冴えを発揮するポールとちがい、ジョンは身体性あふれる発想のゆがみによって、曲をべろんべろんに曲げたり、ひしゃげさせたり、憂鬱きわまりなく悲哀化させる。アマルガム合金というかキメラ的コラージュもアートっぽくて、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の曲展開(未定着的な中途と、ぐにゃりとしたフィニッシュが交互する、真にサイケデリックな小歌曲)など、いまだに奇跡的だ。そのジョンの魅力については『精解サブカルチャー講義』でくわしく語ったこともある。
そういえば昨日は長い教授会のあと、文学研究科恒例の屋外ジンパ〔北大キャンバス内ジンギスカン・パーティ〕。途中、蔵田さんが「阿部さん、プログレ好き?」と訊いてきて、研究推進室の森岡さんをまじえ、「同世代」ロック談義となった。ぼくは、フランク・ザッパをプログレというならプログレは好きだが、イエス、ELP、クリムゾン、ピンク・フロイドなどはほとんどスルーしました、とこたえた(カンタベリー・ロックの話まではゆかなかった)。
そのザッパ音楽を説明するのに、やはり「テンション」を出した。テンションとは楽理的誤謬、自己解釈、歪曲のことだが、ザッパはテンションを楽理化できる。ふかいレヴェルで現代音楽につうじているためだ。その立ち位置は、ブルースっぽいギターアドリブに教会旋法や半音階スケールが入り、それらがアドリブでありながら作曲の産物であることにも似ている――そうふたりに説明すると、ちんぷんかんぷんだったようだ。アドリブのすごさはどう規定したらいいのか、というおふたりの問いには、驚愕付与力とともに、引用力、記憶力による自己フレーズ反復回避と展開力のすごさと答えたら、森岡さんなど、「わぁ、むずかしい、こんど酔っていないときにゆっくり聞かせて」ということになった。ザッパの作曲は、それと同時に編集(往年ならテープ編集)の要素も加わることになるのだが。『200モーテルズ』までのオリジナルアルバムはロック、ジャズ、現代音楽、奇形ポップスの融合したロックの到達点。これは今後数百年変わらないだろう。
まあ、それでも音楽の魅力は声、音色〔おんしょく〕の唯一性かもしれない。声や音色だけで、才能のつたわる唯物的な絶対条件が音楽だというと、元も子もないかな。じじつザッパの当時の音も、カンタベリー系とくらべると絶対的に「おいしい」(スラップ・ハッピーだけが例外)。そこで美は可食的〔食べられる〕、といったダリをおもいだす。といって、ダリはさほど好きではないけど。
そういえば、森岡さん、ぼくの詩がお好きなようで、ぼくを「ひらがなの魔術師」と褒めてくれたなあ。うれしかった。