タナダユキ・お父さんと伊藤さん
【タナダユキ監督『お父さんと伊藤さん』】
昨日、試写で観たタナダユキ監督『お父さんと伊藤さん』がとても「いい味」だった。人間はもともとほとんどが「言い足りない」存在で、その言外の域が、そのひとのいる環境と見分けがつかなくなる。そこに切なさや可愛さが揺曳すると、ドラマの表面的な起動部分以外の細部――いわば空気のようなものに惹かれてゆくことになる。
10月8日公開なので、まだ具体的な細部分析は控えるが、概要ならこうだ。34歳、書店でアルバイトしている、どこか人生の運営に的中感のない上野樹里がいる。その上野より20歳年長の同棲相手が「伊藤さん」=リリー・フランキーで、彼もまた仕事は「小学校の給食のおじさん」で、飄々としているというより得体が知れない(彼の得体の知れなさはドラマが進むにしたがいいよいよ深化してゆく)。そのふたりのこじんまりした生活の巣に、長男(長谷川朝晴)の嫁(安藤聖)と折り合いのわるい上野の父・藤竜也が飛び込んでくる。狭い生活空間が共有され、それぞれの居心地わるい身体が一触即発の危機を迎える――作品の設定は一見そのようにおもえるが、そうではないだろう。一触即発ではない身体の相互治癒力、その萌芽のほうを、見据えているのだ。
藤竜也の役柄が強烈だ。まず語尾が癪に障る。気に食わないAという事象が彼にあるとする。すると彼は「Aでいいのかな」「Bだとおもうんだがね」という言い方をして、「Aをやめろ」「Bにしろ」という命令形を避ける。この回避により、相手に選択の余地をあたえるようにみえて、実際にはそんな余地の一切ないことが、ことばのやりとりのみならず、空間じたいに逼塞感をあたえてゆく。面倒な者、ウザイ奴、KY――いかようにも彼を形容できるだろう。
藤が長野という教育県で小学校教員を勤めあげた、履歴上は実直な男とわかってくる。こどもだった上野や長谷川には、たぶん父・藤にまつわるやさしい思い出がほとんどないのではないか。徹底的な堅物、抑圧類型、自己信奉者。たとえばとんかつにかけるソースに中濃ソースしかなかったことで、藤の厭味な物言いが飛び出す。「ウ-スター」ソースしかありえないと藤は言うのだが、返す刀で披瀝される中濃ソース批判の舌鋒が必要以上にするどく、執拗で常軌を逸していて、この否定力は、たぶん家族をも対象にできるという予断をうんでゆく。
たぶんその藤と上野ではドラマにならない。そこに緩衝剤としてリリー・フランキーが介在し、いったんは生活の甲斐性のないリリーを藤が白眼視する気配がつたわりながら、やがてリリーの多趣味、余裕、地に足のついた生活感を藤が認めだす反転力も伝わってくる。それらすべてはほとんど科白として明言されない。すべては空気のなかにただよっているものだ。
気づくと、父親を嫌がっているはずの上野にもどこか不逞な自己治癒力があって、父親からの強圧を無意識の図太さで跳ね返している。それに上野自身は気づいておらず、気づいているリリーだけが面白がっている。このときに空気的な領域をなだめてゆく身体のアンサンブルといったものが観客に意識されることになる。科白のやりとりからは出てきにくい三人への印象がうまれる――「可愛い」。
タナダユキの演出力が実際は突出している。シーンの移行にかんしてはジャンプカットにつうずる飛躍力のある運びが多い。たとえば藤竜也には、上野の尾行などもあって、意外な側面が次々に判明してゆく。ついには「箱」の秘密も暴露される。穏当で繊細な音設計のなかで、最大限の驚愕に巻き込まれる一節もある。ところがタナダの演出は基本的に平叙体をつらぬき、驚愕に驚愕性をあたえない。飛躍を充填する柔らかい空気がいつもある。つまり描出が待たれているのは、たえず驚愕であるより空気なのだった。
そこで機能するのが家の空間で、映画は上野・リリーのいる小振りの(家庭菜園のある)アパートから、大町の古屋敷という空間上、見事な動線をもっている。その古屋敷に舞台に移ったときに起こるもろもろは、リリーの設けた「設定」を度外視すれば、あるいはある一瞬を度外視すれば、基本的には「ありがちな」事柄が中心なのに、忘れがたい目覚ましさがある。示されるのは、たえず未遂にしかたどり着けない身体のもどかしさ、身体の寸止め性で、そこにこそ家族の相互性に関わる深い洞察が介在している。
飛躍が空隙を意識させない。空隙があるとすればそれもまた平滑感でみちあふれる。そのときに「色彩」の一貫性・集中性が機能している点なども見逃せないだろう。たとえばこの作品では「柿」「枇杷」「二度にわたる料理のフライの衣」「ウスターソース/中濃ソース」という橙色から茶色へといたる系譜が強調される。それが生の色なのだ。「枇杷をよろしく頼む」「ついでに娘をよろしく頼む」という藤竜也のズレを孕んだ発語の展開は、「Aでいいのかな」という語尾の欺瞞が、平叙の領域に侵入してきたものだ。それに人物たちは気づいている。あるいは気づくことなく気づいている。最後に上野樹里のとる行動が何なのかは、この点から判断されなければならないだろう。
ともあれ人物たちとおなじように、映画もまたうつくしい寸止めで終わる。けれども未遂で終わるものすら、明察者にとっては完遂でしかない(リリー・フランキーがまずそれをしめし、それが藤・上野の父娘にも伝播してゆく)。潜勢とは、つねにすでに実在性なのだ――『お父さんと伊藤さん』が提出したものもそんな哲学だった。