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庵野秀明シン・ゴジラ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

庵野秀明シン・ゴジラのページです。

庵野秀明シン・ゴジラ

 
 
【庵野秀明『シン・ゴジラ』】
 
昨日ようやく、女房と『シン・ゴジラ』を観た(@109シネマズ木場)。いやあ、おもしろかったの、なんの。映画館は満員、しかも夫婦50割引のカップルが客席に目立った。第一弾の感想を、簡単にメモ書きしておきます。
 
もちろん怪獣映画=ゴジラ映画だが、危機管理をめぐる皮肉な政治コメディでもある。無限に飛び出てくるとおもえる俳優たち(政府関係、技術者中心――マスコミの扱いは軽減されている)。それぞれの発話が早く、いきなりの飛躍的確信に突っ込みすら入れられないほどだ。速度そのものが解決、というスクリューボールコメディから50年代後半の日本映画にわたる映画法則が作品全体を覆っている。川島雄三『愛のお荷物』あたりの雰囲気をおもった。オマージュの中心はまずは岡本喜八。冒頭に出現するプレジャーボートの所有者、さらにはゴジラの存在を確認し、巨大不明生物を「ゴジラ」と命名していた先行者として、岡本喜八監督が「写真出演」している。
 
語りのめまぐるしい速度が全篇を猖獗する結果、「憶えられない」という身体の第一反応が出る。この「憶えられないこと」はしかし映画鑑賞の難点ではない。「憶えられなさ」がむしろわけのわからない体感の昂揚につながるためだ。ハリウッド大作はすべてこの領域にひっかかるようにいま製作がなされていて、監督・庵野秀明が全篇にわたらせた編集リズムも世界性を視野に入れている。往年の実写作『ラブ&ポップ』の余栄があるかどうか。
 
ゴジラは上陸し、東京を中心として歩行、歩行域を廃墟に変え、最後はその歩行を中断するのみだ。つまりその行動は知性や心性を承認させるものではない。ところがゴジラは同時に「象徴」でもあって、その象徴化は人間側のなす定義、右往左往、「駆除」の方法などから逆照射されることでなされる。ゴジラは過程であり、定義の生成であり、実体なのに実体ではない。ゴジラのうごきと人間側の反応しか描かない本作には物語=ストーリーがないともいえるだろうが、「刻々」がすばらしく生き生きしているのは、「刻々」がまさに「刻々」として描かれているためだ。庵野秀明の英断をかんじる。道義臭をもつ教訓など何もないのに、「カフカ→ベンヤミン」ラインのアレゴリーが、ゴジラをつうじて生物感たっぷりに「うごめきつづける」のが見事だ。むろんベンヤミンの浮上は廃墟化にかかわる。
 
分岐・融合する、あるいは融合・分岐するゴジラの象徴系=暗喩系をまとめておこう。
 
映画史上の神話といってもいい『ゴジラ』第一作は、アメリカによる太平洋上の水爆使用、あるいは空襲記憶という「尾ひれ」がついていたにしても、神性の「出現=エビファニー」にまつわる純粋な映画的運動だった。ゴジラは山の端からの気配として、さらには尻尾などの部分=換喩としてまずは徴候化され、出現にいたるまでの間合いは、逃げ惑う人々、彼らの見上げる視線などにより、間接的な「影の位置」に曖昧に定位されてゆく。超常現象=化け物映画はこの出現の呼吸を描かなければならない。そうして『ジョーズ』『未知との遭遇』『エイリアン』『グエムル』など諸傑作の系譜が『ゴジラ』を嚆矢として映画史を縦断することになった(先行作といわれる『キングコング』は実際にはこの系譜外といえる)。
 
庵野が造型したシン・ゴジラは、ゴジラ映画史上、最もグロテスクだろう。尻尾などの換喩的示唆があったのち、その出現はあっさりと画面定着されるが、その定着がゴジラ造型の完成形ではない点にふかい洞察が窺われる。成形が完了していないがゆえの「ルック」の野蛮な拙劣さ。海底火山など他の異変可能性が消去されたのち「巨大不明生物」として定位された初期段階のゴジラの歩行を振り返ると、それは「這いずり」と歩行の曖昧な中間を動態化され、ひどい腐臭をもつ血痕を進行域に付帯させる。そのゴジラが内的変態を経て成形を完遂させ、ついに直立歩行を可能にしたときに、伊福部昭のテーマ曲が鳴り響く。これがゴジラ「出現」の瞬間だった。「出現」を遅延=差延させるこの手つきに、デリダ的な知見をおもわざるをえない。
 
ゴジラの体表は、例のごとく、鱗というよりも硬い葉片をちりばめ、その隙間から地肌が覗く態のもの――その後の円谷プロの怪獣造型ではピグモンなどに継承されるもの――だった。地肌が赤く、その赤が血とマグマ的な地熱双方を指標するのが造型上の手柄だろう。血は、もちろん「生きている機械」「肉でつくられたロボット」「腐敗可能な人工性」という逆説的な組成に結びつく。これが『ナウシカ』の巨神兵(庵野が造型+アニメートさせたもの)、さらには庵野自身のエヴァにむすびつくのは明らかだ。エヴァンゲリオン化されたゴジラが、シン・ゴジラだった。
 
宮崎アニメとの関連でいえば、ゴジラは放射能をふくんだ熱光線によりビルディングを寸断させ、その周囲の秩序を不可逆的に変容させてゆく。前者は『ラピュタ』のロボットだし、後者は『もののけ姫』での、ダイダラボッチ化したシシ神だろう。ただし全能性だけが強調されているのではない。とりわけ変態前の未成形状態をもつこと。そのときの前肢=腕が極小なこと。サリドマイド禍の児童をおもわせる。そういえばピグモンも腕=前肢が矮小化していた。いずれにせよシン・ゴジラには幼児性も装填されている。ここから庵野自身がゴジラに入れ子させられている見解も浮上してくる。
 
成形完了後のゴジラでグロテスクな発達の中心となるのが口腔と歯だろう。「口腔空間」とよべるものはサーモンピンクの襞が重畳する形状をなしていて、かつてのバイオ怪獣「ビオランテ」の頭部形状をおもわせる。歯はこまかい多数性・雑多性・猥褻性をほどこされている。「有歯膣」をおもわざるをえない。一般にゴジラ型怪獣の頭部は男根象徴だが、歯と口腔は有歯膣で、その意味では雌雄同体なのだった。典型が、未公開ビデオで大人気だったデッドリー・スポーンだろう。しかもそれは腐食侵食をほしいままにする粘液もしくは漿を吐き散らした。
 
シン・ゴジラにあったのは、粘液でなく、放射能だ。海中でのその成長過程に、放射性物質の捕食があったと推測されるがゆえに、この作品のゴジラはその進路のあとに放射性物質を残存させる。ところがやがて核ミサイルを撃ち込まれると、とうとう全身から熱光線を放射させるようになる。順序があったはずだ。戦闘機の攻撃を受けたゴジラはいったんうずくまった。それで「最初は」放射能とおもわれるものを、その口から「嘔吐」したのだった。嘔吐という動作の人間性、動物性。そういえばそういった人間性がかつてのエヴァや巨神兵を不気味にさせていたとおもいだす。怪物性と人間性の境界消滅そのものが不気味なのだった。つまり庵野は怪物性のみの先験的な不気味さを承認していない。
 
ゴジラは解析の結果、遺伝子数の多い、最高度の成長生物、しかも世代間ではなく自己内で進化を遂げる生物の未知形態といった「診断」を受ける。融合されたものの無限性がそうした見解の後押しをしているだろう。ところがそれは記憶にあたらしい領域を「忘れてはならない」と賦活させる。まずは3・11東日本大震災と福島第一原発事故。羽田沖から大田区吞川への未成形ゴジラの最初の侵入=上陸の際、人々の「逃げること」が至上とされたのは、むろん震災時の津波の記憶によっている。のみならず、ゴジラののこす放射性物質が厄介なこともくりかえし強調され、作中「除染」の語も反復された。
 
本作の政治コメディのディテールには、望まれるべき国際協調に横たわる「思惑の落差」「大国支配」への揶揄もある。ところでゴジラが東京駅で凝血剤を撃ち込まれるまえ、いわば弾道化した山手線、京浜東北線などの無人車輛がゴジラに突っ込んだのち、丸の内などの高層ビルをミサイルが貫き、倒壊崩落したそれらがゴジラのうごきの自由を奪ってゆく細部がある。むろんこの高層ビルの崩落映像は、9・11同時多発テロの変奏だろう。
 
着ぐるみ的な不恰好さをあたえられていたとしても、ゴジラのうごきは着ぐるみにはよらない。公開時に、ゴジラの外観とうごきがどうCG表現されたかがあきらかになった。輪郭となる身体のポイント、ポイントにマーク標的をつけた狂言師・野村萬斎にゴジラとしてうごいてもらい、そのマークの位置変化からゴジラの「うごく身体」が立体合成されたとのこと。「モーション・キャプチャー」の技法だ。ゴジラは歩行しかしていないとしるしたが、その歩行は能=狂言系譜の「すり足」で、そこに動作の日本性が込められていたことになる。
 
以上、ゴジラ的身体に凝縮・錯綜している暗喩の系譜を示唆してきたが、問題はゴジラの身体は単独に顕れるのではなく、背景となる風景との複合として表象させる点だろう。したがってゴジラは東京の風景論を付帯的に起動させる。とりわけぼく自身は大田区の呑川周辺に育ち、少年期を、ゴジラが第二次上陸する鎌倉で育ったから、実写召喚されている風景の個々に身体的なリアルをおぼえてしまった(とりわけ極楽寺と稲村ケ崎のあいだ、江ノ電の鉄路の下の小さなトンネルが画面定着されたときにはアッとなった)。
 
風景のなかにあるすべてはじつは惻隠の情をおぼえさせる――ゴジラ的暗喩の最終形とはそのようなものではないだろうか。風景のなかに屹立する巨大性とは、それ自体が悲愴だということだ。このときには、風景のリアルと、怪獣身体のリアル、その双方のいわば陥入が要る。そのために実景をもとにしたミニチュアや書割ではなく、実景がきめこまかく作品に召喚された。しかもそれは多摩川を境界線とする差別論、あるいは皇居を度外視する中心空無論といった、風景論に通暁する者にはさらに重層的なふくみまであたえるものだった。
 
さて『シン・ゴジラ』の行き着いた哲学は以下のようになるだろう。暗喩が一物体に集中すると、それは神性化ののちに、凝固と、意味作用の停止までもたらす。『シン・ゴジラ』はゴジラへの人間たちの作用をつうじて、文字どおり、「未解決のままの中断・停止」に行き着くが、それは、実際は戦闘の結果というよりも、イメージをもつものの招き寄せる一種の必然なのではないか。このことはもちろん時間性にも影響をあたえ、中断こそが正しい結末だという託宣まで導く。「結晶イメージ」にかかわるドゥルーズ『シネマ』の諸考察を、庵野はさらに発展させている――そうおもって震撼した。
 
 

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2016年08月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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