深田晃司・淵に立つ
【深田晃司監督・脚本・編集『淵に立つ』】
昨日、試写で観た深田晃司監督『淵に立つ』(10月8日公開)は、人間洞察にみち、演出も一種完璧な映画だった。感触のするどさは一級品だ。先の読めない、驚愕を盛り込んだストーリー(深田脚本)なので、ネタバレをしないよう以下を書かなくてはならず、暗喩的な記述を採ることにしよう。
一般に「聖画」とは、あつかうものが東方の三博士でも磔刑でも、聖書的記述との「合致」を目指す。その範疇に、たとえば聖書映画といったジャンルもある。いっぽう、「ズレた聖画」というべき表現形式もあるだろう。詩では江代充の作品などがおもいうかぶが、映画ならさしずめドライヤーやブレッソンの諸作がその代表だろうか。深田監督『淵に立つ』はあきらかにこの系譜に属する。
深田演出は、生起してくる出来事の原因や結果をただちにあかさず、画面に物語の不明部分の奥行きをつくることを得手としている。人間の彫り込みがふかく、謎めいた何かの伏在が聖なる感触もみちびく。金属加工を小さな町工場で営む古舘寛治、筒井真理子が夫婦の家に、浅野忠信が訪れてくる。古舘の旧知らしいが、久しぶりの再会で、その久闊の叙しかたが不自然な緊張をたたえ、みた目は品行方正きわまりない浅野の挙止からは得体の知れない威圧感もただよってくる。浅野の、娑婆との離反期間の長さはふたりの発話のやりとりでただちに知れるが、浅野の服役終了が容易に予想できたとしても、映画は浅野の犯した罪、ならびに古舘と浅野との本当の関係をすぐには語ろうとしない。後者にいたっては作品が終了を迎える手前だった。
「信仰」が作品の背景になっている。筒井とその娘(小学校3年くらい――正統美少女とよぶべき篠川桃音・扮)が食事ごとに、主への感謝を口にする。とつぜん一家の住み込み従業員になった浅野(古舘から筒井への事前相談はない)に、やがて筒井は自らが親から受け継いだプロテスタントだと語る。浅野は信仰には二つの型があるという。ひとつは猿型(親にしがみつく猿のように神をもとめる)、いまひとつは猫型(勝手気ままに親のあとを追う猫のように神への執着がフレキシブル)。浅野の前科も知らぬまに、浅野の美男ぶり、挙止の清潔さ、滲む教養に心を奪われてゆく筒井――その構図により、浅野が「聖者にとっての聖者」に位置づけられてしまうのが、作品が第一につくる前提だった。
聖なる闖入者によって家庭そのものがかき乱されるという構造は、「ズレた聖画」映画のひとつの定番だろう(『テオレマ』『家族ゲーム』『ビジターQ』――この構図を逆転すると『ビリディアナ』になる)。白をまとう、聖フランチェスコのように、不幸で清貧な聖者にみえた浅野の変貌は素早い。自身への筒井の執着(それはオルガン指導を受けた娘・篠川桃音も同型反復する)をみとるや、浅野は「裏切りのキス」でまずは筒井のくちびるの貞操をうばう。筒井の外見価値と相まって、その際の筒井の放心・法悦がむごい。
作品は二部構成になっている。前半、聖なる闖入者による家庭の化学反応をえがくとみえた結構は、その最後、途轍もない残酷さによって暗色化し(ただしここで残酷さを起動させる色彩は「赤」だ)、あらたにはじまる8年後の後半で浅野はドラマ上、登場しなくなる。登場しなくなるのに浅野は「気配」として作中に残存しつづける。具体的にはあらたに通い従業員として雇われた太賀(朴訥で真摯なイマドキの低層の若者を見事に好演)にゆっくりと判明してくる出自が、過去になってしまった映画の前半と、ドラマの現在である後半との蝶番の役割を果たす。浅野の残忍さに観客が心底戦慄したはずなのに、気配としてある浅野の幻は、それがまぼろしであるがゆえに聖化されている疑似印象をあたえる。それこそがこの映画の「ズレた聖画性」のまず中心にあるものだ。
救いのない映画、と多くの観客が感慨をいだくにちがいない。美少女の娘・篠川桃音が8年後の設定で真広佳奈に配役変貌されたときに現れている運命的な酷さだけが問題なのではない。太賀の出現が契機となり、浅野と古舘がどんな共同性をもち、娘の変貌を、あるいは8年前の筒井による浅野への性的執着を、どのように、古舘自身が受け取っていたのかが古舘から筒井へ語られる。その内容が違和感を覚えさせるほどに酷いのだった(実際、古舘の独白に、筒井がはげしい拒絶反応をしめす)。
あえて抽象的にいうなら、「罪」とともにある者にはすべてが「罰」として機能する、という容赦ない見解が語られたのだった。一切の恢復の不能。このとき家庭生活に積極性をしめさず、朝食のときも母娘の主への感謝を黙殺し、先に朝食に箸をつけながら黙々と新聞を読んでいた古舘のやる気のない振舞――その奥底に潜んでいた諦念の実相へと観客が踏み込むことになる。
ブニュエルの『ビリディアナ』がそのクライマックスで「最後の晩餐」の活人画を実現したように(それは森田芳光『家族ゲーム』のクライマックスで発展的に反復された)、この作品でもいわば「活人画」的再帰性が意図される。それが8年前の前半と8年後の後半を真につなぐものだ。
娘のオルガン発表会の前、一家と浅野、それにもうひとり知人をくわえて川遊びがおこなわれる。『ほとりの朔子』を撮ったこともある深田晃司にとって、水辺はたぶん「洗礼」にかかわる聖なる場所のはずだ。そこで定着されるのは、感興と疲労ののち河原のちょうどよい岩場で古舘と、それに寄り添って眠る娘・篠川桃音を、筒井が見つけて微笑ましさをかんじ、その眠りの列に浅野と、自分を加え、自撮りで撮影された、他愛のない家族画だった。仰臥する姿勢で平穏に並ぶ四人、うち両端の浅野、筒井がカメラ目線で、目に温和さを湛えていると一見おもえる(精確には並びの順は、向かって左から、筒井、篠川、古舘、浅野)。
この画柄が再帰的かつ変貌をともなって反復される。それこそが「ズレた聖画」だった。作品後半のクライマックス。浅野の幻の出現、さらには絶対にあると予想された墜落運動と聖なる水中撮影ののち、事態は緊急性から停止性へと復する。このとき根岸憲一の撮影は、ひとつの構図を、満を持してつくる。それが先の家族画の変奏だった。向かって左から右に、太賀、篠川桃音の8年後の少女=真広佳奈、筒井、古舘。仰臥の姿がならぶ点はおなじ、順番は入れ替わる。あるいは瞑目者の数は微妙におなじだといえる。むろん太賀と浅野には存在に連続性がある。もともと8年前の写真は、太賀が誰かをしめすための、作品後半の重要な小道具で、その8年後の疑似家族画そのものに、太賀が入り込んだ恰好になっていて、哀切もきわまってゆく。この画柄により、それぞれの「ドラマ後の」帰趨が予想されるのだが、その内容も酷い。
ただし最も聖画的な一瞬を湛えたのは、真広佳奈の顔に太賀の顔が近づいている一瞬を筒井真理子が発見したモニター画面だったかもしれない。太賀は悪意や色欲の不在を主張するし、太賀の略歴や性質からいってもその主張に信憑性があるとうなづける。それは無償さに貫通された「存在の確認」儀式のはずだったのだが、母親の筒井は無垢なものへの侵入と色をなしたのだった。ここでも聖画性のズレが主題となっていた。
いまや聖画性はズレを介在してこそ真正となる――深田監督のこの見解に異存はない。ただし、罪のなかにある者には生起するすべてが罰となる、よって一旦の罪により一切が無為となる、というのは本当だろうか。恢復可能性は、この作品の主要人物には訪れなかった。
筆者自身は、むしろ逆をかんがえる。罪のなかにあってこそ、その者の恢復可能性はすべての瞬間に充填される、と。作品題名「淵に立つ」はたしかにこのひろがりを予感させる。あるいは太賀が真率に語る一瞬の科白、「いいすよ、殺されても」にも瞬間にうめこまれた恢復可能性がかんじられる。この可能性をもっと随所に押し広げてくれれば当たりも柔らかくなっただろうが、潔癖な深田監督はそうしなかった。よって観客は衝撃のただなかに突き落とされるのだ。