黒沢清・ダゲレオタイプの女
【黒沢清監督・脚本『ダゲレオタイプの女』】
昨日は試写で黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』を観た。監督にとって初の全篇フランス語使用映画、フランス人俳優オンリー、外国人スタッフオンリー、全篇フランスロケの映画なのに、やはりヘンな味のある黒沢映画になっていたのが嬉しかった。
ゴシックホラー&ニューロティックホラー(ポランスキー『反撥』など)という絶妙のブレンド。ダゲレオタイプ写真機(分厚い立て板が物々しく重畳する構造そのものが、幽霊と機械の融合のようだ)による銀板現像がおこなわれ、黒沢好みの階段と吹き抜けのがらんどう空間があり、植物が育成される温室がある広壮な古屋敷そのものが「ゴシック」を醸成する空間となるが、再開発地域に指定され、いわばそれ自体「褪色」への傾斜をもっている。腐食の原因となるのが銀板写真撮影にもちいられる溶液内の水銀だろう。この作品は、像を不当に採取し静謐化し永遠化する(それゆえにベンヤミンはそこに、礼拝価値+一回性+遠さ=アウラ、をみた)銀板写真に、水銀との連接をとりわけ意識させる。しかもそれが瑞々しい水滴とともに画面に定着までされる、ヴィジュアル上の極点すらもっている。水銀との連接は、むろん完璧な像の成立が不当性を裏箔にする事実を証言する。
狂的な父親ステファンがいる。強圧者であるのみならず、彼は「レベッカ」の位置にもいる。亡妻ドゥーニーズのまぼろしの、屋敷内の跳梁に悩まされていたのだ。亡妻はかつてダゲレオタイプ写真のモデルだったが自死した。彼の現在のモデルは娘のマリー。その撮影の助手に写真学校などに行くなどして写真ずれしていないジャンが選ばれた。
最初の面接のとき、すでに黒沢的な長回しによるパンニング(ダゲレオタイプの銀板写真とは対極的なもの)が現れる(階段のある空間が利用される――いわば『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の驚異的なショットの奥行軸のうごきを横軸へと変換したもの)。無人の気配のままドアが不気味にひらき、階段のうえを黒いドレスの女性が垣間さまよう。事物の定着のなかには脱定着がふくまれるという視覚上の真理。ジャンとマリーは暗さと明るさの複合として、やがてリラダンの「ポールとヴィルジェニー」のように相思相愛となる。
黒沢清の流儀がいつもとちがう面もある。「唐突さの感じられない唐突」「衝撃性のかんじられない衝撃」といった、演出呼吸の二重性がほぼ全篇にわたり遵守されているのだ。これはヴァル・リュートン調のエレンガントな抑制美と誤解されがちだが、「定着と脱定着の共存」という視覚上の主題に添ったものとかんがえたほうがいいだろう。やがて画面に生者の気配を失ったものがしばしば現れてくる。使用されるのは、横軸であれ奥行軸であれ、移動撮影だ。視界移動のあとの予期せぬ場所にそれらは「いる」。「いる」ことは衝撃なのに、移動そのものが調和的だから、効果の複合が生じるのだ。様式の折衷(それは物質的には蛇腹状だ)、そのさなかに亡霊性がぼんやりと揺曳するというのが本作の第一原則だろう。
あっと驚くのはヒロインの「階段落ち」の大きすぎも小さすぎもしない衝撃の規模だが、やがて、マリーが「いつ死んだのか」で、黒沢映画特有の「ヘンな味」(リラダン、カフカからボルヘスにいたるまでの通念脱臼)があらわになる。むろん死の決定不能性とは、黒沢の以前の大傑作『LOFT』以来のものだ。おもいかえせば黒沢はその作品で、ミイラ(身体は残存するが魂がない)と幽霊(魂は残存するが身体がない)、この相異なる想像力の葛藤と融合をもちい、たとえばダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』における死の決定不能性を増幅した。これにくわえ過去作でいえば、ヒロイン、マリーの、「水銀」にたいして植物を擁護する見解に、『カリスマ』の余栄がわずかにみとめられる。
相思相愛カップルは共謀をおこなう(そこが逆説的だが「崇高」だった)――これが『ダゲレオタイプの女』のさらなる基軸だろう。そうして作品は複式夢幻能の結構を超える。順序はこうだ。「死んだのか否か」「死んだとしたらその死期がいつなのか」定かでない、「その意味で」魅惑的なマリー。理由のわからない(フレーム外で事件が生起した)階段落ちでゆかに横たわってしまったマリーにたいし、父親ステファンは死を認定する。ところが助手のジャンは、それを承諾せず、病院に連れてゆこうとする。この過程でマリーにさらに水死の詳細が「加味」される(「死+死」の図式)のに、マリーは画面上に「生きて」再臨する(視界移動の果てに――してみると視界移動とは無限の順延、あるいは前項否定をともなうことになる――くりかえすがこれが銀板写真の属性とするどく対立する)。
このあとまさにふたりは「共謀する」。ステファンがマリーの死を疑わないなら、いっそ死んだことにして、彼の絶望を、館の売却に利用しよう、と。ところがそのマリーにはすでに死者の気配が濃厚なのだ。それで死が死の、虚偽が虚偽の尾を噛む、異様な再帰性が以後の物語を推進してゆくことになる。素晴らしい、の一語に尽きる。その帰趨がどうなるかはしるさないが、『カリガリ博士』的なラストの誤謬が悪用され、全篇にB級のテイストが浮上するとだけはいっておこう。
再帰性、それはダゲレオタイプの撮影がもともとふくんでいたものでもあった。露光時間に120分まで長時間を要するその撮影では、被写体である人物は背筋を伸ばし、しかも左右に揺れないように、背後からひそかに拘束機械での固定がおこなわれる。それは被写体のからだをしめあげる意味では、苦痛をともなうサドマゾヒスティックなものだ。固定=定着を実現するためには再帰性の干渉が要る、という哲学。黒沢としてはめずらしくこの作品ではジャン、マリーの接吻シーンが連打され、かつ暗示的ながらベッドシーンもえがかれるが、真にエロチックなのは、ステファンの助手ジャンが、マリーの身体の至近に寄り、マリーに拘束機械をほどこすとき、マリーがちいさく漏らす、恍惚とも苦痛とも判別できない喘ぎだっただろう。
脚本も黒沢清。ジャンとマリーの命名はストローブ夫妻に拠るのだろうか。ステファンはとりわけ『イジチュール』のマラルメだろうか。マリーを演じたのは『女っ気なし』で注目された新星コンスタンス・ルソー、ジャンを演じたのはロウ・イエ『パリ、ただよう花』のタハール・ラヒムだった。欲をいえばこのふたりに、溝口健二『近松物語』での長谷川一夫と香川京子の風情と体臭がもうすこしあればよかった。10月15日より新宿シネマカリテほかで全国公開。