近況9月10日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近況9月10日

 
 
【近況9月10日】
 
北海道新聞本日夕刊に掲載されるぼくの連載コラム、「サブカルの海泳ぐ」はひさしぶりに音楽ネタ。①ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー『ジャニス リトル・ガール・ブルー』、②今年一月に逝去したデヴィッド・ボウイを追悼する目的で、NHKBSにてオンエアされた『デビッド・ボウイ 5つの時代』(2013年英国BBC制作)、それに③YouTubeアーティスト、ナタリー・ドーンの最近の活動、をとりあげました。つまり、原稿には暗黙に、映像と音楽の関係が書かれています。
 
音楽にたいしてもともと映像は「記録するもの」でした。たとえば上記『リトル・ガール・ブルー』ではジャニスのハイスクール時代、大学時代の活動も掘り起こします。家族、友人、当時の共演ミュージシャンなどの証言によって。そのとき貴重な音源が登場します。
 
同じ曲の異なる映像を巧みに入れ替えるし、証言者のことばのズリ上げ、ズリ下げを自在におこなっているのは、女性監督エイミー・バーグ。ジャニス自身の醜形恐怖が彼女のセックス依存症、ヘロイン耽溺にどうむすびついていったかを説くその構成は、還元主義的ですが、現れるものの肌理こまかさによって信憑を得ています。オーティス・レディング、ジョー・マクドナルド、ジェリー・ガルシア、クリス・クリストファーソン、あるいはビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの面々など。
 
とりわけジャニスが家族などに宛てた手紙の文面がすばらしい。教養、ユーモア、孤愁、自負などがナチュラルに変化する達意の文体が共感をさそうのですが、それをキャット・パワーがナレーションして、ジャニスというロック・アイコンの内面化に貢献するのでした。むろんキャット・パワーとジャニスは声質も個性もちがうはずですが、どういうのでしょう、「記録」という大義のもとでこそキャット・パワーがジャニスへと変成できる。「記録」はそれにかかわるすべてを貢献的にするのです。
 
ちなみにいっておくと、ジャニスが一世を風靡するきっかけとなった、モンタレー・ポップ・フェスの「ボール&チェイン」の映像がやはり暴力といえるほどに催涙的。もともとはビッグ・ママ・ソーントンのへヴィ・ブルースですが、夜の雨をみつめながら、我が身に、鉄球と鎖につながれた重たさをかんじ、兆している男との別れを怖れるというその歌詞は、ジャニスによって唄われるとき、ベイビー、ブ、ブ、ブ、ブという畳み掛けからなぜか解放のひびきをもつようになってきます。その逆転性が泣けるのです。
 
あるいはこの作品にはNYチェルシー・ホテルに滞在したビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの面々が、コロンビアのスタジオでアルバム『チープ・スリル』用の録音をおこなっている貴重な「記録」が出てきます。とりわけ「サマータイム」のアレンジをめぐる論議が生々しい(ちなみにぼくは、ジャズ曲をアルペジオと演歌的なロック、マイナー・バラードに変えたあの曲のアレンジが大好き)。その曲でも「夏には綿花がひらき、安寧が支配する。だからベイビー、泣かないで。おまえも翼をはやして空ふかくへ昇ってゆけるよ」と慰める子守唄の内容が、「泣け、泣け、ホットサマーは地獄のように暑い」と聴こえだす二重性をもつことになります。
 
それにしてもジャニスは、自己蕩尽的な破滅シャウトで、いずれ声が出なくなると自身もかんがえていたらしい。それが『パール』録音時に多彩な発声を会得し、以後は数十年唄いつづける希望を抱いていた、その矢先、不慮のオーバードーズ死だった、と作品は結論する。けれどもぼくは、ジャニスが歌手として歌唱を蕩尽してしまう絶望を予見していたのではないかとおもいます。じじつ、高音のハスキーウィスパー→シャウトの「サマータイム」は録音時から2年後の70年にはもう唄えなかったといいます。歌も尽きる、セックスも尽きる――その暗然とした予感と孤独が相俟って、やめていたヘロインにジャニスが久しぶりに手をつけ、死へとさらわれたのではないでしょうか。ともあれ、『リトル・ガール・ブルー』はそういう暗部を裏箔にもつ「記録」です。
 
音楽と記録ということでは、その後、音楽を記録する、という目的格構文がくずれだした。契機になったのが、マイケル・ジャクソンで頂点に達したビデオクリップ映像でしょう。そこでは「音楽と融合した映像が現れ、そのことが記録になっている」。刺戟性に向けられたこの状態によって、音楽=資本力=ポピュラリティというトリアーデができてしまったのは、なんとも残念でした。このことによって、インディアーティスト、ルックスに遜色あるアーティスト、若くないアーティスト、リズミックでないアーティスト、難解なアーティストなどが真の音楽シーンからはじき出されることになります。ビデオクリップの監督たちの画一性といったら! これらは現代日本の詩作シーンのありようをも暗示しています。
 
ところが貧民のメディア=ネットによって、音楽と映像の関係がまた変わりました。スタジオに使用できる自宅、据え置き撮影ができるカメラ複数台、スイッチ編集ができる編集アプリ、などがあれば、自宅で「手作りビデオクリップ」をつくることができる機会平等の時代になった、ということです。「手作り感」には機知とスピードとシンプリシティが要る。
 
この点で群を抜いたのが、ジャック・コンテとナタリー・ドーンのコラボチーム、パンプルムース、とりわけその後、ソロでもYouTubeアップを繰り返しているナタリー・ドーンでしょう。すべて「室内」で撮られて(=録られて)いるのが味噌です。そこでは現在形の「室内楽」がどのようにあるべきかの志向が現れる。こういう機制です。①ひとりから数人、とりわけふたり。②女どうし。③フォーキー(アコースティック)。④次善として音楽にコンピュータ活用。⑤なによりも機知。⑥それで既存曲のアレンジをシンプルに縮減してしまうカヴァーが、そのまま「戦略」となる。
 
ナタリー・ドーン自身には複合性があります。エレキベース、アコギ、キーボード、何でもパーカッション、コンピュータ操作が可能なマルチミュージシャン。コーラスも自身の多重録音が多い。大卒の高偏差値とナチュラルな色気、適度なルックスの可愛さ。女ともだちの多さ。母親とのコラボまで可能な女性性の継承。そして何よりもフランス語圏で育ったがゆえに、英語発声がどこかたどたどしいのが、実に「良い味」なのです。逆に彼女はアレンジを変えフォーク化したエディット・ピアフなどは実に流暢なフランス語で唄っていました。
 
いいたいことはこうです――『リトル・ガール・ブルー』では「記録」は「大義」としての多流性をもっていた。ところがパンプルムースやナタリー・ドーンのYouTubeビデオクリップでは、「記録」は記録というフレーミングとぴったり一致し、その室内映像のなかにナタリー・ドーンが余剰のない輪郭として現れ、その「自体性」が享受者を魅了するということです。アイコン神話の剥奪。ところでこの「自体性」はイリガライの用語でもあります。女性の本質を夢想して発語されたこの用語は、いまやそのままに女性のみえかたを規定するものになった――そうおもいます。
 
 

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2016年09月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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