三浦大輔・何者 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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三浦大輔・何者

 
 
【三浦大輔監督・脚本『何者』】
 
 
本日公開された映画『何者』は「就活」をノウハウもふくめて描く「つらい映画」とおもわれているのかもしれない。ふだんは客が数多く入る札幌シネマフロンティアも、ぼくが観た初日午後は半数弱の客にとどまり、どこか倦厭の雰囲気をかんじてしまった。そういう先入観をくつがえすTV露出も管見のかぎりさほどなかったようにおもう。残念なことだ。
 
以下は、映画鑑賞後、女房に打ったメールを省力化のため、そのまま転記うちする。
 
・情報や描写が多様な朝井リョウの同題原作小説にたいし、映画はぜんぜん「ダイジェスト」になっていない。科白ではなく演技だけで役柄の性格を造型している。主要配役6人のうち、俳優名でしめすと、とりわけ二階堂ふみ、岡田将生の役柄が「イタい」。ところが主役、佐藤健の「イタさ」は自分とおなじだとおおくの観客はおもうのではないか。抒情的な俳優にこそ観客は加担するのだ。結論的にいうと、複雑な原作のテーマが、複雑なままに伝わっていた。
 
・菅田将暉のうたう姿と、うたそのものが良い。ラスト、佐藤健の隠れブログの内容が列挙暴露される原作の衝撃的なくだりは、映画では大技が導入される。空間が「ありきたり」から、鈴木清順『結婚』ばりに演劇的に変化するのだ。そこで「演劇的なのに」映画的な昂奮が起こる。映画と演劇の配合は逆説であるときに魅惑を発する。
 
・冷徹きわまりない、人間の、仕種の、ことばの端はしの、類型学。成瀬巳喜男にも似ている。こういう能力があるから、原作を「間伐」しても、ダイジェスト感が出ない。映画そのものの語り口も流麗。むろん「間伐」とはおそろしいことばだが、連続にひかりをあたえる施策でもある。
 
・人物はみなリアルにふくらんでいる。家族的な絶望を負わされ、就職先の選択に妥協した有村架純に逆説的なことだがもっとも「希望」がある。ラスト、面接時の「1分間の自己アピール」課題で、佐藤健が失語してしまうことにも、真実と、真剣な悔悛があり、それゆえにそれも逆説的に「希望」へつうじる。菅田将暉は生活力のある「いいやつ」にほぼ終始する。
 
・「アタマのなかにあるうちはすべて傑作、でも10点をくらってでもいいから自己表現しないと何も始まらない。わたしたちはそんな段階にもう突入したの」という有村の主張は、若い世代に突き刺さるだろう。けれども中年世代には、佐藤が準拠した「観察行為」そのものの悲哀のほうがさらに胸に迫ってくる。佐藤健の心は「黒い」が、彼は悪人ではない。そう感じるのは表面的な「ことば」の裏にある心情が作中にこまかく表現されているためだ。演出家としての三浦に、天才的なメソッドをかんじる。
 
・それにしても朝井リョウの一人称独白小説を、よくこれだけ肉化した。「意識の流れ」は通常、映像化に向かないのに(この点はよく誤解されている)。現在の若手俳優の演技水準のたかさがむろんこれにかかわっている。
 
・佐藤健の演劇パートナーだった男(「烏丸ギンジ」)の顔を映画は表象しない。その処理が効果的で、彼は結果、神になる。それも滑稽な。むろん現代批評だ。このことで、そのギンジと岡田将生が似ていないという先輩・山田孝之のことばがふかい意味をもつようになる。表象の寸止めは『ゴドーを待ちながら』『サド侯爵夫人』に先例がある。映画では恐怖映画の一部にある。
 
・さすがに監督が劇団ポツドールの主宰・三浦大輔だから、映画中の舞台表象は冴えかえっている。これは朝井リョウの原作にはなかったことだ。むろん人物の愚かさを類型学的に展覧させるという点で、『恋の渦』(原作が三浦大輔の舞台、監督が大根仁)、『愛の渦』(三浦大輔原作・監督)、そして今作が、一本線でつながっている。本作を「就活映画」という素材で括りきれないのはそれが理由だ。世間はこのことをまだはっきりと認知していないのではないか。かつて『恋の渦』を渋谷の映画館で観たとき、客席は学校帰りの女子高校生でごった返していた。彼女らは、人物たちの底意、バカさ、黒い向上心、スケベさが言動の端々にほころびて現れるたびに爆笑していた。そういう反応をする先取的な観客が、札幌の映画館にはいないように見受けられた。
 
・佐藤健の美男子ぶりはスケール感がないけれども、まなざしがまっすぐ、真摯で、ひそかな悲哀をおびているのが今日的だ。こういう学生は数多くいる。その意味でいい俳優だとおもう。『何者』の主役は彼なしにはありえなかった。
 
・作品で揶揄される精神態度。たとえば「構想中の案件の途中経過を熱いことばでかたること」「決意をかたること」「人脈をかたること」「勲章をかたること」。それらがすべて「イタい」というのはよくわかる。これらはリア充にみえてそうではないひとがすることなのだ。FBでもよくみかける。
 
・ともあれ、「演劇的映画」の可能性をかんじる。とはいえ、寺山にもアンゲロプロスにもカサヴェテスにも似ていない。オーソン・ウェルズは経歴からすると演劇的ともよばれそうだが、徹底的にバロック映画のひとだ。ギトリは観ていない。『何者』の各ショットはちゃんと映画的な単位性をもっているし、長回しを三浦監督が誇示することもない。それでも宮藤官九郎や赤堀雅秋が映画的な変容を映画でおこなうのにたいし、三浦大輔の映画は演劇の残滓をとどめている。ひとつだけ確認しておく。同一空間が連続しても、映画は成立するのだ。ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』のように。
 
・朝井リョウは幸福な作家だ。ほかの作家とちがい、例外的に映画化作品がすべて良い。徹底的な構成替え、力点ずらし、設定変更、「場所」化のうえ吉田大八が監督した『桐島、部活やめるってよ』が、飛び越えるべきハードルのたかさを設定してしまったのだろう。
 
 

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2016年10月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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