映画の犬
【映画の犬】
ぼくが所属する北大文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌『層』(発行=ゆまに書房)の第9号ができました。ぼくはそこで映画における犬の表象を考察した、「映画の犬――『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』をめぐって」という一文を寄せています。自分からいうのもなんですが、「くらくらする」論文になっているとおもいます。
相手にしているのは、動物性という領域から引き出された「それ自体」、これにまつわるメランコリーの問題です。サミュエル・フラー監督のカルト怪作『ホワイト・ドッグ』は犬の映画として定番感があるとおもいますが、カアン・ミュジデジ監督の2014年ヴェネツィア審査員特別賞受賞作『シーヴァス』は、トルコ(現在、ニューウェイヴ映画が族生している)が不当にも映画の辺境地とみなされているからか、さほど話題になりませんでした。けれどもぼくは、おととし東京の試写で観て、主演のカンガルードッグ「シーヴァス」のメランコリックな威容にくぎ付けになりました。生涯の犬映画のベストかもしれません。巨きな躯体、筋肉の連動を裸性でつたえる短毛、ものうげなうごき、さらには悲哀にとんだ哲学的な犬の風貌がわすれられない。
ぼくの論文は、註記がひじょうに多く、それじたいが「展開」しています。ハンス・ペーター・デュルの本みたいな体裁です。したがって読むときも、一回めが、本文を通し読み→後註を通し読み、二回めが本文細部と註の連関を確認、といった「順序」をしいられるでしょう。直線性だけでない構造があり、空間がうねっている、ということです。
どうもぼくは出典註のみで終わる論文が好きでないみたいです。学術論文=註、みたいな風潮が世間にあり、註が学術性を保証するような擬制もありますが、出典註なら本文に括弧で繰り込めば消せる。もともと註は基本的には繙読の直線性を疎外する、不親切な権威なのです。となると註をもちいる文章では記述空間の多重化をもくろまざるをえない。そういう構造をしている論文は日本では少数派です。このことをぼくは疑問におもってきた。海外の優秀論文ではむしろこちらが主流なのに。
ぼくに関わりのある学生のためにしるすと、たぶん三読四読に値する論文の執筆には踏むべきパターンがある。今度のぼくの書いたものを例にとると、次の手順となりました。1.『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』に照準を合わせる(本当はそこにイニャリトゥの『アモーレス・ペロス』も入っていたのですが、この作品への言及は紙幅の都合で、註記内に圧縮してしまった)。2.映画の細部への見解を補強するため、現代思想系の「動物論」(デリダ、ドゥルーズ、ベンヤミン、アガンベン、間接的にはハイデガー、レヴィナス、それに加えてピエール・ガスカールの『人間と動物』)を再読初読し、引用箇所をテーマ別に抜書きなどしてゆく。3.あらためて映画を細緻に分析するとき、テーマの相同性を軸に、2を編入してゆく。つまり多重性の論文をつくりあげるときにこそ、ぼくのいつもいう「参考文献表」がおおいに機能することになります。この手間を厭ってはいけない。
ともあれ、このようにして書く論文は、面倒は面倒なのですが、今回の「映画の犬」は展開が複雑な示唆にとみ、映画のディテールにも哲学的な肉づけ肉薄ができたとおもいます。それが文章効率、画面のうごきの描写とともに、ぼくの個性になっている。レイシズム映画という先入観から解放された『ホワイト・ドッグ』はむろんですが、『シーヴァス』もDVD発売されているので、ぜひ論文を読むときの参照にしてください。
「層」9号全体についてのべると、同僚の押野武志先生の企画した、「特集1 世界内戦と現代文学」、「特集2 忍者と探偵が出会うとき」のふたつに、情報度の高い好論文が集結しています。「層」は大書店などで注文できるので、ぜひ。ちなみに9号の価格は1800円+税です。