近況10月23日
【近況10月23日】
本日の朝日新聞の「売れてる本」コーナーに、ぼくの書評が載っています。対象は、朝井リョウの『何様』。直木賞受賞作『何者』の「アナザーストーリー」です。ふたつの関係を説明するだけでも字数を食うのに、そこに公開中の映画『何者』もからんでくるから、結構、原稿作成にアタマをつかいました。その痕跡をご確認いただければ。
朝井リョウは、現在の心性にシフトしているから見過ごされがちだけど、ものすごく「文学的」だとおもう。というか、話者を変換しながら章立てしてゆく連作短篇で、一人称独白体を使用する作家はみんなそうでしょう。それまでとの「連関」が不明なまま、とつぜん「だれか」が語りはじめ、徐々に既存世界との整合点がみられはじめる。その経緯はサスペンスフルなんだけど、話者の年齢・性別・性格・学識などによって、独白文体を変化させるときに、実際は「書くこと」そのものがはげしく「外部化」している。
ぼくは最近の小説の動向にさほど詳しいわけではないけれど、かつて川上弘美の『どこから行っても遠い町』(08)を読んだときに、外在的な条件によって「書くこと」が緻密に変成してゆくありさま(というか「コード化」)にびっくりした記憶があります。それで実際には太宰治「女生徒」「駆込み訴へ」のような事例がもう過去のものとなった。あれらは情動の流れるような塊に物語機能がくっついたものだったけれども、現在の作家は一人称独白でむしろ「空隙」を語っているのです。空隙の身体性。
朝井リョウは張った伏線を作品の後半になって消化してゆく構成力にどんどん磨きをかけてゆくのだけど、出世作『桐島、部活やめるってよ』では一人称独白体の斬新さ、その印象だけがつよい。「話者」の属性により、独白が徹底して質的に書き分けられている。むろん彼が目指すのは、ジョイスを現代へズラしたような「意識のながれ」(それでもそれは「充満」していない)。外界からの刺戟として周辺人物の発話が話者の「意識」を寸断する手法も得手なんだけれども、句読点使用や改行の仕方が現代詩の実験性からもちだされている。この意味で「文学的偏差値」がたかいとおもうのです。
『桐島』は朝井リョウの学生時代の若書きだからまだ構成力が十全ではないのは確か。そんな朝井を刺戟したのが、吉田大八監督による映画版『桐島、部活やめるってよ』ではなかったでしょうか。人物名を章題に置き、一人称独白を人物ごとにつないだ朝井の連作短篇にたいし、映画は時制で作品世界を分割したうえで、原作の人物ごとの把握ちがいを角度ちがいに変える。しかも人物の属性の整理・入れ替え、出来事の起こる場所の特化、力点の移動など、大技の変更をつぎつぎになしてゆきました。具体的にいうなら、朝井の小説では、「屋上」論が展開されていないし、神木くんたちもゾンビ映画を撮ろうとしていないし、東出くんも映画カメラに迫られて泣いたりしないのです。
そうして「構成」の見地から、映画は緻密な結晶体をつくりあげてしまった。朝井リョウはこのことに打たれたのではないでしょうか。完璧とはなにか、という問題です。この映画が起爆剤となって、たぶん朝井リョウは自分の小説で「構成」に磨きをかけてゆく。それで『何者』の(文庫でいうと)最後の50頁の驚愕が生まれたのではないでしょうか。
小説家を映画監督が「訓育」してしまうという文化的相関。むろんそれには第二段階があって、今度は小説『何者』が映画『何者』の、演出をも練磨させてしまう。それで三浦大輔が一般俳優を起用して大傑作を撮りあげてしまったのです。こういうことこそ面白い、とおもいます。そういえば、『何様』の最後に収録されている短篇「何様」も映画へ膨らませることができるだろうなあ、映画人の創意さえあれば。