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大根仁・SCOOP! ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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大根仁・SCOOP!

 
 
【大根仁監督・脚本『SCOOP!』】
 
大根仁監督・脚本『SCOOP!』には、よっつの時間相がみとめられる。以下、それを順にたどってゆきたいが、その前提として、「時間」総体について一言しておく。通常、空間はみえても、時間はみえない。とりわけ持続じたいがみえない。みえる=感知できるのは変化であって、それは時間そのものではなく、時間のささえにのせられた物象のうごきや物象それじたいの変貌であり、それらがただ時間性として感官へ反映されるにすぎない。時間がみえないのは、風がみえないのに似ている。
 
ベンヤミンの直観どおり、「みえなさ」にまもられた時間は、もともと無意識状態にあるといってもいい。それが「撮影」により意識化されたとき事物や物象が、時間そのものの放心を事物関係として配置する。時間の無意識が露呈されたアジェの写真へのベンヤミンの嗜好は、悲哀への嗜好の一歩手前だろう。
 
映画『SCOOP!』がとりあつかう職業人は、写真週刊誌に所属するカメラマン、つまり専属パパラッチと、それとコンビを組む編集者だ。芸能人、政治家などのおもに下半身スキャンダルをあばくために、無意識の時間から有意識の瞬間を狙いうち、剔抉し、さらし、それに性器的な意味=外状をあたえる一種の賤業だといえる。静穏にながれている時間のスカートをめくり、スカートをめくりうることで「時間がもともとは裸だった」とあかす。その職業はいまふうに「ゲス」「サイテー」なだけでなく、時間論的認識の転倒にもふれているのだ。
 
時間のなかに瞬間があふれているのではない。それはもともとみえない。ところが瞬間を問題にすることで、時間が秘部をかくしもつ猥褻な媒介へとすりかわってしまう。一旦点火されると瞬間への欲望は肥大に肥大をかさねる。みたい、みたい――ポルノグラフィ、スポーツでの決定的な瞬間、それらは「撮影」という悪行こそがみちびいたものだ。
 
取材スキャンダリズムを基底に置く点で、映画『SCOOP!』はかつての滝田洋二郎『コミック雑誌なんかいらない!』に似ていそうだが、それよりも最近の映画ではイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』にむしろ似ている。撮影=「シュート」は照準器を覗く狙撃兵と同等の緊張、ならびに経験をしいる。革ジャン、アロハ、アフロヘアー(巻きはゆるい)という「昭和」のヘタレ風俗に身を構え、初めての「汚れ役」に挑んだ記号アイコン=福山雅治は、セクハラ的な言動を映画の開始時に濫発するが、すぐれた写真家「でもある」属性がもともとあって、カメラをもち、構え、「瞬間」を待機するすがたや手つきが「汚れていない」。手の清潔感そのものから作品の映画性がわきあがってくる。
 
かつての原田眞人『盗写 1/250秒』(未見)の原田芳雄が継承されているという。福山とのちに言及する二階堂ふみのコンビネーションは、「昭和」でいえば根岸吉太郎『探偵物語』での松田優作と薬師丸ひろ子を髣髴とさせる。カメラを構える手が、クルマのなかにあって、「東京の夜」につつまれていることが単純に胸を打つ。このことが、清潔さと孤独に弁別がないとつたえているのだ。芸能人スキャンダルを狙うのだから、時間は深夜から未明、場所は六本木、もしくは恵比寿-中目黒-代官山のラインとなるが、時間の本質的な無包蔵にたいし、それら夜の東京は蠱惑的な包蔵性をたしかにもっている。
 
写真週刊誌のイロハも知らない二階堂ふみが、他部署から写真週刊誌へと配属され、副編集長・吉田羊により、福山雅治とコンビを組まされる。吉田の目的は、すぐれた報道カメラマンだった福山の賦活、それと二階堂の訓育にあるのだろうが、福山に見込まれた何か、二階堂に見込まれた何かが、両者間に引力を発する可能性にときめいているようにもみえる。福山は、特ダネ獲得一本あたり幾ら、というあからさまな成功報酬に釣られ、専属契約まで交わしてしまった。
 
有名人たちの性的放埓をしるしづける「瞬間の把捉」。大根仁の作劇はいつもどおり緻密に推移する。有名男子アイドルグループと女子アイドルグループどうしの、時間差で入り込んだ秘密デートクラブの密会。停車していたクルマのフロントガラス越しに、みだれきったそれぞれの入場を福山が連写で収める。あとは「乳繰り合い」の証拠物件を手に入れればよい。年齢差カップルを装って福山と二階堂が追ってその店にはいる。福山の鞄には盗撮用のビデオカメラが仕込まれている。やがて発情した一組のカップルが、カーテンで仕切られた隠し部屋めいた店の奥にはいり、ソファーのうえでキスとへヴィペッティングを開始したのがカーテン越しにかすかにみえる。ただし従業員、グループ構成員の数からして、撮影後、速攻で逃走しなければ危険だ。福山があたかも規定事項のようなそっけなさで二階堂に指示を出す。俺は店の前に逃走用のクルマをつけておく。お前は隠し部屋のカーテンを引き、そのワンチャンスからふたりの痴態をケータイに収め、逃走しろ。
 
大根仁の正しいところは、上首尾とはいえないが必死で撮った二階堂のケータイ写真が手ブレを起こしていて、福山に嘲弄されながらも、それが雑誌上、一頁もしくは見開き使用とならずに、福山の撮った店への入場写真と組みあわされて、なんとか「写真記事化」されていたことだ。不完全な「瞬間」は朦朧としている。それは縮小され、段階化という文脈を施されなければならない。これにより、観客は「瞬間の完全捕捉」の欲望を増強させられるのだ。
 
映画『SCOOP!』の「ジャンル」は幾とおりにもいいかえられる。出版ギョーカイ映画。都市風俗映画。師弟間の交情と、精神継承をとらえた伝統的作品。あるいは年齢差を超越、しかも男女という性差すらあたえられたバディ・ムーヴィ。ただしカメラマンの瞬間の把捉がスナイパーの遠隔発砲と似ているなら、やはり映画『SCOOP!』の本質はアクション映画というべきだろう。むろん「撮影企図-成功」という事実提示のみではアクションにならない。大根仁の創意はそこで発揮される。
 
小泉進次郎をモデルにしたとおぼしい与党の若手ホープの政治家と、巨乳が売りの局アナの、SPに守られた深夜のホテルスイートルームでの密会、その決定的な写真の撮影を、福山・二階堂の疑似「師弟」コンビが促進される。とおく対面するビルの屋上から、決定的瞬間を望遠レンズで狙う福山。ファインダー内の画柄はスナイパーの照準器のそれと酷似する。
 
ところがここでも「カーテン=時間のスカート」が真実を遮蔽する。それはめくられなければならない。詭計が案じられた。傍らにいる二階堂が当該のホテル一室の方角に向け、打ち上げ花火を連射しだしたのだ。光の異調と物音とで、おもわずカーテンをひらき、それに見入る斎藤工とその相手の女。バスローブで上半身をはだけた斎藤と、ブラジャー、パンティ姿の女の2ショットが、望遠レンズを介在して次々と連写された。ところがこの陰謀は気づかれる。SPが撮影者の追跡を迅速に開始し、以後は逃走車を驀進させる福山、二階堂との、白熱したカーチェイスとなる。
 
大根的な「付加」とはなにか。まずはカーテンをひらかせる発明的な小道具として一旦画面に登場した「花火」がクルマのなかからでも再使用されることだ。スピードと運転技術にまさるSPたちのクルマをやりすごすことができたのは、二階堂が車窓から打ち上げ花火を福山の指示でさらに相手へ点火投擲したためだ。焦った彼女は、花火を入れているビニール袋そのものを相手のクルマに投げてしまう、しかもなかの一本を点火したまま。袋はSP車のフロントガラスに貼りついて視野をさえぎり、しかも大量爆発を起こし、ついには手先の狂ったSP車は、逃走する福山たちのクルマのリアガラス越しに大爆発を結果する。このときのアクション連鎖のスピードと破天荒はほとんど性的な快楽までともなう。ここで作品のアクション性がはじけた。
 
それまで二階堂は、福山のやさぐれた、しかも不発のセクハラジョーク、あるいは傍若無人な「道具」視、それから自らが語った来歴の無個性への冷たい揶揄により、腐りきっていた。大根の素晴らしいところは、カーチェイスでSP車が助手席方向から寄ってくるだけでなく、逆方向からも迫る転調をあたえた点だ。結果、花火投擲で応戦する助手席の二階堂は、自分側の窓からのみではなく、ハンドルを必死に切る福山のからだごしに、運転手側の窓からも花火を「シュート」しなければならない。このとき、自然に、福山と二階堂のからだが接触する「二次的な」アクションがうまれる。このことがこのふたりの性的興奮の伏流となった。だからスクープ獲得稼業のゲスさを「最低の仕事」だと最初に了解した二階堂がおもわず「最高の仕事」といいまちがえたとき、助手席の二階堂のくちびるが福山の強キスの餌食になる。いや、このキスシーンは、カーチェイスシーンの前だったかもしれない。
 
大根的鉄則にあっては、「アクション」がクレッシェンドしなければならない。写真週刊誌「SCOOP!」はおおきな「ヤマ」に直面する。宮崎勤と酒鬼薔薇聖斗と山口の母子殺害事件犯人を合成したかのような非道な犯人「松永」の「現在の顔」を盗写する案件だ。ブルーシートに保護され、大量の警察官が動員された現場検証の原っぱ。警察はマスコミの位置をひとつに定めている。ところが別方向に廃車場があり、そこからの「撮影リスク」にたいし警察は無頓着でいる。その廃車脇に、シャッターを押すだけに設定された二階堂のカメラ、さらには廃車ごしには福山の望遠カメラもポジションされた。
 
ここではアクションを増大する要素が「倍加」だ。しかもグラビア袋とじ頁で写真週刊誌の部数を伸ばし、報道写真時代の福山の雄姿を間近にした経験をもつことで、かえって福山、ならびにスキャンダル報道に懐疑的・敵対的な滝藤賢一(彼も副編集長)が現場補助として増員されている。ここも「倍加」だ。ここから「松永」の顔の捕捉、その成功にいたるまで、福山、滝藤、二階堂が不規則な運動加算を画面にユーモアも交えて刻印してゆくことになる。大根の演出は見事、というにつきる。
 
滝藤は大学時代、ラガーだった。覆いで囲われて保護された「松永」をブルーシート内に導いた警察官のまえで不規則な旋回もまじえて走りまわり、タックルをいどみ、しかも相手からのタックルをすり抜ける。かつてこの方法で、滝藤-福山コンビはスクープをものにした経験則があったのだが、さすがに加齢に勝てず、肝腎のところで滝藤の攪乱は奏効するものの、息切れも激しく、やがて彼は警官たちに捕獲される。
 
次は廃車場からカメラを掲げた福山が飛び出してゆく。警官たちの標的の場に自らをさらし、大声による挑発で、「敵陣」の統一を乱す。右往左往する福山に、覆いが乱れ、わずかにできた隙間から「松永」の顔が覗く。ここでも「覆い」は脱がされた。その猥褻な隙間に向けて、廃車場にのこった二階堂の望遠カメラが連射に成功する。一時はカメラを振り上げた福山の手が、撮影画角を殺しているという生々しい自己再帰性まで伴って。二階堂はその後の逃走にも成功する。むろんこれはプロフェッショナルな滝藤-福山-二階堂の連携プレイというべきだろう。映画好きなら何に似ているかがいえる。ハワード・ホークス『リオ・ブラボー』でのアンジー・ディキンソンの鉢投げを契機にした、リッキー・ネルソンとジョン・ウェインのあいだでのライフルの投げ渡しがそれだ。
 
「瞬間」をえぐりだすことで時間の欲望化へみちびくという、映画『SCOOP!』の第一の時間相についての言及に手間取った。シーン説明を付帯させすぎたせいでもある。警察の警戒網をかいくぐって「松永」の現在の顔を盗撮するという、述べたうちの最終エピソードでしるしたことが「加算」だった。じつはこれが本作のしるす第二の時間相なのだった。大根仁の作品は、TV版『モテキ』でも映画『恋の渦』『バクマン。』でも豊富なエピソード、若い世代の民俗学的ともいえる「あるある」考察を盛って、ストーリーを「驀進」させるのが真骨頂だ。ときにそれは観客の記憶容量を越え、脱分節的な「線状脱色」という異常事まで付帯させてしまう。結果、「身体的昂奮だけがのこる」。ハリウッド映画的なのだ。
 
ところが『SCOOP!』には『バクマン。』がもっていた様相がさらに強化された一面がある。それが俳優の「顔貌」に作品が驀進するにしたがって肯定的な加算が起こることだった。福山は登場時、タブーにちかいほどの「やつし」をしいられている。けれどももっと注目すべきなのは、二階堂ふみだろう。最初に画面定着されたときの彼女は、トロい行動で福山のスクープ機会を台無しにした負のスタートをしいられる。スタジャン、茶髪で、とても一流雑誌社の一員とはみえない二階堂は、なにか彼女なりの身体調整で、当初、眉間をゆるく弛緩させ(つまりバカ顔)、福山のひとつひとつの言動にブータレてみせ、魅惑を発しようとしていない。それが上述したような成功裡のスクープ連鎖により、仕事に充実をおぼえだすと、やがて顔に芯棒がはいり、ひとみがかがやいてくる。彼女は加算的にうつくしくなり、それが福山にも反射し、ふたりは相愛の主体として適格性をおびてくるのだ。「第二の時間相」があかすのは、次のことだ。「時間は積まれれば積まれるほどに、価値化され、時間内存在をうつくしくする」。
 
危険すぎる撮影機会に福山が逡巡し、仕事に充実をおぼえた二階堂が単身、福山のカメラを自らもってタレントたちの乱倫の場へ切り込むエピソードがあった。秘密の雰囲気をたたえた深夜のとある店。結果、福山の予想どおり盗撮企図が発覚した二階堂は取り押さえられ、レイプの危機にさえおちいる。なんとかヘルプコールを福山へ発信することができた二階堂。救済に向かったのは福山と、ジャンキーの情報屋、リリー・フランキー(過去に福山とは「いわく」がある)で、ここでは福山の意外な喧嘩の弱さと、ボクシング経験者リリーの意外で笑えるほどの強さというオチがつく。
 
この後、福山とリリーは呑み遊ぶ。ピンサロにも行く。ふたりは深夜や早朝の東京を連れ立って千鳥足で彷徨するとき、幸福そのものを発散するつがいとなる。そのようすを物陰から遠望している者がいる。福山に借りたカメラをいまだに手にもった(事件現場から退場したはずの)二階堂だった。この二階堂に加算が起こる。二階堂は、福山とリリー、ふたつの身体の幸福なたわむれを物陰から望遠カメラで連写したのだった。ふたりのようすに憧れていたとするなら、いずれは福山にたいするリリーの立場へと彼女も昇格する。それが「加算の予感」だ。
 
時間の考察は、距離の考察を付帯する。本作ではもともと距離は、スキャンダル対象への疎隔をしめしていて、それはカーテンその他の遮蔽物に秘匿されていた。ところが人間をめぐる距離はそれだけではない。二階堂と福山のからだは接触し、福山とリリーのからだは幸福裡にたわむれる。リリーの位置への代入願望は、距離の実際を破砕している。時間の推移は、距離の接近によって加算相に置かれ、しかもリリーの位置への代入願望のように無方向化するのだ。それを大根が仕掛けた、時間意識への攪乱といってもいいだろう。
 
完全に朝となった時間帯、福山のマンション居宅に、借りたカメラを返すという名目で二階堂がやってくる。ドアは施錠されておらず、自然になかに彼女は入る。殺風景、物も置かれていない打ちっぱなしの壁が露呈した部屋。雑誌類が雑然とところどころに積み上げられているだけだ。その中央に置かれたベッドで、久しぶりにリリーと愉しい時を過ごした福山が眠っている。相手の寝顔に見入る人物の「時間」はもうすでに愛の実証だ。福山は来訪者の気配に気づく。だんだんと覚醒時の正気にもどっていった福山は、キャパの話をし、それが本作の衝撃的なクライマックスの伏線になる。事後的にいうと、「加算」は間歇することで「交配」するのだ。
 
問題にしたいことはさらにある。救出にたいする謝意を述べるだけではない。もう恋する者のうつくしさを「加算」されている二階堂のくちびるにむけ、福山のくちびるが近づいてゆく。すでに強キスがあったのはしるしたとおりだが、この正常のキスは寸止めされる。福山とかつて交際していた吉田羊が福山用の朝食の食材をかかえて来訪したのだった。ふたりのただならぬ経緯を了解し、あたふたとその場を去る二階堂は作品開始時の「おずおずとした少女」にもどっている。これらはドラマの「加算」を阻害する描写の反動なのだろうか。そうではない。
 
ベランダに出た吉田の見た目で、福山のマンション前の道路を「敗走」してゆく二階堂が捉えられる。むかしのわたしそっくりと、吉田が笑う。このときに決意されているのが「禅譲」だった。いうまでもなく「禅譲」は時間の加算性の最高峰をつくりあげる。継承よりももっと明示的な変型がある。これをしるすために、二階堂と福山のキスは寸止めになったといえる。このように、大根の仕掛ける時間の加算性は、顔の良化とは別の次元で、さらに「真に運動的=多方向的=ゲリラ的」でもあった。
 
そうした「証拠」がほかにもある。愛と叡智に、よりかがやいていった福山、二階堂の顔とはべつに、リリー・フランキーの顔は、作品がすすむにしたがい、逆方向に加算する。より蒼白になり、より狂気をおびるのだ。作品の第三の時間相は、先走っていえば、「過去の総括」にまつわるものだが、ジャンキー=リリーを襲う決定的な惑乱は、フラッシュバック、つまり記憶の総括不能だった。そうして第二の時間相が第三の時間相に連結される。ひとつの時間相に終始しないことが大根仁の法則だった。実際はこの「連結」こそが「加算」の本質で、加算はねじれの位置に組織される。「禅譲」とおなじだ。逆にいうと、「継承」自体(この作品のみえやすいテーマ)は同方向の進展を延長するにすぎないだろう。
 
注意しなければならないことがある。凸凹ともいえる福山、二階堂のコンビは、本来ならカメラマンと記者に役割分担させられていたはずだ。ところが領域溶融が加算的に増大してゆく。二階堂は福山と「同時の」撮影者の位置へと無理やり拉致されてゆくのだ。芸能人のカーテン越しの隠し部屋でのいちゃつきを、まず二階堂は自分のケータイに収めた。次は、福山に借りたままになっていたカメラで、二階堂は、福山とリリーのこどものような身体どうしの接触と舞踏性を収めた。さらには福山のしめす迷彩行動の後部で「松永」の現在の顔を捉える真打として二階堂が英雄的行動を貫徹した。これらもまた加算の軌跡といえるだろう。
 
この加算もまた多方向的で、結果、個々の「領分」を無化する拡張なのだった。大根は時間の加算をしめしながら、同時に時間は一方向にはながれないと、ふかい留保をつけている。結果、最終的に二階堂は本作のクライマックスで「撮影者」の位置にのぼりつめ(それなりに彼女は責任を負う)、しかも自己を分化させて、記事の記述者の大役をも担うことになる。これが最後の「加算」で、そこに出現する情緒的な演出に、観客は泣かされることになるだろう。
 
未見者の愉しみのために、本作のクライマックスについては叙述しないが、拾うことのできるふたつのエピソードを示唆しておく。これが第三の時間相、つまり時間の事後的な総括にかかわるものだ。ここでは性的体験の初回性が共通の話題になる。クライマックスで惨事が確定する直前、福山は二階堂に一万円札を渡す。吉田羊に渡せ、渡せば彼女は理由を了解すると言い添えて。その後の吉田の反応、それと作品の当初の福山の悪態言辞を綜合して、その一万円は、福山が吉田に負けた賭金だったと観客は判断する。では何の賭けか。ぼんやりダサい二階堂はどうせ処女だと福山はわめき散らしていた。その福山の見込みが誤謬だったと判明するのは、福山が誤謬を実地体験したためだ。事実は、福山と二階堂の、満足のゆく初交接でしめされた。ここでは予想の外れが、「時間の総括」として吉田に投げ出されている。
 
もうひとつ、二階堂を脇に、滝藤が福山を回顧するディテールがある。かつて若手記者時代の滝藤が福山のカメラでついに初めての大スクープを獲得したことがあった。祝儀にふたりは鶯谷のソープへ行き、そこで滝藤は筆おろしをすることになる。ところがその相手はうんざりするほどの肥満体。それで滝藤の初体験は悲惨さに終始した。ことが終わり、福山が慰める。俺の初体験も悲惨だった。相手は50女だったもの。滝藤の述懐は過去の総括。むろん真実だ。ならば滝藤のそのときにたいする福山の述懐は真実だろうか。
 
滝藤は真実だとおもっているだろうが、作品の全体をみている観客は虚言に決まっていると判断するはずだ。福山はかつて美女の吉田羊をモノにしているし、ついさっきはかわいい二階堂をモノにした。それは美形で、撮影に才能と執念を発揮する男性性をもちあわせているためだ。キャパに憧れた高校生の時に、すでに同級生ヌードなども撮っていて、そんな相手と初体験を済ませているにちがいない――観客はおそらくそうおもう。このときは時間の第三の相「過去の総括」が、同時に真実と虚偽の逆方向に分岐しているのだった。
 
第四の時間相。じつは本作ではここに現れる時間論がもっとも抒情的にうつくしい。これは簡単に例示できる。「松永」の現在の顔の撮影に成功したことで二階堂は局長賞(だったか?)を得る。刊行後、販売部数が飛躍的に伸びた(シーンの白熱を数値の推移でいわばグラフ的にしめす手法は『バクマン。』におなじ)。その後は社員たちによるカラオケの打ち上げとなる(このときの二階堂ふみが抜群にかわいい――TV版『モテキ』の満島ひかりのように「悲惨で、かわいい」というのではないが)。会がひけたあと、ジャンプカット、イメージ処理されたような展開で、二階堂と福山の初めての交接が描かれる。描写はロマンティックで、作品当初のポールダンサーのいるストリップバーや、その後のピンサロの無秩序な描写とは次元がことなる(注意すべきだが、大根は本作でいかなる女性の乳首もカメラに収めてはいない)。事後の翌朝、福山はまだベッドに寝ている二階堂の寝顔を、ライカだろうか、高校生時に愛用していたカメラに収めた。これが伏線となる。
 
そのカメラにその後、福山は事件渦中の映像を収めることをしいられた。その福山の「仕事」の確認者として、吉田羊と二階堂ふみが社内の暗室にいる。いまは写真のすべてがデジタルのはずだから、その暗室使用は久しぶり、例外的なものだっただろう(往年のフィルム資料のデジタル化につかわれる以外は)。赤い照明下、福山の撮った写真が次々に現像されてゆくと、それらは対象の尊厳をまもるため意図的にピントが外されたものだと判明する。そのことだけでも泣けるのだが、観客は待望している。最後のフィルム齣に収められているのはあのときの二階堂の寝顔のはずだと。
 
やがて「それ」は赤い照明のもと、現像液にひたされて、ゆっくりと現れてくる。過去のとおさをうちやぶり、ゆっくりと現在化されるこの像こそが、おそらくは「第四の時間相」、恩寵とか秘蹟とよばれるものだ。あるいはエビファニー。プルーストはそれに水中花の比喩をもちい、ベンヤミンならそれをアウラの語で荘厳するだろう。問題は「ゆっくりと」現れるものだけが真実だということではないだろうか。じつはこの緩徐性は、この瞬間まで作品が描出を自制していたものだった。だから落涙をうながされてしまう。この落涙により、時間の欲望に翻弄されていた観客が救抜されるのだった。
 
情報を確認していないが、この二階堂の寝顔の写真は、眠る演技を自然におこなう二階堂を、映画のカメラマン、スチルマンではなく、俳優の福山が、写真家自身として(つまり素の状態で)撮ったものなのではないだろうか。ここでも役柄の境界が侵犯されたとみるべきだ。福山に撮られる信頼が二階堂にあり、二階堂を撮る愛着が福山にあったとしたら、主役男女のいわばメタレベルでも、作品そのものが崇敬されたことになる。
 
――10月26日、シネマフロンティア札幌にて鑑賞。
 
 

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2016年10月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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