藤田晴央さん
詩誌「びーぐる」は定期購読しているが、北大図書館経由ではいってくるので入手できるのが遅い。その33号はこちらも特集が黒田喜夫。特集は未読だが、詩集時評で『石のくずれ』をとりあげてくれた藤田晴央さんの文章がとてもうれしかった。みじかいので全文、転記打ちさせていただく。凝縮されてしかも滋味と余韻のある、藤田さんの書きぶりを堪能してほしい。時評文の手本だとおもう。
●
阿部嘉昭『石のくずれ』(ミッドナイトプレス)。近年、著者の詩論に共感することが多い。暗喩よりも換喩を重視し、さらに減喩へと論は深化している。その実作もまた、この詩論と重なるものだ。
すこしずつ――になってゆくという
述部をひそかにすきなわたしは
ゆくすえのかさねにくらんでいる
ひとつとただみえたながれへ
しずかにべつのひかりがしみいる
ときとときとの同道のようで
そのものがたかいけはいをまがり
まるみをまがるフーガをおもわせる
ごらん分岐はならびにあるのか
いきごとのえらびでしかないのか
とおい二羽が二音のはなれを
すこしずつえいえんにしてゆく
(「すこしずつ」)
まさに、「すこしずつ」ずれてゆく詩の言葉たち。多くの詩が、フーガ(遁走曲)のように、ひとつの詩行が追いかけられて変奏されていくうちに、詩はいつしか異なる景面へと運ばれている。詩には二重フーガであることもある。
よく聴くとひとの袖口や襟元は
そこにみちひきがあるかぎり
ちいさくなみおとをとどろかせて
めくればいいとそのからだが
とうめいなゆびをさそっている
ころもにあかるい開口があり
裾も季節しだいで上下して
スカートが春をのぼりつめれば
ことごとくがなみおとをならべて
みえるをなみだにかえてしまう
(「春潮」)
大正期、それまでの文語詩から口語自由詩の世界を切り開いた福士幸次郎も萩原朔太郎も、自由詩における内在的な音韻にどれほど心を砕いたことであろう。今、著者は「音脚」を調え、詩の一行一行の走者になめらかにバトンを渡させている。
●
ついでにしるすと、坂多瑩子さんの『こんなもん』では、藤田さんはつぎのような紹介(分析)をしている。こちらもみごとだ。藤田さんの着眼が、ぼくにたいするものと共通している。やはり転記打ちさせていただく。
●
坂多瑩子『こんなもん』(生き事書店)。換喩、を使いこなした詩集と言っていいのだろう。数行は、同次元の言葉が書かれているが、いつしか、すっと、ずれている。まったく違った次元の言葉ではなく、前と関連しているのだがずれている。「春」という詩では、前半は種をまく話である。途中で「いまはこんなことをしてくても/いい苗を売っている」と、詩は苗に移る。
苗がずらっと並んでいるのを見ていると
にんげんもずらっと並んでいて
育つとこうなりますと書いて
どんな絵にしようか
自分で自分の予想絵を描いて
にんげん屋の店さきに
立たされている
という形で終わる。種と苗は近似値だがにんげんは並んでいることでその前にある言葉と同族となる。そして、にんげんは苗と異なり「立たされている」。そこに批評や洞察がある。発想の飛躍を行う詩人は多いが、坂多さんのそれは、どこかくねくねとつながっている。それが妙にさっぱりしていて、人間の在り方や機微に触れている。