逃げ恥 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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逃げ恥

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が掲載されます。今回串刺しにしたのは、10月クール話題のTVドラマ(エンドロールで俳優たちが踊る「恋ダンス」もかわいいと評判の)『逃げるは恥だが役に立つ』(以下、「逃げ恥」)、海野つなみによるその同題原作コミック(講談社Kissコミックスで現在8巻まで刊行中)、さらには市川崑の名作をバカリズムが拡張的に脚色した連続TVドラマ『黒い十人の女』です。
 
で、いつもどおり、新聞原稿の補足になることを書きます。
 
コメディの原理というのを、ぼくは二重性だとおもう。現在、俳優たちはたとえば80年代などに較べるとものすごく優秀になっていて、その理由も二重性にかかわる表現力が飛躍的に向上したためではないか(ベタ/ネタの二重性ととうぜん関係がある)。
 
『逃げ恥』のヒロイン、新垣結衣(ガッキー)がものすごくかわいい、と称賛されていて、ぼく自身はすでに去年10月クール、さほど話題にならなかった変格推理ドラマ『掟上今日子の備忘録』でも確認した現象です。ガッキーのルックスそのものに、じつは二重性がある。顔の特徴は――眼が通常のひとより、頭部の上方についている(瞳はすごくきれい)。それは基本的には童顔ではない、という印象を惹起するはずです。なのに、童顔。そうなると、おでこが狭くなるはずなのに、ひろく、利発そう。そのおでこに前髪がゆれる。ならば髪の毛がすくなくなるはずなのに、側面や背面からは毛髪がゆたか。つまり、「なのに」で顔の部位の連関がふしぎにむすびつけられている結論になります。
 
ガッキーの最大のチャームポイントは微笑時の口角が、上向きになることでしょう。あどけなさ、やさしさがそこからにじむ。ところがさすがにデビュー当時からは時間が経過したので、その口角上がりの微笑のとき加齢のあかしとしてちいさな皺も出る。このことも矛盾撞着です。ガッキーの肌は、顔にしても、脛にしても、ちらりとみえる腋窩にしてもツルリとしている。よくいわれるのは、天使的というよりサイボーグ的ということではないか。
 
ところがなにかがナマナマしいのです。まずは頭部の骨格がうりざね-ラグビーボール系で、実際はモジリアニの絵画ヒロインのように存在論的な質感がある(これに中心のたかさがさらに加わると、ぼくのもうひとりのフェイパリット女優、波瑠になります)。相手の見た目により、ガッキーの顔がとらえられるときにも独特の呼吸がある。みられることを誇らしくおもうようすと、相手に自分を差しだす逸脱を恥じるようす、それらが複雑に同居し、結局は二重性がコケットリーになる次元に到達するのです。そういえばジンメルもこうつづっていた――《コケットリーとは、yesとnoを同時に言うことだ》。
 
ガッキーの利発さ、献身、優艶、従順、逡巡は、なにか未来形の空隙によって刺繍されているかんじがする。それはいっけん軽い。軽いのに、生物的な物質性を手放さないのです。
 
ガッキーの外見のみを云々していて、ドラマの前提をしめすのを忘れていました。ガッキーは大学院で心理学を修めたのち就職するも、賢くて厄介とみられて派遣社員にしかなれず、しかも派遣切りの憂き目にさえ遭う。たまたまIT系エリート星野源の家事代行(掃除、洗濯、買い物代行など週一回だったかの勤務)という臨時職が転がるが、両親の引っ越しでその職も手放さなければならない雲行きになって――唐突に、契約結婚(≒偽装結婚)の提案を星野にする。住居シェア、家事専念、家賃分担、給与支払が条件。星野が利便性と収支をシミュレートすると、結果は上々。それでふたりは周囲に結婚を公言するが、ふたりの仲は性愛どころか情愛も前提しない、ビジネスライクな雇用-被雇用の契約にすぎない。ところがあまりに「新婚感」がない、とふたりの仲をあやしむ詮索好きが続出。それでふたりは「新婚感を醸す」ためにまずは「ハグ」日を決め、その練習にいそしむようになる(ここまでが第五回)――
 
ラヴコメで、「同居」が「相愛」に移行してゆくというのは、妄想中の理想。TVドラマでも『雑居時代』などの金字塔がありますが、ここでは1対1のミニマリズム、しかも起点がビジネスライクであること(偶然ではなく作為であること)、当事者ふたりがサイボーグ的なのに、そこに人間的な血がかようことが「エロチックな破綻」になるなど新機軸や逆転が仕込まれています。海野つなみの原作コミックそのものがアイディア満載なのですが、それをドラマは、エピソードの合体、整理、おもに「場所」を変えることでよりドラマ性をたかめ、物語回転を促進するなどの施策を講じて見事です。野木亜紀子の脚色の技量は特筆もの。
 
「自分をこじらせている」という点では元カレに小賢しいといわれたガッキーもそうなのですが、「恋愛における自尊感情がひくい」(恋愛での成功体験が皆無で、外界へ壁を設け、恋愛的葛藤にたいしては逃避をつづけ、恋愛上の楽観や自己愛を徹底的に遮断する)星野源は、もっと性格=人生をこじらせています。几帳面、精確、ビジネスエリート、他者干渉にかかわる厳格な自己抑制――といった現代的な「美点」をもった彼は、草食系どころか絶食系とガッキーにみとられます。ジャズバラードに「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」という名曲があり、ダミアのシャンソン「人の気も知らないで」にも「あなたは愛するすべを知らない」という絶望的なフレーズがありますが、星野の精神上の「愛の未踏地帯」がいわば「厄介な希望」を指標する点が、このドラマの政治的な機構なのです。
 
星野源に、「ゆるやかに」「愛の良さ」を知らしめなければならない――それが第五回時点のガッキーのひそかなねがいですが、むろんここには性差の逆転がある。ゴダールのSF『アルファヴィル』がけっきょく異星人アンナ・カリーナに「ジュテーム」をいわせる訓育過程だったように、通常は男が愛を訓え、女が訓えられるのです。ところが『逃げ恥』の性差の逆転はそれほど倒錯的ではない。むしろ「無風」への複雑性の干渉、ミニマリズム破産への使嗾、現代的なアンドロイドの、人間化をつうじての逆説的縮減――これらをもくろむドラマのメタ次元こそがじつは不道徳なのです。それがスピーディな作劇によって回転する。結果、ドラマ『逃げ恥』はスクリューボール・コメディの換喩となったのでした。すごく精神性が高度。これは今年のドラマでは、嵐の大野智と波瑠がカップルを演じた『世界一難しい恋』にすでに前例がありました。ここでも男性が「開墾」対象になっていました。
 
ヘイズ・コードの規制下、30年代ハリウッドの奇妙なジャンルとなったスクリューボール・コメディは、セックス・ウォー喜劇とも別名されます。たとえばライバルのようにビジネス上張り合う美男美女がいる。いがみあいの科白が漫才のやりとりの速射砲さながら過密。ところがその過密性が一種の「同居性」ともなって、ふたりは恋愛精神を装填されたロボットよろしく、忽然と相愛状態に陥る。恋愛と機械性のこの同居がじつは不道徳かつ性的で、きわどいセックスジョークすらこっそりと仕組まれているのですが、ドラマ進行のスピードがそれらすべてを未承認のまま迷彩化させてしまう。いまならクドカンが得意にしている作劇です。
 
「性」を暗示領域に置きながら、画面上は男優女優を性的に露呈させるスクリューボール・コメディ(むろん衣服はまとっています――「仕種」「発語」「表情」だけが高速のなかでインフレ化するのです)と、ドラマ『逃げ恥』は類縁もしくは隣接を描くことになります。ここでも「なのに」が連接剤となっている点に注意が要ります。メタレベルでは男女の性の価値転覆が狙われている「のに」ふたりの逡巡により清潔感が醸され、セックスは露呈されない「のに」視聴者の五感全体にその物質性を訴えかける。よくよくかんがえれば事態は経済不況をもとにして深刻「なのに」可笑性がある。星野源は一種の珍獣「なのに」ありきたり。キャラクターはこじれている「のに」、対象肯定的なドラマ自体の視線がやさしい……
 
すべて二重性の指標です。俳優の記号性がドラマの本質となるものは映像の傑作ですが、はじめのほうに書いたように、こうした二重性の淵源は、ガッキーのルックス、身体性にあります。だからドラマ『逃げ恥』が傑作になった。視聴者もドラマの刻々を笑いながら、文化記号上このドラマが異様に高度だということに気づいているのでしょう。口コミが口コミを呼び、ドラマ『逃げ恥』は放映回ごとに視聴率が上がるという例外をしるしているのです。
 
ドラマ『逃げ恥』だけで、ずいぶん字数をつかってしまいました。これまたスクリューボール・コメディの亜種といえる『黒い十人の女』についてはまたべつの機会に――
 
 

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2016年11月12日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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