連詩大興行(3)
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(承前)
僕らの連詩のメンバーに入っている杉本真維子さんは、
ふらんす堂で出された『詩のリレー』のメンバーでもある。
ほか手塚敦史、森悠紀、杉本徹、青野直枝、
キキダダマママキキ、江村晴子各氏が同書に参加した
(なお、『詩のリレー』第二弾には
僕らの連詩メンバーでは久谷雉くんが参加している)。
この「詩のリレー」が僕らの考える連詩のありようと
発想がすごく近似しているとおもう。
ではその「詩のリレー」の規則とは何か――
同書の「緒言」部分から引用してみよう。
《この「詩のリレー」のバトンは、
「作品の一行」です。
前の走者の作品の一行をかならずとりいれて書くという
(詩歌の本歌取りの)制約の下に進んでいきます。
但し第一走者のみ、任意に作品を選んでいます。》
(ちなみに第一走者・手塚さんは
稲川方人『2000光年のコノテーション』から一行を採った)。
話の契機に、杉本真維子のものを全篇引用してみよう
(またも、論議上、詩行アタマに算用数字を付す)。
ちなみに杉本真維子さんの詩篇は森さんから「受け継がれ」、
杉本徹さんに「手渡される」第三走者としてのものだ。
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【或る(声)の外出】
1 いくつかのリズムの内壁に、跳びかかるべき距離を測っている
2 ぼくらはまだ脱色のように少しいたい
3 がむらんの響きを合図に
4 横になったまま暴れている星型の叫びをつなぎ、
5 (シュッ
6 「ならぶ花火の、あつめられた手のひらを言え」
7 円陣をくんで、汗ばんだ空をまさぐる
8 うす暗いへやの奥では
9 猿がむきあってトランプを混ぜている
10 与えられたすきまのための身長ならたたむ
11 背丈ほどに髪ものばし
12 くの字に折って遊ばれる
13 人形のように
14 あるひいとこにさらわれて失くされた
15 あのひと、ぼくらの、最初の声は
16 かたかたと庭先を出ていく
17 改札で白い杖にからまり
18 無言の人形がひとを泣かせてもすすむ
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1行目と6行目が前任・森さんの詩行からのそのままの抜き取り。
もともとこの「詩のリレー」は
第一走者・手塚さんの詩が像の危うさを提示し、
風景のなかには水泡(みなわ)のような少女幻像もつむぎ、
同時に「語体」も描かれるものに伴って
変幻の危なさを盛る、という着想で始まっている。
第二走者の森さんは、手塚さんの立ち姿を踏襲し
水に混ざらぬものとして音=音楽をはっきり混ぜてみせた。
その音楽をさらに「声」に特化してみせたのが
第三走者・真維子さんだったといっていい。
そして音のなかに幽閉された自らには
「人形性」という、「少女性」に紛うもののズラシも組み入れた。
3行目、唐突に出現するかにみえる「がむらん」は
森さんの以下の詩行に負っている。
《転写して抜けてゆく、みず(みずからテープレコーダーが
音声を写生する、
なかにがむらんの響きがががとらえられている鈴ががが、
といういきものの波形がとどくから、[・・]》。
あるいは7行目に現れる動詞《まさぐる》も
森さんの以下の詩行に拠っている。
《あかるい肉をうごかすためのいちばんいい骨のありかを
はたらきながら彼女(は
彼女のなかのゆび)はまさぐりつづける》。
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この「まさぐり」にたいして自己連句的な「展開」をおこない
動詞群を活用形の外に、別種として展覧させることが
真維子さんの詩想の最初の着眼ではなかったろうか。
7《まさぐる》→9《混ぜている》→10《たたむ》
→12《遊ばれる》→14《失くされた》。
もともと性的危険のあった「まさぐる」の用語が
さらに性的幻想の度合いを加え、
それがしかし「失くされた」で行方不明となる。
この「行方不明」と詩全体のイマージュの結像困難が
ここでは相即しているのだとおもう。
もともと杉本真維子さんの詩にはそんな気配があるのだが、
森さんの詩から採って詩行に出現している
6《「ならぶ花火の、あつめられた手のひらを言え」》に
魅惑たっぷりの結像不能性の強度が優れて満ちているとおもう。
6はどう解釈すべきなのか。
数人の花火遊びで花火に明かりする手が見られているのか、
あるいは花火大会で夜空に刻々と開く大輪の花火を
「手のひら」と隠喩しているのか。
いずれにせよ、命法は命法特有の明瞭な内容を欠いていて、
それに対し、真維子さんは、
括弧閉じをしない5《(シュッ》という、
マッチを擦る音だけを「斜めから」交錯させた。
させたが、7《円陣をくんで、汗ばんだ空をまさぐる》では
花火大会が暗喩される色彩をつよめてみせてもいる。
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解釈――ズレ。それを「運ぶ」こと。
この経緯にすでに「連句」性があるし、
その「連句」性は、前言したような《まさぐる》以下の動詞連鎖で
真維子さんの詩篇そのものの行の運びにも点綴されてゆく。
で、詩の主体が、
隠れされている「ぼく」(「ぼくら」ならある)なのか、
13、18にある「人形」かも、不分明になってゆく。
この不分明性を真維子さんは最初から予定している。
2《ぼくらにはまだ脱色のようにいたい》の「いたい」は
(場所に)「いたい」の願望の意なのか、
それとも「痛い」の痛覚の意なのか。
読み筋が二様に取れるのは「脱色のように」の直喩が
意図的に乱暴だからだ。
乱暴といえば、
真維子さんは連詩の「受け渡し」は乱暴のほうがいい、
と考えているともおもう。
4《横になったまま暴れている星型の叫びをつなぎ、》に
そうした彼女の志向(嗜好/思考/試行)が現れている。
真維子さんって、どっかがパンクなんだよね(笑)。
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像を結ばず、凝縮の果てに静かなままの閃光を発する
「片言」で畸形的な杉本真維子特有の詩行の運びは
それでも標題【或る(声)の外出】と共謀して、
全体的には朧ろげな「物語」を紡ぎだすようにおもう。
音に幽閉されている主体がいる→
引きこもりに近いその主体には
理不尽なものに凌辱される気配が絡み、人形性を付与される
→それはやがて外界へと出立する
(その身体の出立と、声の外出とが同位だと詩の全体が語る)
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いずれにせよ、途上で途切れてしまった
15《あのひと、ぼくらの、最初の声は》に残されている
祈祷と起源回顧と、聖なるものへの寄り添いとの心情が
このような欠落態の狂言綺語へしめされているさまに
圧倒的な魅力を感じてしまう。
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17《改札で白い杖に絡まり》には明らかに凶暴さがある。
自分の歩行により盲人をなぎ倒したような暴力の気配があるのだ。
ところがそこでは「改札」という詩的なトポスだけを
イメージとして残存させるような意志がある。
ともあれ、「刈り込み」によって言葉を発光させる真維子さんの詩は
やはりいつも「凄い」。性的にゾクゾクきてしまう(笑)。
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続く杉本徹さんの「十二階」と題された詩篇も
全篇引用したい素晴らしいものなのだが、
長くなるのでやめておこう(笑)。
題名に往年の幻のランドマーク、浅草十二階が朧ろに隠され、
その螺旋階段を昇ってゆく気配を
詩行の全体が演じることになる。
「出てゆく」という真維子さんの詩の運動は
そうして「螺旋を上る」に連詩=連句的にズラされ、
その幻の主体の視界を襲うイメージも
これまた像をはっきり結ばない程度に間歇的に流されてゆく。
同時に徹さんらしい詩句のロマン化が見事だ。
真維子さんから採られた詩句は
《人形のように》と、若干の変型を施した《(ぼくらの、最初の声は)》。
そして真維子さんが明示しなかった「燐寸」も書き込まれ、
「改札」もまた「乗り継いだ駅」に変移する。
さらに徹さんの引用は「テープレコーダー」など、
真維子さんの前任者・森さんの詩句領域にまで遡行してゆく。
全体に知的な営為の緊張が貫かれている。
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ふらんす堂『詩のリレー』をこのように解説をすることで
前任者が詩篇に部分として散りばめた
「詩語」「フレーズ」を見立て替えして自らに取り込み、
自詩を、ズレを孕んで展開させてゆく
その醍醐味が理解されたかとおもう。
そこでは、詩を書く主体が半分透明化してしまう。
合作の全体に詩各篇の主体の半分が溶ける、ということだ。
だから杉本真維子も「声」を「(声)」と書いたのではないか。
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芭蕉連句では語句の重複を嫌う。
あるいは4行聯連詩でも語句の重複が同様に厭われるだろう。
一篇という単位で示される持ち分があらかじめ少ないそれらでは
「重複」を生じると詩世界が痩せるという判断があるはずだ。
ところが一篇が長ければ、語句の重複を内在因子にして
詩の受け渡しにズレを組み込む連句的な機略を獲得できる。
憶いだしてほしい、
前回日記で引用した、稲川方人の連句的運びの詩行にさえ
すでにフレーズの重複が明瞭だった、ということを。
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「詩のリレー」の解説で予定の紙幅を使い切ってしまいました(笑)。
次回、最終回は、今回の連詩メンバー、
明道聡子さんと阿部嘉昭があらかじめおこなっていた連詩から
語句の重複とズレをさらに例に出して、
僕らがおこなおうとしている連詩の方法をより詳しく考えてみます。
(この項、つづく)