2016年鑑号
「現代詩手帖」年鑑号は、居住地が北海道なので届くのが遅く、昨日、郵便屋さんからうけとった。自分の原稿にかんしては「詩書展望2016」という副題がつくのは知っていたが、年度回顧をおこなわず、詩集刊行ラッシュとなった9月10月分の「月評」という体裁を単純にとることとした。あたえられた字数になるべくしたがったが、カニエ・ナハさんのをみるとだいぶ超過している。あらかじめ許容幅をしめしてくれれば、カニエさん同様、あと5、6冊は取扱い詩集をふやせたとおもう。すこし残念。前任者と較べ、書き手と編集者のあいだがやっぱりディスコミュニケーションになってるなあ。
連載最後の号で書いたのは、「変型ライトヴァース」と「譚詩」が詩作の趨勢になってきたのではないか、という観測だった。ただし前言のとおり、年度回顧という枠組ではあまりそれをしるしていない。というか欄の性質上、1月からの連載全体を集積して、年度が回顧されるしかない。それで1月から12月に取り扱った詩集を改めて、以下に列挙してゆくことにする(何かの役に立つだろう)。そのさい、「変型ライトヴァース」の佳作が掲載されている詩集を○、「譚詩」の佳作が掲載されている詩集を★でしるしておく。くわえて今号のぼくの原稿の鍵語、「恥辱」意識のつよく見受けられるものを詩集名のあとに※でしめす。
【1月】
○稲川方人『形式は反動の階級に属している』※
・カニエ・ナハ『用意された食卓』※
・石田瑞穂『耳の笹舟』
○平田俊子『戯れ言の自由』
★日和聡子『砂文』
【2月】
・平田詩織『歌う人』
○蜂飼耳『顔をあらう水』
○大江麻衣『変化(へんげ)』※
・宿花理花子『からだにやさしい』※
★紺野とも『擾乱アワー』
・鳥居万由実『07.03.15.00』※
【3月】
○宗清友宏『霞野』※
○久谷雉『影法師』※
○久石ソナ『航海する雪』※
・野村喜和夫『久美泥日誌』
○相沢正一郎『風の本――〈枕草子〉のための30のエスキス』※
○冨上芳秀『蕪村との対話』※
【4月】
○吉﨑光一『草の仲間』※
○平野晴子『黎明のバケツ』※
○沢田敏子『からだかなしむひと』
○筏丸けいこ『モリネズミ』※
○平井弘之『浮間が原の桜草と曖昧な四』※
【5月】
○瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海end.』※
・榎本櫻湖『metamusik』
○松本秀文『環境』
○大野南淀/藤本哲明/村松仁淀『過剰』※
○青石定二『形R』※
【6月】
○高橋留理子『たまどめ』
○かわいふくみ『ひとりの女神に』※
○mako nishitani『汚れた部屋』※
○伊藤悠子『まだ空はじゅうぶんに明るいのに』※
○来住野恵子『ようこそ』
○最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』※
【7月】
・岩成達也『森へ』
・手塚敦史『1981』※
・荒木時彦『要素』※
○稲垣瑞雄『点滅する光に誘われて』※
【8月】
・山田亮太『オバマ・グーグル』※
○廿楽順治『詩集 怪獣』※
○夏石番矢『夢のソンダージュ』※
○川上明日夫『灰家』
○宇宿一成『透ける石』※
【9月】
○永方佑樹『√3』
○高塚謙太郎『sound & color』
・谷澤理衣『世界観をもとめて』
○黒崎立体『tempo giusto』※
★野崎有以『長崎まで』
【10月】
○金井裕美子『ふゆのゆうれい』※
○河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』
★中森美方『最後の物語』
○★荒川洋治『北山十八間戸』※
○北原千代『真珠川 Barrocco』※
【11月】
○大木潤子『石の花』
○神尾和寿『アオキ』※
○坂多瑩子『こんなもん』※
○★林美佐子『発車メロディ』※
・萩野なつみ『遠葬』
【12月】
○小峰慎也『いい影響』※
○大橋政人『まどさんへの質問』※
○能祖將夫『魂踏み』※
○武田肇『られぐろ』
・和田まさ子『かつて孤独だったかは知らない』
○★瀬崎祐『片耳の、芒』※
★草野理恵子『黄色い木馬/レタス』※
★加藤思何理『奇蹟という名の蜜』
・カニエ・ナハ『馬を引く男』※
・齋藤恵美子『空閑風景』
○清水あすか『腕を前に軸にして中を見てごらん。』※
付けた符号そのもので詩集の良しあしがはかれるわけではない。絞った書き方をしたとはいえ、とりあえずつごう68冊。フーッ。もっとも、このみでいえば「○」と「※」のあるものがぼくのストライクゾーンかもしれない。むろん12回であつかったものはすべて傑作とおもっている(わずかに話題性でえらんだものもある)。
年鑑号ぜんたい。まだ流し見の段階だが、相変わらず。自社出版物中心、「中堅」を軽視しての、ベテラン/若手中心、意味のない男性・女性分離などはもう年中行事だろう。詩作フィールドのほんとうの容積部分は伏流状態のままだ。巻頭鼎談では稲川方人さんの発言に筋がとおっている。彼がだれのことを具体的にいっていないかがおもしろい。可能なかぎり詩書に眼を通した、と語っているが、もっと眼を通せば見解もかわったとおもう。詩の例の「特需」が2016年度の話題ではないのも自明だ。稲川さんは気づいていないかもしれないが、ほんとうは「恥辱意識」のない詩作者を批判している。
自分自身のことでいえば、『詩と減喩』『石のくずれ』の話題が「適当比率で」さまざまなひとからのぼり、まあ、こういうものだろうなあ、という感じがした。自分とだれのソリが合わないのかは、ほとんど例年変わっていない。
それにしても、「今年の収穫」アンケートの回答者数が年々減っているのが気になる。詩の資本は、「年度代表詩集」に集中させたいのだ。そのほうが整理をつけた販促ができる。東宝的な論理。あるいは麻のようにみだれた詩作フィールドの多様性を、70年代ぐらいの水準へと復したいのだろう。それで回答者数を少しずつ、少しずつ、こっそりと絞る。詩の資本が本当に敵対しているのはネットかもしれない。旧弊な「紙の優位性」誇示。巻頭鼎談、稲川方人さえそれを無意識になぞってしまっている。「無意識」はきらいのはずじゃ…