ヤン・ウソク監督・弁護人
ヤン・ウソク監督『弁護人』は、たんに社会正義を訴えかける熱烈ドラマではないだろう。チラシに引用される日本の著名弁護士たちのコメントは平板にすぎる。
主舞台は七〇年代末期から八〇年代初頭の釜山。高卒ながら司法試験に合格し、折からの不動産ブームを当て込んだ底辺の新進弁護士として、ソン・ガンホ扮するソン・ウソクがまず登場する。誇りのない積極的な自己宣伝をつうじえげつなく司法書士業務を代行、やがてライバル弁護士の登場で過当競争になると、大衆派の税務弁護士へとさらに露骨に転ずる。成り上がり者ゆえのソン・ウソクの薄っぺらい拝金主義は、新聞社に入りながら御用記事を書くしかない鬱屈と痛憤にみちた高校同級生との対比でも端的にしめされる。正義よりも金儲け。時代は光州事件を挟む韓国軍事政権独裁時で、冤罪、不当逮捕、拷問、不穏分子と見込んだ勢力の弾圧などを軍部=官憲がほしいままにしていた暗黒期だった。
半島南端の巨大な漁港・釜山は、街が斜面に形成されている。富裕層は港のある海岸部に集中し(作中、すでにモダンな高層マンションが海岸部に林立している釜山のロングショットが短く挿入される)、坂道と迷路のような路地の入り組みで移動の不便な高台には貧困層の零細な石造の陋屋が櫛比する(そうしてやがてクッパ屋一家の居宅が画面に出現する――いっぽう釜山の高台路地と階段の描写は作中、抑制されている)。
最初に現れるソン・ウソク一家の住居は「高台にあるがゆえ」に水道の水圧がよわく、トイレの排水に支障を来した設定になっている。そのソン・ウソクが弁護士として成功を収めたあと居住者が引っ越しの意志をもたないのに巨額のカネをちらつかせて無理やり買い上げるマンションの最上階の一室が、高台から釜山全体を俯瞰できる眺望を誇るのが象徴的だ。つまり「下層民」中の「上層」という階層をそれは表現している。やがて釜山を俯瞰するその視座は、不当な社会の実相に直面することにもなるだろう。さらにいうと、買い上げた一室のある当該マンションは、司法試験合格を目指していた往年の苦学生ソン・ウソクが、ニコヨン労働者のひとりとして建て上げた因縁あるマンションだった。
苦学生時代にソン・ウソクがおぼえた不如意が作品の真芯にある。豚の味噌汁のぶっかけご飯が名物のクッパ屋で、カネに困っていた苦学生ソン・ウソクは食い逃げをした経験がある。功成り名を遂げたソン・ウソクは引っ越し先のマンションと至近のそのクッパ屋に赴き、往年の犯行をクッパ屋の母子に詫び、大枚の謝罪金を渡そうとする。その誠意と、相手の社会的成功を意気に感じたキム・ヨンニ扮する「オモニ」は、涙ながらにソン・ウソクを抱きしめ、カネの受け取りを固辞、「カネは顔と足で返して」、つまり今後、店にしょっちゅう顔を出して、と語りかける。ソン・ウソクは弁護士事務所の事務を切り盛りする同僚と以後、足しげくそのクッパ屋で昼食をとりつづけることになる。
「一宿一飯の恩義」とは、孟嘗君をはじめとする中国の食客制度が根源だ。東洋的な精神性と身体性に裏打ちされている。それがやがて日本の任侠映画に残存するように、侠者社会に飛び火して俗化する。映画『弁護人』では、この点が閑却されてはならない。侠――弱きを扶け、強きを挫く突発行動。そのための情勢への覚醒。ふだんは市隠にあまんじていること。ところが侠気は身体的な「義理」によってもともとがうつくしく傷つけられているのだった。この傷は不当な拷問によってしるされた体傷とも蒼白さにおいて拮抗する。そう、「共苦」とは具体的な傷の共振ではないだろうか。それと「侠」が仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の中国八徳目にはいらないのは、「侠」が侠者=ヤクザにつうじる、不安定な内破性をもふくむからではないか。平岡正明にしたがい、ぜひ魯迅「鋳剣」中の「黒い男」の再吟味を。
大企業の顧問弁護士に抜擢されるなど職掌をほぼ順調に伸ばしていたソン・ウソクを襲った不測の事態とは家族同然に親睦していたそのクッパ屋の息子がおそらく不当逮捕による拘禁で失踪状態になったことだった。悲嘆と不安にさいなまれ、身元不明の死体の度重なる確認までしいられる「オモニ」。「オモニ」の慈愛に報いることこそが正義行動の理念だという半島的=アジア的規範。
前段には、高校同窓会の二次会で、クッパ屋を舞台に、新聞社勤めをする旧友と、喧嘩狼藉をはたらいたのち、下層者たちが集まって自発的におこなっている読書会の社会的な意義を、金儲けと拝金主義、ニヒリズムに染まったソン・ウソクが理解せず、その不誠意を非難され、母子から出入り禁止を通告される悶着があった。やがてヤン・ウソクは前非を悔い、拷問の痕跡をあらわにした不当逮捕者たちの弁護に専心することになるのだが、「一飯の恩義」というアジア的な動機が根底にあるからこそ、ソン・ウソクの闘いは社会正義を抽象化する西洋的な脳ではなく、情でみちあふれる(観客の)東洋的身体こそを直撃することになる。「一飯の恩義」とは「われわれ」のからだが、もともと乞食のものだという真実をかたっている。
浮薄な弁護士を軽快なリズムで演じていた前半のソン・ガンホは、後半、苦難の、しかも不屈の弁護士へと変貌する。監督のヤン・ウソクは裁判の進展に、ソン・ウソクの調査活動、クッパ屋の拷問をめぐる陰惨な回想シーンなどを点綴しながら、「裁判劇」の進展リズムを濃密化させてくる。ノワールな雰囲気も、検察官、裁判長、検察側の証言者の「悪」も、新聞社で働く同級生の自らの無力に関わる慚愧も相互昂揚してくる。アップ構図が多くなり、俳優たちの顔の物質性が強調される情感のたかまりが見事だ。クリント・イーストウッド的な筆さばきともいえる。
韓国映画の優位は、「顔の政治」が画面進展に十全に機能する点にある。主役ソン・ウソクを演じるソン・ガンホは、ポン・ジュノ『殺人の追憶』『グエムル』をおもいおこせばわかるように東洋的な愚者を演じれば天下一品だ。『弁護人』では痩身化に励んだとおぼしく顔ぜんたいがやや引き締まっている。それでもたっぷりの肉質におおわれた不細工さのなかで、理由のわからない酩酊感と悲哀をしるすその細目が、やがて仏像の半眼へと昇華する特質がやはり強調される。その彼が裁判官に感極まって迫るときの涙目の情動がすばらしい。それとともにクッパ屋の「オモニ」役、キム・ヨンエの加齢によって疲弊した、それでもうつくしい顔が作品の中心にある。ポン・ジュノ作品でいえば『母なる証明』のキム・ヘジャをも想起してしまう。だから『弁護人』は、基本は裁判劇なのに「オモニ映画」なのだった。
この映画は実在の事件をモデルにしている。八一年、釜山で起こった釜林〔ブリム〕事件だ。細部はおなじ。したがって主人公ソン・ウソクのモデルものちに大統領となる盧武鉉だった。人権派弁護士として知名度を獲得し、改革派の清新な印象で大統領の座に上り詰めながら、経済面での失政などでやがて与党内からの支持もうしないレームダックに陥ったこの大統領には、さらなる悲劇が最後に襲う。権力を笠に着た係累の汚職続出で大統領の座を失った盧武鉉は、自らの逮捕も目前といわれる危機のなかで、韓国史上初の、大統領経験者の自殺という衝撃の結末に至ったのだった。
となると、光州事件の学生闘士だった韓国内の一私人が、軍務、警察への就職、バブル期の慢心により精神崩壊し、最後に自殺する姿を「逆順」でえがいていったイ・チャンドン『ペパーミント・キャンディー』の経緯を置き換え、その純粋期までを限定に、「正順」でとらえ、「破滅」を暗示域に飛ばしたのがこの『弁護人』という見立てになる。個人の人生変転が、国民の年代記にそのままなってしまう韓国的政治映画の熱い構図は変わらない。日本映画には不可能なことだ。
クッパ屋の息子たちの裁判は、最終局面で劇的逆転の連続となる。貴重な証言者としての若い軍医の召喚。その身分資格の吟味。ソン・ガンホの熱演が沸騰する。そこがドラマの中心なのでネタバレを防ぐが、その後、エピローグ的に時代は八八年へと飛躍する。盧泰愚が民主化移行に踏み切った時代。民主化を推進する熱血弁護士として活動したその後のソン・ウソクが、やがて裁判で無罪をかちとるだろう予感が、裁判所の傍聴席にいる支援弁護士の「数」の増加により演出される(それは呼びかけ、応答、起立の視聴覚性、しかもそのアレグロにより実勢的な感動でしめされる)。
つまり作品は韓国民主化の渦巻きをとらえたその瞬間で寸断される。これはどういう意図なのか。自分たちの国の民主化が、「一飯の恩義」をはじめとする、東洋的な身体の定立によって成った、その原点確認だろう。それは西洋的理念にさえ先行したのだ。映画『弁護人』が韓国で封切されたのは二年前だが、この原点回帰があるから、朴槿恵スキャンダルでゆれ、大規模な大衆行動がくりかえされる現状の韓国にも、作品がするどい訴求力をもつことになる。その意味で生命力のつよい映画なのだった。
――12月24日、札幌シアターキノにて鑑賞