片渕須直・この世界の片隅に
片渕須直監督『この世界の片隅に』は、ことし最高のアニメ映画だ。のんの声優起用、その奇蹟的な成功により、作品の「口調」がふんわりふわふわしている。それと同様の「ふわふわ」はコトリンゴの音楽(声がのんに似ている)、パステル調ともいえる淡い色彩設計、ある悲劇的な瞬間にその本質を露呈する輪郭線の、「定まらなさ」をふくみこんだうごき、ときに二拍子にまで短縮されるフリ-オチ形での挿話の連鎖などにもみとめられる。そうした「ふわふわ」から戦争による残酷=「欠損と死と喪失」が予想外に舞い込んでくる。「まいこみ」に「ふわふわ」があり、現実の表情とはそんなものなのだろうとおもう。もちろんそれに息を呑む。これほど残酷の実相をえがきえた作品など、ほぼ存在しないだろう。
実写なら、黒木華を主役して、亡くなった黒木和雄さんが撮りたかった映画だろうとおもった。フェミニンさによる戦争の転覆。坂口安吾がやりたかったことでもある。ところがアニメだから実現できる精度に作品が達している。作中のおんなたちの世界認識のふてぶてしさ、あるいは嫁と小姑の定番的対立、それらの可笑性にくわえ、旧い日本家屋の捉え方の多彩さ(とくに室内)、玄関土間の台所のかまどによる料理の実際、戦火に壊滅するまえの呉(とくにその遊郭の「ふわふわした」幻想性)、広島の「実際にあった」建物の実際、さらには「欠損」の生じたのちのヒロインの身体の仕種、そのアフォーダンスの徹底、ヒロインと夫が出会ったのが寓話だった種明かしなどには鳥肌が立った。絵を描くのが得意というヒロインにかかわる設定は、作品のメタモルフォシス能力を何重にも倍加し、しかもそれがやがて悲嘆の濃さにもつながってゆく。監督の片渕須直は、宮崎駿と力を傾注するアニメ表現の重心がちがうようにいっけんおもえるが、こう書いてゆくとその可能性の一部を果敢に拡大しているといったほうがいいとおもう。
ストーリー形成も見事だった。45年6月期以降だったか、空襲日記挿入の名目で作中に日付がしるされるようになる。とうぜん原爆投下の8月6日までのカウントダウンになるが、とつぜん掟破りの「9日後」という表示がイレギュラーにはいって、6日当日となる。無時間性の表現。この無時間が玉音放送、原爆投下後の広島にも適用される。直截的な原爆の被爆表象がないのかとおもったら――あった。そのさいの戦災孤児を物語の中心となる一家がひきうけるのは、むろん寓意の達成からだ。かわりにヒロインの姪の死、ヒロインの実妹をやがて見舞う死が釣り合うのだろう。透徹した運命観だ。
片渕須直監督は60年生まれ。原作コミックの作者・こうの史代が68年生まれ(こうのの画柄は、その世代らしく高野文子とさくらももこの中間にあるようにおもう――もののうごき、画角の生成もこれら二作者の最良の部分を継承している)。60年代生まれが戦争記憶の継承と壮絶に闘った記録がこのアニメ映画だった。結果、『この世界の片隅に』は世界中のひとが観るべき重大な負荷を帯びることになった(それでも作品は向日的なユーモアを手放さない)。この作品は題名からして『この国の空』をすこしおもわすが、その原作の高井有一(32年生)、脚本・監督の荒井晴彦(47年生)ができなかったことを60年代生がなしたとおもうと、世代布置の変化をかんがえざるをえない。
――12月29日、女房とともにテアトル新宿で鑑賞。朝いちばんの興行なのに、初老夫婦などで客席は満員だった。
2017年01月07日 編集