塩田明彦・風に濡れた女 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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塩田明彦・風に濡れた女

 
 
【塩田明彦監督・脚本『風に濡れた女』】
 
塩田明彦監督は、筆者にとってはサドマゾ映画の偉大な変格ともいえる『月光の囁き』、それにヒロインの「行動」だけをつないでゆくことで心情を隠匿・神秘化した『害虫』など、初期の日活作品がやはりこころにつよくのこる。その塩田監督が、日活ロマンポルノの再始動プロジェクトの一角を担った。どんなあたらしい「変態」が発見されるか。期待しないわけにはゆかず、しかもその期待は十二分に充たされた。異様にエモーショナルで、アクティヴだったのだ。全篇にわたる発熱状態が笑いをよぶ。となるとそれは現代的に高度な「艶笑」を実現したともいえる。「教養」「サタイア」などの要素なしに、「何もない」ことが艶笑へと昇華できる実験に大成功したということだ。作品は現代的なミニマリズムを暴力的に変型している。
 
塩田明彦といえば、自主映画作家+評論家時代の80年代の終わり、同人誌「映画王」の2号ですばらしいキン・フー論を書いている。キン・フー・アクションの編集的細分性、様式美とともに、俳優身体がアフォーダンス的に外界の事物と関わり、そのことが所与の小道具を利用した複合的な動作へとどう白熱化してゆくかを分析した、すばらしい映画論だったと記憶している。この『風に濡れた女』では、そうした着眼がフル稼働している。
 
イーストウッド『J・エドガー』とはちがうかたちで、「木材」の映画的優位性が問題になってもいる。冒頭は、森林内の小径の分岐点に、背凭れが枠組みだけの、脚にシンプルな装飾が施されたアンティークのニス塗り椅子が、ぽつねんと置き去りにされている。その椅子にさしこむ陽光が、椅子の木材性をことほいでいる。画面向かって左から主人公・高介=永岡祐(もと劇団の中心人物で、現在は創作低迷の打開のため田舎に独り暮らしで隠遁中とやがて判明する)がリアカーを引きながらフレームインしてくる。ためらわず永岡は椅子を拾い、リアカーにのせる。このときリアカーと椅子の木材性が接触する。
 
往年のロマンポルノは、上映時間70分台というのが主流だった。濡れ場とともにドラマまで満載しようとすれば、ジャンプカットが必須となる。塩田『風に濡れた女』でもこの鉄則が継承される。次の場面では主人公は埠頭の突き出た港湾にいる。このとき今度は画面向かって右から自転車に乗った女・汐里=間宮夕貴が疾走してきて、躊躇なく海に突入、水しぶきをあげる。間宮はずぶ濡れのまま自転車を置き去り、海からあがってきて、ロングヘアーを海水でしたたらせ、即座に濡れそぼったたぷたぷのTシャツを脱ぎ、それを永岡の前で含羞のかけらもなくしぼりあげる。引き締まった裸身。二枚目・永岡の素肌に着た余裕のあるYシャツは風を孕んでその布の物質性を往年の『Helpless』浅野忠信のように際立たせていたが、それと間宮の灰色のTシャツが物質的に対照をなすのだ。ドラマ上、無媒介に上半身裸の女が、偶有的にそばにいるとみえる男を挑発する突然の成り行きももちろん興味ぶかいが、物質が併合したり対立しあったりする画面細部に、すばらしい官能性をかんじてしまう。これもロマンポルノの流儀だった。もちろん自転車の海への突入は神代辰巳『恋人たちは濡れた』のオマージュ。
 
任意の男女が多数の交合を展開するロマンポルノでは、偶有的に画面定着される男女がいかに2ショットを形成するにいたるかで、継続的なサスペンスを生産する。ところが塩田監督は、それを躊躇なく高速で達成してしまう。くわえて、横方向にたいする並列という2ショットの定番をいかに2ショットのまま変化させるかに腐心するのだ。素っ頓狂な間宮夕貴の登場を、隠遁者の趣をかもしはじめる永岡は相手にしない。休憩と黙想を終えただけ、という気色で、彼はリアカーをひとり引きはじめ、別場所へと向かおうとする。
 
海辺の防砂林の小径。間宮が執拗にそれを追う。縦構図の画面は後退移動の長回しとなる。間宮がリアカーに乗る。「何もない」間宮を、抵抗圧のないリアカーは自然に運搬する。間宮の出鱈目の歌。やがて間宮は自己身体を「進出」させ、肩車の状態で永岡にまつわりつき、しかもスリムジーンズの長い脚が永岡のからだをしめあげる。「絞ること」「締めること」を繰り返している闘争的な身体の各部位。しかも永岡の身体が、間宮の身体を特異化する小道具へと貶められ、同時に2ショットが縦方向から画面上下方向へとさらなる展開をしるしている。アクションを刻々発明してゆく演出の悦びが伝わってくる。
 
ながれるような黒い髪、ながく恰好の良い手足、スリムなからだ、それでいて量感のある挑発的な乳房、するどさが時に瞋恚にもかわる視線、それが間宮夕貴の「道具」だ。役柄上、もちものをなにももっていない、純粋な「身ひとつ」。断捨離の極限ともいえる。一方の永岡祐は、海辺の防砂林一帯の奥まった緩衝帯ともいえる空き地、そこにあるバラックづくりの、いやに横長な掘っ立て小屋で隠棲を営んでいる。もちろん「木材性」のたかいだけの陋屋だ。暮らしに拘泥があるとすればコーヒーを旨く淹れることくらいか。彼は「欲望」を断捨離したと自負し、それを間宮に公言しもする。こうして型の異なる「純白」どうしが対峙すると、いわば「純白」が充填され、それが激しく動態化してくる。これが『風に濡れた女』のしるす運動と哲学だ。
 
往年のロマンポルノに一貫した政治性があったとすれば、それはフーリエ的な乱婚状態の、ユートピックな礼賛だろう。ところが多くの名作はそれを日本的な湿潤性によって「ゆたかに」隠蔽した。ところが木材の枠組みを露呈したアンティーク椅子を「主役」に置くこの『風に濡れた女』では、ロマンポルノの予算枠と上映時間から予定される、限定的な男女の乱婚の順列組合せをいわば「裸」の枠組みのまま、経済的な説話性で刻々提示してゆく。いわば「機能」が前面化されているのだ。「情」が湧くか湧かないかは眼中になく、湧けばそれが爾余の問題となるしかない――このドラマの追放形態は塩田のかつての大傑作『害虫』に似ている。
 
「乱婚」をかたどるための周辺与件は作中、以下のように準備される。まずは発電機の交換のため永岡のバラック小屋にやってきた地元の電気屋・加藤貴宏(彼が朗読で披露する稚拙な詩作では、理想の女はいつの間にか間近にいるという希望が主題化され、それがこの映画全体を「半分」覆う、抜群な位置どりを最終的に発揮する)。そういえば作中、ゆたかなヴァリエーションでドラマを発現する永岡のバラック小屋の前の空き地は、ちょうどカサヴェテス『ラヴ・ストリームス』の邸のエントランスのように、クルマの不測な到来を待機する場所でもある。大事なコーヒー豆を切らしかかっている永岡は、加藤のクルマに同乗、コーヒー豆を仕入れに、(茨城の海岸としては)意外にこじゃれた「先輩」の経営する喫茶店に加藤とともに赴く。テイ龍進演ずるマスターは妻子に逃げられて不如意な独身生活。するとその店で永岡が放逐したはずの流れ者少女・間宮がウェイトレスとして収まっている。のちの場面でわかる――逃げたテイの女房ののこされた衣服を躊躇なく着る間宮は自分の若い肉体美で独り身のテイを性的に籠絡するのに成功、早くも精神的支配下に彼をおいている(第一の乱婚)。
 
土地にどうにか定着した間宮は、ことあるごとに永岡のバラックにやってくる。永岡の留守中には電気屋・加藤ともからだを交わしあう(第二の乱婚)。彼女は自分の性交が永岡に露呈することに何の恥じらいもない。永岡自身へも相変わらず挑発を繰り返す。繰り返しながら、とうとう永岡にあらわれた発情の徴候を嘲笑する。拷問のような寸止め。いつも主張することはおなじだ。わたしたちがからだを交わすには、情熱とモチベーションがまだ足りない。精神的な断捨離を自負する醜いおまえには、「身ひとつ」の乞食的な真髄がわかっていない――そういうことではないのか。手許に寄せても翻り、空中飛散するような奔放な性。それは人体というより魚体をおもわせる。
 
転調がある。永岡のバラック小屋に今度は黒いワゴン車が不測にもやってくるのだ。現れたのは時代遅れの奇天烈な集団だった。永岡の元カノの鈴木美智子が主宰するアングラ劇団(地方巡業中)。鈴木のほかに男性劇団員(役者)が四人、それに助手として眼鏡をかけた地味な女子・中谷仁美がいて、その中谷は、かつての劇団時代に永岡が書いた脚本に憧れ、その世界に入ったという。とうぜん乱婚可能性が高まる。焼けぼっくいに火が再燃する恰好の永岡―鈴木の交接だけではない。鈴木とあろうことか間宮の同性同士の交接、永岡と中谷の交接、間宮と劇団員の交接、さらにこれらすべての「祝言」としてついに永岡と間宮の交接(のちにしるすが、これはふたつの舞台で連続実現される)、鈴木と劇団員の交接(これは風力発電機のならぶ海浜で実現される)、加藤と中谷の交接(これは加藤のクルマのなかで実現される)の大並立状態にいたるのだ。
 
気づかれるように、かぎりない乱婚を準備するのは人物布置の交換可能性だ。これを塩田監督は、永岡のバラック小屋の前の空き地で傍若無人、近所迷惑にも行われる(といっても「近所」はない)、鈴木指導下の芝居稽古とエチュードで入れ子凝縮している。ワゴン車と男優たちのからだにフィットする稽古用黒装束のほかは「何もない」この劇団は、かつて永岡の書いた芝居でそのまま地方上演を続けていて、永岡の演劇復帰を挑発している。ところが思考の深化につとめる永岡は相手にしない。空き地の稽古では不条理裁判劇の一節がたどられている。もともと役柄交換的な(その意味ではジュネ的な)芝居への没入を俳優たちは試みるが、演出の鈴木は出来に満足しない。それで役柄を入れ替えてみせる。ここでも乱婚のような交換がおこなわれるのだ。
 
鈴木の主張は、映画の作劇から推理すれば、おそらく「交換」が全世界対応的な自由を負う身体的な叡智の獲得から生じるということだ。ところがそれは作為的な精進によるしかないし、しかも全員の劇が個々人に分散されている「枠組み」を必要としている。いっぽう、永岡のリアカーを利用し、その肩を肩車として活用し、永岡にかかわる知己を性の対象として自由に使用する間宮は、利用や交換について、枠組みを前提しない突破力を身体と感性に充填している。だから、稽古を盗みみていた間宮に、鈴木がエチュードの題目を設定すると、鈴木を相手に間宮は、鈴木の領域を容易に突破し、攻撃し、演劇のつわものであるはずの鈴木の存在をも凌駕してしまうのだ。とすると塩田明彦がかんがえているのは、乱婚そのものではなく、乱婚の前提となる身体の突破力ということにもなるだろう。
 
劇団はバラック前に停めたワゴン車で寝泊まりし、生活まではじめる。永岡の迷惑はおかまいなしだ。ここでは空間と生活のあいだに「突破」の関係がしるされる。このあたりから、それまで抑制されていた性描写が白熱に向かってクレッシェンドしてくる。突破、序破急などが、長回しとともに、映画――とりわけロマンポルノの力だと塩田明彦は知悉している。まず夜中、ワゴン車から抜け出した元カノの鈴木が、「たまらなくなって」永岡のバラック小屋に忍びこんでくる。すでに度重なる間宮の寸止め挑発に「たまらなくなっていた」永岡は、相手の誘惑と自分の信念に負けて、鈴木と交接をはじめてしまう。「代理」が乱婚の起爆剤となっている。不意に電気が消える。すると画面奥行きから光源となるランプをもって、裸身の間宮が現れる。荘厳感の見事な演出。しかし間宮がおこなうのは「代理性」のもつ限界的な陰惨さを提示することではなかったか。最初、間宮は、永岡を下にしての鈴木の騎乗位をその背後から烈しく「補助」する。運動に力と増幅をあたえる。ところがやがて代理性は個々の領分を突破、間宮こそが鈴木との性交の当事者となってしまう。
 
3Pに参加する意欲をもたない用なしの永岡は自然、バラック小屋からはじき出される。すると一旦は空き地に捨て置かれていた例の椅子に座って、耳を押さえながらも中のようすを窺っている渦中の、処女っぽい眼鏡っ子の中谷がバラック小屋のまえにいる。むろん憧れの永岡の偶像が破壊される刻々を、彼女は恐怖しつつ愉しんでいたのだ。その彼女を、有無をいわさず「椅子ごと」永岡がもちあげてゆく塩田の演出がすばらしい。あらゆるものが性具化する自由度が世界にはあり、それが世界細部の恣意性と選択可能性につながっているとする託宣だろう。惜しむらくは永岡と中谷の性交に、椅子をつかった座位に執着する様相がなかった点だ。しかし場面はさらに驚くべき変転をみせる。
 
性的能力の卓越により、バラック内の間宮は、鈴木を轟沈させた。あきたらぬ彼女は(「挿入」がなかったのだ)、空き地に停められているワゴン車へと向かい、男性劇団員を、ひとりをぬかしてはじきだし、中で性交をはじめる。しかもそれが「順番」に繰り返されてゆく。間接描写による高速の性交連続は、阪本順治『顔』での中村勘三郎による藤山直美のレイプのように、車体をゆらすことでえがかれる。ところがその「揺れ」に同調、揺れをみながら、永岡の中谷への性交も強化増幅されてゆくのだ。このふたりのあいだで椅子による座位が回避されたのは惜しいとつづったが、正常位の永岡の視線の「先」にワゴン車の揺れがあることが必要だったから、座位が演出上、消滅したとはいえるだろう。
 
塩田がもちだした問題は、「乱婚」が交換によるだけではなく、「同調」による、ということだ。その同調は、最終的には無への同調という熾烈な境位を志向する。劇中では野良犬の群が蝮とともに森に潜んでいるという聖書的な設定が用意されている。作劇は段階的に、その野良犬たちの夜の咆哮と同調する間宮、永岡の姿を加算させてゆく。「無」への昇華が使嗾されているのだ。「乱婚」こそがそれを実現する。ところがそれが実現されたとき最終的にのこるのは、乱婚ではなく無のほうだ――塩田はそんな哲学を高度に披瀝しているのではないか。
 
作品終盤、永岡と「生活」しようとしていた中谷が、ていよくバラック小屋から放逐され、森を彷徨しているところを、配達車を林道に流していた加藤に拾われる。加藤の詩作した理想の女は間近にいた。ふたりはあっさりと交合にいたる。このとき、カーラジオからは、獣園を虎が逃走したという実際にもあった最近のニュースが流れている。乱婚が収束しても、獣性だけは異なる空間を跳梁しているのだ。これには伏線があった。作中、永岡がこんな科白を語ったのだった。夜の森を響く咆哮は野良犬だけのものではない、その奥行きにさらに上位の獣性の叫びがまざっている、と。
 
さて、鈴木とのエチュードにより、意外な演劇適応性を発現した間宮夕貴に、永岡祐は演劇的な興味をおぼえたのだろう。感情は存在を開放=解放するていどの認識だったかもしれないが。空き地で彼は間宮を挑発する。「嘘」「本当」を、疑念、怒り、悲嘆、冗談、よろこびなど、さまざまに設定で言い換えてみろ、彼はそううながす。それを見事にやってのける間宮。そこで「木材性」の登場とする。棒切れがもちだされ、逆側からそれを握りあったふたりが、押す・引くの力のこもった闘争状態となる。顔が怒りにまかせ近づいてゆくと、エロチックな性愛の匂いが濃厚に立ちこめてくる。たぶんそれまで間宮が挑発しつつ永岡を寸止め状態へと捨て置いていたのは、憤怒と愛着が不分離になって性愛へと至る宿命性が永岡に欠けていたためではないか。その白熱を棒っきれひとつが設定した。「道具」とはそういうものなのだ。
 
ふたりのからだはもつれ、やがては棒をはじきとばした彼らはバラック内に移動する。ふたりの闘争は性愛に漸近してくる(この性愛と闘争の漸近は、瀬々敬久の、時間の錯綜をしるした新作『なりゆきな魂、』でも主題化され、作品のクライマックスのひとつになっていた――いずれレヴューするつもりだ)。けれども性交がはじまるまえは、抱擁が締め付けになり、接吻が殴打になり、愛咬以上の愛咬など痛覚が相互を苛みつづける。バラック小屋の梁にぶらさがり、またもや太ももで永岡をヘッドシザースする間宮は、外在要素のアフォーダンス的な活用において、香港=台湾系のアクション・ヒロインへと化身している。とうとう性交がはじまる。とうぜん限界的にはげしいものとなる。執拗で強く、変化を生み続ける。バラックがめちゃくちゃにゆれる。むろんバラックがこわれなければならないというのは、崖の中腹にあるバラック群にクルマが突っ込んだジャッキー・チェン映画以来の鉄則だ。バラックはあえなく倒壊した。ぺちゃんこになる。それでもそのぺちゃんこがゆれている。やがてつぶれた屋根部分が破れ、間宮の裸の上体がとびだす。その間宮がなおもゆれている。後ろというかつぶれた屋根の下から、全身怒張状態となった永岡に突かれているのだった。
 
ジャンプカット。作品に唯一のこっていた伏線は、先輩の喫茶店マスター・テイ龍進が無礼な客と店内で大乱闘して負傷、その入院中に(全身繃帯巻きになった喧嘩相手が隣の病床にいるという古典的ギャグが挿入される)、離れている女房から電話がかかってくるかもしれないから店番をしていてほしいと永岡に託していたことだった。その喫茶店内に場面がジャンプする。ジャンプしたのに、永岡・間宮の性交はおなじ強度・速度で続行している。まるで永遠性を獲得したかのように。長回しの力づよさ、それは俳優たちの身体時間の一切を省略せず、まるごと画面に投げ出す力が保証されていることに起因している。だから長回しがバザン的な意味で力の明視性をかたどる。
 
調理場が利用される。長時間性交しかしていないことのもたらす空腹は、調理場からパンとトマトを調達、それを食べながら性交を後背位で続行することで充たされる。おぞましい口移しが付帯する。バレ隠しにソファーが活用される。ドラマの予告どおりにマスターの奥さんから電話がかかる。受話器をとった永岡は凄絶にも、性交をやめずに応対し、マスターからのメッセージをつたえる。塩田の新発明は、ソファーの影から顔だけ映されたふたりが、音と顔の表情でフィニッシュをしるしながら、抜かずの再開をしるす呼吸をつたえている点だった。もっともエロチックな細部だったとおもう。
 
興にまかせ、作品のながれをほとんどたどってしまった。なにかを秘匿しなければならない。喫茶店の内装もふくめ木材性を反復したこの作品では、最後にまた、主役の座に例の椅子がのぼりつめる。そこにメッセージが描かれるのが作品の終局だ――そう暗示的にしるしてこう。
 
この作品のジャンルはなにか。まずはロマンポルノということだ。ならばロマンポルノはどのようなジャンルへと細分されるのか。通常なら、「情」と「陰翳」と「艶笑」といった精神的諸要素に分解されるだろう。ところがこの『風に濡れた女』は、順列組合せ的(数学的)乱交といった機能に、道具の利用、とりわけ木材性の突出といった奇怪なものが付属している。この着想の奇怪さが、じつは経験をもつ大人の精神的優位を基盤にした艶笑ではなく、単純にアクションのもたらす明澄な笑いを爆発させるのだ。世界細部はまずは機能によってしるされ、そこに情がともなうか否かは観客個々の爾余の個性にまかせる――このように映画が透明に開かれているともいえる。運動の痕跡しかないのだから、おもいだしても劣情を呼ばない。純粋な通過こそが、順列組合せ的な乱交でしるされている。だから映画のメタレベルで思考的な獣性が跳梁した余韻がのこるのだ。これはロマンポルノの最良の部分を塩田明彦が批評的に増幅してみせた結果だろう。
 
そういえばポルノともアクションとも、無媒介で純粋な挑発ともいえる作品ジャンルの不定形性と、きだじゅんすけのジャンル要約できない奇妙な音楽が見事に調和していた。性交シーンにそれがのせられると、性交そのものが脱定位化するのだ。馬のいななきといわれたエリック・ドルフィのバスクラリネットと似た感触だけが耳にのこっている。むろんクラリネットが「木」管楽器であることも忘れてはならない。運動神経の良い長回しを数々披露した撮影・四宮秀俊とともに、その技量を特記しておきたい。
 
――78分。1月25日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

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2017年01月28日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

書き落としたが、作中、ケータイの斬新な映画的使用がある。しかもそれが「音はすれど正体はみえず」という作品の深層とむすびついている。この深層は『山の音』由来かもしれない

2017年01月28日 阿部嘉昭 URL 編集












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