雑感2月3日
【雑感2月3日】
一行目が「ふっと下りてきて」、たちまち詩魔にとらえられる。その一行目はすべて日常の体験と記憶に即していて、だから詩そのものに純朴であるためにというより、あやふやな自分の精一杯な定着のためにこそ、詩が書かれ、完成されなければならない。
技術的な自己検証というのが第一だ。もとより、「詩人」とよばれてしまう恥辱は、世間的にももってのほかだ。あまいもの、こどもっぽいものなど書けない。くりかえしがもっとも忌避する頽廃だから、語彙と着想と文体と哲学にも、更新をくみいれなければならない。その蓄積もたのしいのだ。かなしみを書いてはいるのだが。
一行目が「ふっと下りてくる」詩魔、それじたいは視認できる貌などしていない。ただ「展開を」と衝迫してくるだけの、波動のしるしみたいなものだ。体験を整序しようと書きはじめると、とたんに意地悪な反転もしるす。
たとえば詩篇のフォルムを全体で八行とさだめてしまうと、書きだした数行後に、最終の八行目が迫ってくる。八行中、もう四、五行目以降が、「詩篇がどう終わるか」の試練にすりかわり、書きだしのときのきもちよさも、終わりの練習にまつわるしかない痛みへと降下する。ほぼ毎日の詩作は「どう書きだすか」ではなく、「毎回毎回どう終えるか」の煩悶のほうが本質的なのだった。推敲が必至となった。
たった八行の詩というのは、「数」にまつわる問題をとうぜん形成する。「八」そのものを練磨し、超越させなければならないのだ。「八」は「八以外」であろうとする。より多い行数で書いているような錯覚を使嗾し、物理的には八行でしかないのに、その自体性をゆるがしやまないもの、これがたとえば「八」だ。
「より多く」を八行に圧縮するのではなく、八行でしかないものが八行以上にみえるよう細心に差配すること。このために構文が折られ、あいまいが容れられ、修辞を「減らす」もくろみがたどられ、語間がひろげられ、余韻をおもんじ、動詞と「辞」を多用し、名詞によらない詩の「うごく」からだをつくり、詩の刻々が「それ自体」以外を同時にふくむようにする。喩のなさがそのまま反転的な喩にすりかわる「減喩」がここで志向されなければならない。
むろんそれは普遍性をもつ詩作法則でもないが、詩作そのものをやはり同様に恥辱とする、他人の秀作のある割合に、こうした詩作意識がひそかに閃いているのが現在なのだ。「和す」「伍す」、それ以外なにがあるというのだろう、詩作に個性などをとっくに除外してしまったあとでは。こういう感度なしで、詩作フィールドの全体が変化することもないだろう。個性神話にいまだに眼を血走らせているひとはみにくい。
わずかな古語などをのぞき平易な語彙で詩をつづりだしても、あるいは和語とひらがなを基調にやわらかさやたわみをあふれさせても、みえない「穴」が、ほかのみえない「穴」と連動しあって、詩脈がつかみがたくなり、難解をいわれてしまう。けれども詩作とは「穴」を自明ではない様相で連辞へうがち、字数では測れないよう、構文そのもののからだをひろげてゆくことではないのか。平叙の自明性だけでは八行詩がゆたかにならない。
この俳句の国では語のならびはそのようにしかならないだろう。ところが俳句は構文ではない。だからかわりに短歌を置くと、しらべも必然化してくる。独善的な散文詩はこうした日本語の属性にうといというしかない。いまでは見た目の目詰まりをほぐすのもおっくうなのだ。
詩にうがつ「穴」のなかに日常の自分を装填する。しかもわたしをへらす。そうすればこそ、読み返したときにかつての光景や音響や「ひと」がみえてくる。それで寂しさがまぎれるのだ。こういう個人的動機なしに、無駄の最たるもの、詩作などありえないだろう。
去年の夏、畏敬する佐々木安美さんが訊いた。「どうして毎日、詩を書くの」。「さみしいからですよ」。「毎日」ではないのだが、からだに詩興がみちると、たしかに毎日にちかくなる。一年のうち、そんな数週が何回かあり、まるっきり書かない月もある。
八行がみじかすぎる――ときにそうおもい、くるしむ。技術的なことをいうなら、意味量を自己保証すると、詩に音韻を約束するフレーズの反復が八行詩ではほぼつかえなくなるのだ。詩中に一回だけならつかえる、けれど相次ぐ詩作でこれを連続させると、詩篇連関が単調になる。音楽性に強圧をかける「八行」の枠組をしゃにむに音楽化させること――そこに詩作とくゆうの反世界性があった。俳句に俳句の詩体があるように、八行詩の詩体をつくったのだ。可読性は確保できたとおもっているのだが。
八行詩の連作は、総数150篇の全体でとうとう満尾したようだ。ここ一、二週はかつての詩篇を捨てるかわりにあたらしくつくる詩篇を全体に容れ、しかも詩集形そのものの「終わりの練習」をしていた。ために最後だけ、創作順を外し、ほんのすこし詩篇の並びを調整した。