雑感2月6日
朗読イベントなどで、何ももたず正々堂々と自作詩篇を暗誦披露しているひとに接すると、背筋の立派さに畏敬の念をおぼえる。記憶力のわるい(さらに詩の公然朗読のきらいな)わたしは、そんなことが自分にできるとおもったこともないし、じじつ自分の書いた詩篇の一篇さえおぼえられずにいる。現在書いているもののほとんどがごくみじかいのに、何としたことだろう。けれども詩にまつわるこうした記憶阻害性には、自分の詩そのものの資質がさらにかかわっているのではないか。
あまりすることはないが、あえて詩集形などにならべられた自分の詩篇をつづけて読んでゆくと、詩篇内部のことばのはこびはむしろ生々しいのに、繙読を継続させれば、それぞれの詩篇が読むはしからきえていってしまう。あわゆきをくちにふくむがごとしだ(そういえば笠井嗣夫さんには「あなたは自分の詩法変化を、札幌に来て、雪の属性からみちびいたはずだ」とつげられた)。
まず、ことばのながれそのものが自己定着的ではない。自体をあかしするために自体がもちいられていない、といってもいい。ことばはそれ以外をたえず志向しながら、瞬間定着をおこなわず、つぎの次元へとずれてゆく。暗喩の「釘打ち」にたいし、換喩のあいまい、気散じがある。体験した映像が転写されるばあいにも視角が一定しておらず、つたえようとすることがふくざつだ。同時にいつも語がたらず、説明的な描写が排除され、穴がひらめいている。感覚を思考化しようとしながら、自己思考が自己感覚によって動物的にうたがわれている。書かれているものが文であるのはまちがいないが、平叙性とは種類のちがう電圧と変貌がそうしてある。
表記の問題もある。漢字が像を映す窓だとするなら、ひらがなは像を音韻にさしもどす、それじたいがことばの溶解要因なのだった。「刻々の壊れ」が「刻々の定着」に代位されている。漢字は時枝文法でいえば「詞」を志向するが、ひらがなは「辞」に集中する。とりわけ現代日本語の限界にいどむように、助詞の斡旋が多様で、ときにずれをしるすことは、複文の使用とあいまって、眼下の文をうごかし、そのものの瞬間をつかませない。文はまず「辞」によって脈動する。しかも脈動はしずかで、しずかさとうごきの共存すら了解できない。
品詞論でいうなら、文中での動詞の登場は、文そのものを動詞化する契機をつくりあげる。文に「あるく」とあれば文の全体があるき、「きえる」とあれば文の其処がきえる。それでも動態が微視の状態から浮上してきて、そこにあるべき主体=顔を抹消してゆくのだ。文は像関係の定着から、動態の無名的な連鎖へとすりかわり、結果、「自体」が悲哀のうちにうしなわれるといってもいい。現下に文のあることが、そうして信憑を剥奪され、「ある」すら「あったが、いまはない」と融即をとりむすんで、記憶にあたいする媒質性を摩耗させてゆく。
詩文が「ある全体」をかたちづくるのなら、そこにも「顔」をおもわせるものがあるはずで、記憶はむろんそこへ向かおうとする。ところが説明的中心が斬首され、首なしでうごいている詩は、読み手をことばでくるみながら、うごいている感触のみを体感させるだけだ。初期段階の絵画では、顔は静態的な定位をつうじて像化=記憶化される。ところがうごいている、愛の渦中の身体は、それじたいが無顔の情動であり、抽象的な音韻として、記憶媒質を欠いた、不可能な標的となるしかない。動詞は普遍化の道具である以上に固有性への悪干渉であって、しかもそこで起こる溶解が、死のようにあまやかなのだった。この極点こそが音楽化する。
器楽曲の三要素、「メロディ」「リズム」「ハーモニー」が詩ではそれぞれ順に「音韻」「音律」「意味」になる。こう書けば、「ハーモニー=意味」という見解が異様という印象をもたれるだろう。ところが一義的に伝達される意味を詩はもたない。だから詩篇を要約しようとすれば、その要約が詩篇じたいよりもながくなってしまう。しかも詩の意味は、助詞などもふくめた用語個々の交響としてあらわれるだけだ。そこでは並列が、対立が、照応が、展開が、脱落が、分布が協和し、「それじたい」から離れた次元に「あるべき意味の痕跡や残響」を複数的ににじませてゆく。分散の総体が意味であり、意味は和音的な同時性としてあるしかない。それはへだたりであり、とおさであり、渇望でもある、定形性を欠いたなにかだ。こうしたものらこそがまさに記憶できないのだった。