雑感2月7日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感2月7日

 
 
とりあえず自分が良い詩を書いているというおぼえがなければ、とても詩作などという、役立たずで面倒で、実りすくない営みをつづけることなどできないだろう。悪作しかしるせない絶望はむろん詩作を存続させない。このために批評能力はひつようだ。それでも自分の詩作が他人の作を圧するほどの絶対的な優位性をもつとする「自負」は、おこがましく、みにくい。ひとそれぞれはまず有限なのだから、そんな自己抑制が人間性の前提となる。
 
承認願望はとうぜんあるが、いつでも他人からの評価は、期待するほど到来しない――それどころか、励ましてほしいひとの無反応で失意がつづくばあいすらある。だが失意も無駄だから解除されなければならない。そのために詩作が更新され、いわば「次善」が手許にうまれつづける。傑作を書ききっていない渇望こそが、あらたな詩を書かせる。
 
承認は、とりあえずは他人ではなく自身が自身にするものだ。しかもそれが自己愛ぬきであるためには、熾烈な表現をつうじそれがおこなわれるしかない。心情は遮断される。
 
表現はかならず再帰性の圏域を形成する。詩を書くひとは、詩作の繭のなかにいて時に明視性をもたない。その気配は繊細な他人にはつたわる。秘密の線分がそのひとから放射されるのだ。詩を書くひとは倦み、しかも倦むことにさえ倦んでいることで、その皮膚が多重にみえる。おそらくは繭の内部性、あるいは多重の皮膚のすきまに、「それでも」なにかのあたたかみや光明があって、それがそのひとを了解可能なものへと変貌させている。表面でしかない天才自負者にはこれがない。
 
いまはだれも、自分の作品を理解してくれないが、死後をふくめた後年に、評価的栄光が訪れる――したがって現状の無理解は笑止なものだ――そう状況をとりかえてみせることが、なぜ滑稽なのか。こうかんがえる。
 
時の進展はたんに無惨な延長であり、身体を除けば、ひとつの時はつぎの時と親和しない。だから希望は再帰性の枠組に現れない。そうでなければ希望の峻厳さがうしなわれる。このことが等閑されている思考など虚偽にすぎないだろう。それは、詩の行を書き足してゆくときにすでに自明になっている。時間認識の練習をしていたのだから。報酬はいまこのときの再帰性のなかにしかない。孤独と契約をむすんでしまったことは、何度もおもいだすべきなのだ。
 
救いはないのだろうか。絶望そのものではなく、絶望にかぎりなく漸近する見通しには、そのなかにやはり再帰性がある。わずかなすきまが機能するのだ。空間、かんがえてみればそれは、実際には自己の身体まで形成している。頭ではなくその身体が叡智をもつから、絶望は希望との混色でにじみだし、言動にニュアンスをあたえることになる。
 
他人の詩を良いものとして読むばあいは、かならずその再帰性の審級が読まれている。それが「身体」を読まれることとおなじだというのは、上記から理解されるだろうか。身体が身体に伝播する。もっといえば伝染する。だから詩の繙読は、顔のないままに身体をことばのながれで装填する離魂体験へと様変わりする。身体を原資にした再帰性は、「そのひと」であると同時に、脱個性なのだった。この事実は、希望/絶望の二項対立さえ超越している。「ただ、ある」「そのひとに即した空間と時間だけが、そのひとの身体に前提的にある」という観察は、希望的でも絶望的でもない、味のない世上の事実にすぎない。その味のなさが渇望をよびたすのだ。
 
一音の発現にまで還元された音楽が、そのひとつの時にそれじたい再帰性をもつこと。詩の身体はそれを模倣する。くりかえすが、絶望そのものではなく、絶望に漸近した自身の状況は、身体的な再帰性をもつ。ほんとうのところは、それが読まれる。それでも顔のない身体が詩に現れると、それが渇望の対象になってしまう。行間にそんなものがさまようのは、音楽的なものにかぎられ、その一角に詩もある。それは希望や未来ではなく、あくまでも「現今」なのだ。かなりの時が経過して振り返られてもその「現今」性が手放されない。だから未来の評価という視座が無意味になるのだ。
 
おそらくこの「現今」性の承認が、自己承認の用法なのではないか。気弱でありながら、事実を予感しているこの繋辞構文に、あらゆる「作品」がひとしなみにもつ運命がきざまれている。「作品」はいずれ散逸するかもしれない。それでもかつてそれのあった場所に、自己再帰の感触だけがのこる。繭の内部や皮膚のすきまは、対象性がなくても対象性を発現するていのものだ。
 
良い詩を書いているというおぼえがわずかでもあれば、あとは「もののさだめ」のかなたへと、作品を抛りやればよい(ネットはその便宜をはかる)。このために詩作者は詩で生計などたててはならない。必敗主義からはなれ、そうおもわなければならない。それでも詩を書く手許は、生きて詩を書くかぎり、「現今」にたもたれているだろう。この「現今」が人格を超えたもの=作品自体から承認される。この体感があれば、評価はともかく、良い詩は書ける。野心など、もたないことだ。
 
 

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2017年02月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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