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雑感2月10日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感2月10日のページです。

雑感2月10日

 
 
ふだんわたしたちは、そこにあらわれている羞恥の分量、分布、貫流によって、詩篇そのものの出来を判断してしまう。恥辱のない詩は、その存立さえおかしいのだと。「詩人」(もちろんこの言い方をするときは鉤括弧つきだ)は恥かしい。冗談めかして、その理由を「それは職業ではない(詩人であることでは食えない)」「一般から揶揄される夢見がちな性質が詩人のレッテル」などということができる。けれども問題は、ことばへの渇望をそのまま生きている倒錯が「詩人」性に露顕してしまうこと、それこそが恥辱なのだった。かぎりない、自足からの追放がそれら類型の裏箔となっている。
 
みずからに恥辱をかんじている「詩人」を、慎みぶかいと印象するだけでは足りない。それは縄張りをあらそうけもののようにも防衛的で、これが立場を替えれば物欲しげなのだ。ある事象に、詩作者たちは旗を立て、それが土地でないのに自分の占有をつげてしまう。そうして実際に、後進を意気阻喪にみちびく。こうした貪欲者が「詩人」だ。
 
たとえば葛原妙子によって、白アジサイが葡萄が鰈が、夕暮れの卓上の壜が、詩的に占拠されてしまう。永田耕衣によって揚雲雀や死蛍や鯰に唾つけがおこなわれる。もちろんこうした占有宣言はドン=キホーテ的妄想にすぎないが、ことばの美的なトリックによって事物が完璧に素描されたとき、事物はそれを語ったものにみずからの存在を明け渡す。事物のほうがさらに慎ましいのだ。そうして、「それののこる場所」と「それが消え去ったあとの空虚」とに等号がむすばれる。
 
幻想裡の占有は、「事物がそこにそうしてある」とただしくいうことでのみ招来される。名指すことは救済ではあるが、救われるのは事物であって、それを語った者ではない。そうした非対称性によって、語りそのものが「まっすぐなのに」ゆがんでいる――そうバレることが恥かしいのだ。
 
なにがしかが「何々のように」ある、「何々として」ある――このような語法は、「ある」を比喩によってよわめ、当の対象の存在手前を撫でているにすぎない。それは届いていない。このような物言いを駆使する者にはとうぜんべつの恥かしさがある。「下手糞」にまつわる恥かしさだ。文飾はいつもこの領域から頭をもたげようとする。
 
井坂洋子のすばらしさは、ことばの質量にそれにふさわしい意味が精確に載って、ことばのながれがたえずただしく輪郭づけられる点にある。逆にことばの質量と意味の不均衡は、ことばをつかう者、その息の恥かしい「ダダ漏れ」を多く結果する。うすい多弁の連鎖がそれだ。そうではなく端正に息をとめ、自己を抑制すること。そうしてことばが事物や世界を(偽)所有する逸脱が回避される。井坂洋子的なありかたは終始、恥辱から離れている。それでも彼女は、自分が在ることの恥かしさをどこかで滲ませてしまう。自らが女性であることが真摯に問い詰められた結果だろう。性差のなかでこうして女性におもたさが引き受けられると、男性ではなく世界に、恥辱以下の汚点が反映されてしまう。
 
ことばが事物を所有しないことはありえる。事物の亡霊性を引き寄せようとするか、得た事物が穴だらけで、かたちをなしていないと慚愧をつげれば済む。これらは文飾の削ぎ落としによって付帯的に言明されるものだ。「在ることが、こうして在る」、それだけの構文がさらに不安にゆれなければ、たぶん減喩効果が出てこない。これもまた恥辱の軽減だろう。もちろん恥辱の軽減は、あらかじめ恥辱が横たわっていることを前提にしている。だからもともと恥辱がないと錯覚している単純な恥かしさとは別次元のものだ。
 
所有が愛とからみあっている――そのように露呈して恥辱を塗られることがいわば人間の無惨なのだが、愛は多触手となって貪欲に他者へと自己領域をのばしてゆくしかない。一者への切羽詰まった盲目愛の表明、これが抒情詩の高原をつくりあげるのだから始末がわるい。
 
中原中也の言語感覚はみとめるが、その恥かしさの質がこどもっぽくてとても容認できない。だからエロチックな欲望を漂わせながら、それでも事物を、唄うことなく静謐につづりはじめたその後の吉岡実に軍配をあげる。たぶん現代詩の立脚はこうした判断から方向づけられたもので、それじたいはまちがっていない。ところが「中原中也たち」は現代の領野に何度も再生されてしまう。これらが無方向の、それも効力のない占有宣言をくりかえす。特許取得競争の当事者のように。結果、詩ではないものがインフレ化する。
 
恥かしさを回避するためには、絶対に占有できないものを対象化すればよいのだ。思想など占有宣言に恰好のもので、それは詩では恥かしい。たとえば「何々がある」といわず、「なにがしは何々である」とかたってしまう構文は、詩が論文ではないのだから、恥かしい出番間違えとしか映らない。繋辞(be=「である」)を動詞系列からあたうかぎり除外し、動詞を多彩化、それで世界を善き多きものにするしか手はない。繋辞はもっとも低劣な所有の刻印だ。暗喩構文の根源がA=Bだとおもいだせば、暗喩そのものが所有を貶価する「紛い」だとさらに理解されるだろう。嘘をかたってはならないとデリダはくりかえしいった。そのために暗喩が放逐されるべきだと。
 
錯綜した書きかたをしてしまったが、詩を書くという契機は、恥かしさをこのように多層化し、そこでは「高度」「分布」が問題になってしまうのだ。くりかえすが、恥かしさを回避するためには、絶対に占有できないものを対象化すればよい。原理的なことをしるすなら、絶対に占有できないものの総体が所与とよばれる。白アジサイや死蛍は、実際は所与と加工可能性の中間に位置していたはずだ。
 
自己占有可能なものとして自己身体があるとする謬見がまかりとおっている。そこから責任論まで生じている。ところが大地や天空が所与であるのと同様、自己身体はあずかりしらぬ領域から到来した途端、それを「論理的に」自己所有できなくなるのだ。だから自殺と自傷と拒食は本質的には不可能で、その不可能がもし突破されるのなら、逸脱に分類されるしかない。となると、自己身体を自己所有しているという誇らしげな自己愛は最低の審級で恥かしい。うぬぼれやともだち自慢が恥かしいのと同様だ。意気軒昂な若手女性詩にはときにみられる傾向だが。詩はむろんJポップの歌詞ではない。共感の材料として肯定性を橋渡しするひつようなどないのだ。
 
所与であることで自己所有できない自己身体は、その所有のできなさを詩のなかでどう綴られるのか。たとえば視野には盲点があり、そのように客観性が自己身体により減算されていると気づく。この事実から、事物のすきまに自己身体が、画定されるのではなくあいまいに揺曳することがただしい記述法だと気づくだろう。「所有できないものは、脱定位的にしるされなければならない」。初期の井坂洋子(の性愛詩)はこの点を賢明に主題化した。こうした自然法則が守られた記述(いまでは中堅の女性詩に多い)なら恥辱を脱するはずだ。
 
それでも〔※所有していないのに〕身体がいつも恥かしいという人間の鉄則は崩れない。亡霊につきまとわれている、この諦念こそが書かれる。むろんレヴィナスのいうようにたとえば女性は慎ましさの顔として他者化されているのが本当だが、渇望が詩の動力である以上、詩は慎ましさをみずからに完全反射させることなどできない。このためにこそ、詩に恥辱が「ただしく」刻印されるのだ。
 
恥辱が次善の叡智だというのは、なんという逆説だろう。むろん恥辱は次善のうつくしさともかかわっている。こうしるすと、ポルノグラフィをかたっていると錯覚されてしまうかもしれないが。
 
 

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2017年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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