雑感2月11日
俳句の手軽さ、記憶容易性は、やはりかぎりない魅惑と映る。ところが俳句のみじかすぎるからだは、畸形的な「片言」をまねくしかない。日本語の構文構造としてはいちじるしく壊れた前例のないものであって、この事実が平滑化されてきたのは、季語、切れ字、月並などの周辺要素が詠み手たちにとり調和的だったからだろう。「座」も機能していたはずだ。
いっぽうの短歌は最小単位の「歌」や「情」をもりこむうつわとして愛着されてきた。そこには単純だが構文が存在している。平叙体を音韻的有機性に超越させることをとりあえずの造語で「詩分解」といってみると、「詩分解」が成立直前ですでに気配に変わってしまっている俳句にたいし、短歌では「詩分解」がきれいに一回的に成立しているようにみえる。しかも短歌の記憶容易性は、みじかさそのものからではなく、音韻のよさによってうながされているのだから、文芸ジャンルとしてはとても強靭なのではないか。
ところが現代口語短歌では、歌唱性、詩分解の一回性がいわゆるベタに変じる。七〇年代、「復活」後の岡井隆の、アララギ調に前衛詩の精神を交錯させたような音韻=情=新規性の図太い光芒などとてももてない。ネオテニーの魅力があるとしてもスタイルがこどもっぽいのだ。口語では斉藤斎藤の歌のような奇矯性をはらまないと、足りないことが陰翳や可笑性や明晰さにいたらない。笹井宏之が駆け抜けた、偶然の天使的無謬はむろんその飛躍的詩性が一貫していたことによるけれども、第二の笹井の出現が禁じられるのは、短歌じしんのもつ一回性に抵触するためだ。現代口語短歌は蔓延度のわりに(ゆえに)隘路を通行しているとおもう。
よく指摘されることだが、海外からみれば日本語の詩は、「俳句」「短歌」「自由詩」、その全体が「詩」として一括されている。翻訳熱は、芭蕉、蕪村を詩聖に戴く俳句に集中しているとみえる。ところが語感や典拠や季節感以上に、俳句音律の基礎にある日本語の等時拍音が翻訳不能だ。シラブル数を五七五に嵌めるなど苦心については聞くが、たとえば仕上がった英訳をみても、こちらの英語力の貧弱さも相俟ってか、それがとても俳句だとはおもえない。内在されている構文の壊れ、畸形性も、日本語でそれが起こっているのとは質がちがうように映る。
もともと詩は翻訳不能なもので、ベンヤミンの翻訳理論ではないが、ドイツ語⇔フランス語を想定しても、逐語訳によって翻訳された詩文が異言化することで、未来に展望をつくるしかない。ところが俳句翻訳は異言化にもいたらず、詩としては不全化・塵芥化してしまっているのではないか。日本にたいして神秘感をもたなければ、とても咀嚼嚥下できる代物ではないとおもう。
エズラ・パウンドが西脇順三郎をノーベル賞に推奨しようとしていた六〇年代、その英訳はどのように一般化されていたのだろうか。常識的にかんがえれば、西脇詩は音韻と色彩、それらのながれの良さ=異常感覚(それがながさとして発露されるのが後年のならいとなる)に加え、散策速度と聯想速度による独特の認識省略が行どうしでスパークする点に唯一性があった。外景が脳髄(のさみしさ)。詩の最少可知単位が俳句性にさしもどされ、その全体は連句独吟さながらに組成され、しかも全体が滔々とながれるのだ。
西脇的音韻は、たとえば植物名など和語の基礎に、西洋由来の学殖語がやわらかさとして載るとき、その構造的双数性をかがやかせる。これもまたたとえば英語などには変換できないのではないか。「ぽぽい」の驚愕はたしかに日本語の土壌にこそ起こっている。しかも西脇的「双」は同時に「あいだ」「無」でもあって、生起しているその瞬間をつかまえられない。翻訳がなんらかの(つまり異語化もふくめての)「定着」でしかないのなら、西脇詩の翻訳はその瞬間の定着不能性と抵触してしまう。総じていうなら、さきに造語した「詩分解」がゆるやかであればあるほど、それが翻訳可能性からはなれてゆくことになる。「ゆるやかさ」が「時間的不能性」と溶けあったものは置換できない――そうもいえる。他者のしぐさとおなじだ。
こうつづってみるとわかる――主題論、韻律論、喩法論からはなれ、詩を自体構造的に再検討するには、「同異」に着目するといいのだと。さきにしるした詩分解は、「異」への運動だが、それが内在性として起こるのであれば、まさに「同」中の変転として捉えるしかなく、ほんとうはことば全体の「同」こそが不可視的になるのだ。
なにかがことばに起こっている気配がする。言い回しの平易さに、事件が仕込まれていて、事後的に(たとえば一行離れたあとの前行に)意味上の踏破が起こってしまっている。阻喪が推進とみわけのつかない逆説。これが一篇の詩をよむときの記憶野に沈澱してゆき、一篇の詩はそうして「内部性」の体験だったと振り返られる。
わたしはこのみでいうなら十五行前後の行わけ詩の自然さを重宝するが、そのことは次のようにいいかえられる。その内部性はすくなさによって外部性に似ているから、ことばの空間に自己身体を容れることが、同時に外延の開放性につながるのだと。現象学的には「みえるもの/みえないもの」の回転が体感しやすいのが十五行前後の詩篇なのだった。
内部性は「同」だ。外部性は「異」だ。ところが「同異」はことば(のはこび)そのものが予定する「対」にすぎない(中国語圏ならこれを「陰陽」と換言するだろうか)。ところが詩分解は作用側と対象側の区別を無効にする。分解であるそれは同時に回転なのだ。だから逆に内部性が「異」で外部性が「同」だとする反転もただちに起こる。そうして詩に垣間みえる日常的な境涯に価値化が加わる。日常なのに界面を規定できないこと、自他が消耗することなく双としてならびあい眼下の空間から自体逸脱の生じてしまうこと――それがたとえば変型ライト・ヴァース的な詩体験なのではないか。坂多瑩子の詩はそのように読まれなければならない。
詩分解は使用語のうえで限定的であり、同時に個性的だ。だから翻訳不能性と癒合する。逆をかんがえてみればいい。詩分解があるようにみえて稀薄なシュルレアリスム詩は、実際は翻訳にすごく適していて、だからいっときは世界化した。そこでは「異」があるように使嗾がおこなわれながら、「同」の連鎖があるだけで、詩脳的には痩せてみえる(もちろん名手はいるけれども――あるいはそれが詩ではなくほんとうは驚異を盛る小説の叙法に適しているとわかっているけれども)。西脇の「超現実詩」は「同異」の弁別を、わらいをふくむ鷹揚さでゆるがしながら遊星規模の共鳴交響をつくりあげるものだから、西脇じしんがどういおうと、シュルレアリスム詩とは成り立ちがちがっている。
「同」を自己、「異」を他者とするだけではたりない。対面性が顔の尊重をともない、相互間の切羽詰まった発語をうながすというのは哲学の問題だ。詩では「同」がことばの通用性、「異」が詩分解とまず規定される。しかも「同」を保証するものが「異」であり、「異」を保証するものが「同」であるその相補性が、渇望にもかよう美的な「双数性」を付帯させる。いずれにせよ、もっともつよい魅惑は、詩性をおもたく鎧ってしまっている逸脱からではなく、日常語の詩分解から起こる。界面異常はひそやかであればあるほど優雅だろう。
優雅さの化身といえば三井葉子、それとはあらわれがちがうが川田絢音もあげることができる。以下は三井の二行。
わたしは茎のようにやわらかくなりながら
かたちないあなたにかける傘をかける
「わたし」「あなた」の双数、「茎」「傘」の双数。「やわらか」さの範囲が、書かれていないわたしのからだにとどまるのか、傘をさす姿勢まで想定することで傘までふくまれるのか、それら一切が自明ではない。しかも掲出二行目の最初の「かける」がことばのはこびのすきまにふと漏れ出た「文中蛇足」のようにおもえることから、「同異」の回転が起こる。どこにも難読語がなく、日常的な相聞の範囲に終始しているはずなのに、相聞が化け物どうしで起こっているのを覗いたような動悸が生ずる。これが典雅なのだ。以下は川田の三行。
なにを浴びても
外にものごとはないという度量で
川は外を流れている
川が浴びるものは、ひかり、雨、雪、夜、風といったものか。「度量」の語の斡旋に風格と凄みをかんじる。「ものごとはない」の断言で、外=外部性が無化される。ところが掲出三行目でさらに「外を」としるされることで(これも文中蛇足=冗語に似ている)、かえって「外」が規定不能になってしまう。さて「外」を規定不能にしているものはなにか。詩文にかくれている「内部」というしかない。このとき「外=同」とするか「内部=同」とするかの軸がくずれだし、こうして自体的な回転が起こる。川の眺望に、日常語に、それを穏やかに詩分解する回転が、最少可知範囲で起こるのだ。