雑感2月12日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感2月12日

 
 
電車的、というすこしまえの瀬尾育生による、すぐれた詩論=状況分析をふとおもいだす。瀬尾は想起をうながす。杉本真維子『据花』の各詩篇が右頁でおわり、対抗頁=左頁につぎの詩篇のタイトルだけが印刷されていると。読者はしたがって一篇を読了した余韻を切断し、左頁になにか続篇的な予感をおぼえ、頁めくりをすることになる。読者のおこなうことをわたしなりに微分化すればこうなる。置き去りの自覚―その置き去りの渦中に必然的にまいこんでいる空白―うすい時間幅にうまれる期待―頁をめくっての「見知らぬものとの再会」(語義矛盾ではない)―自己更新と自己訂正。この経緯(それは連続する)をまず瀬尾育生は「電車的」と説明した。
 
瀬尾論文「電車的」を精読する場ではないので、おもいきりそこに展開された論旨を短絡してしまおう。ちなみにいっておくと、この「短絡」も電車的だ。そうかんがえると「電車的」の立案は、それに対応する言説すべてを電車的にしてしまうとも気づく。禁句の再帰的発生。かつての蓮實重彦『物語批判序説』の前半部みたいだ。
 
瀬尾は「電車的」に「機関車的」を対比する。機関車が領域突破的、境界創造的、国家発生的なのにたいし、電車は国家内ですでにつくられてしまったシステムであり、そこで乗客は脱個性化し、しかもその軌道は都市の都市性が全うされるために環状が理想化される。瀬尾はまさに「電車的に」、宮沢賢治と石原吉郎を通過駅にして、杉本真維子から安川奈緒まで当代話題の女性詩作者を乗り換えてゆく。時代錯誤を意図したカサノヴァのように。
 
宮沢賢治からは『銀河鉄道の夜』が召喚され、失踪と再帰が同時に起こる電車的旅程がそこから剔抉され、その精神性が当代話題の女性詩作者たちの電車詩にも共通して影を落としていると指摘する。瀬尾がサブカルにあかるければ、『エヴァ』から『千と千尋』へと結実した車内場面を論旨に加えたかもしれない。乗客の顔がみえないこと、無時間を電車が走ること、疎外と郷愁の同時性などはそこでも共通していたのだった。『エヴァ』にいたっては無名性のナレーションが画面を痛覚的に摩擦しつづけた。
 
状況が都市的になればなるほど、車列をつなげたような車輛の連続性をもって電車ははしる。かつて蓮實重彦は「井の頭線は凡庸である」という繋辞構文を弄したが、たとえばやたら車輛数が多くそのぶん入構数のすくない東西線は「お下品である」。ほぼ走行中の運命を共有する乗客たちだが、もう車輛がことなればたがいを認知できない。それでも「飛び込み自殺」が「人身事故」と抽象的・迂遠的に換言された車内アナウンスの毒消しには、電車が不当に停車を継続されれば「おなじように」「やれやれ」、と無言の口をうごかすだろう。都市的疎外と反復が(詩作者たちの)身体の基盤になっていると瀬尾にいわれれば説得されてしまう。
 
望月裕二郎の歌集『あそこ』から五首、掲出しておこうか。
 
 満を持して吊革を握る僕たちが外から見れば電車であること
 
 つり革に光る歴史よ全員で一度死のうか満員電車
 
 もし空が海だったらと考えて考え終わってドア閉まります
 
 鈍行が急停車して夕暮れのポストが見える灰色と思う
 
 高架橋を走る電車に乗ったまま朝焼けを見てしまう気がする
 
瀬尾は京王線のおおきな支線のつくりあげる郊外に住まっている。ところが京王線にはミニマルきわまりない支線がひとつ存在している。東府中と府中競馬正門前の一駅分をつなぐ単線だ。車輛数はミニマル、路面電車的に家屋の軒先が迫る街なかを走り、しかもその軌道の多くが彎曲をかたどっていて、そのミニマリズムはとうぜん異世界連絡性をもつが、上りでも下りでもあっけなく終点を迎え入れてしまう。諦念がちいさくなることで幸福化をみちびいているといってもよく、それが悪場所へのみちびきと結託しているのだ。それは不完全な中央駅の構造をしている。
 
この路線が開放性をもつことはピンク映画ファンにはしられている。京王電鉄は、痴漢場面の撮影のために、この路線の走行車輛を安価で提供したのだ。ピンク映画の撮影班は痴漢の作用者、対象者を置き、さらに「何も知らない乗客」として大量のエキストラを仕込み、リアリティを確保するが、なにしろ一駅分の短い走行なので撮影は迅速におこなわれなければならない。楽園的解放区に迅速性が必定となるこの条件がべつの意味で電車的だが、それは瀬尾のしめした電車的とは領分がことなるだろう。
 
ひとつの「電車的」に、べつの「電車的」を対置するのは、しかし不毛かもしれない。そこで対立概念としてもちだしたいのが「自転車的」だ。ともあれ瀬尾が言及した石原でいえば、「葬式列車」から「自転車にのるクラリモンド」への移行となる。いうまでもなく「クラリモンド」は人称化直前で泡のようにきえてしまう音韻であり、色彩だ。詩篇はいう、「目をつぶれ」と。そうすると瞑目のまぶたのうらに風にのる「空中のリボン」がかわりに結像される仕掛けになっている。バカみたいに明澄でやさしい詩篇だ。とうぜん意味よりも音韻が先だっている。
 
札幌にいると、街が無限に自転車を吐き出していると錯覚するときがある。だれもかれもが条理的で退屈な空間に、平滑な逃走線を自転車の軌道で引いているようなリトルネロをかんじるのだ(以上、ドゥルーズの換喩的な縁語化)。札幌が自転車と異様に親和的なのには、いくつか理由があるだろう。商店街をつぶさにたちどまって冷やかすほどには、街は差異的細部をかかえもっていない。すべては通過すべき過程だ。市街地中心部は北海道では例外的におおきくひろがる平坦地で、自転車走行に適している。また、それにかわるだろうバス便は「便」というほどに便宜的ではない。中国人留学生が多く、彼らは自転車にもともと馴染んでいて、自転車により中国と北海道の差異を脱領土化している。
 
とりにくい均衡が走れば容易化する自転車は、乗って走ってこそ「それ」になるという意味で、何か遅延をしるしづけられた媒質だろう。疾走と遅延が同時的というか融即しているのだ。自転車は、走る機構、載っている者、速度、軌道を、周囲に明示伝達する透明性をもつ。運転手と乗り物のかかわりはミニマルきわまりなく、注意を向ければ乗り手が露呈してしまう。しかも車体は人体と奇妙な再帰的連続性をもつ。車輪は双数によって組織され、双数性こそがほんとうは「一」の位置にあるという原初的な直観をよみがえらせてもくれる。
 
ペダルを踏めば、チェーンをつうじて力動方向が変換され、自転車がうごきだす。その前進は結果にすぎず、運動の内実は回転なのだ。自転車は乗り手をはこぶが、乗り手は自転車をはこぶ。つまり自転車を媒介に、乗り手は乗り手じしんを自力で移動させている。その意味で自転車は再帰構造を最少の機械性で可視化させている。She brings herself by bicycle. 暗喩はない。背景がずれてゆく換喩だけがある。サドルに股間が乗せられる性的な構造に、再帰性の延長にかかわる暗喩をかんじる向きもあるかもしれない。かつて天井桟敷の小竹信節は、自転車への動作を延長して、永久機関的な自慰器械をしあげた。
 
自転車は乗り手を明示的にするとつづったが、実際はそうではないかもしれない。反射的にあらわれるのがトリュフォーの短篇映画『あこがれ』だろう。美少女ともみえるベルナデット・ラフォンは「クラリモンド」という通称でもよかった。彼女は自転車にのり、髪とスカートの裾をなびかせる。彼女を追うカメラは、ほとんど彼女を全身ショット以上の遠景でとらえる。
 
ベルナデットが「つくっているもの」はなにか。へだたりであり、風であり、軌道としての周回運動であり、エレガンスであり、余暇的な余裕であり、身体の気配であり、タイトルどおりの「あこがれ」=渇望だろう。いっぽうで「つくっていないもの」が明瞭にある。それが「顔」だ。陽光にかげろう彼女の顔は遠景にありすぎて、予感化された状態のまま終始定着されないのだ。つまりここでは顔と渇望の離反という、反レヴィナス(の他者)的な事態が生起している。それがベルナデットの「顔のあたり」(実際は「余白」)をきれいにおもわせている。それはもう減喩だ。のちにトリュフォーの『私のように美しい娘』で彼女の顔が画面定着されたとき、細部や表情の物質性がはっきりとした「ごつさ」であらわれた。幻滅した。
 
顔のみえなさ、これがじつは札幌の自転車での通過者たちにもあるのだった。明視性が脱明視性と速度のなかでとりむすぶから、『あこがれ』のベルナデットのように、札幌の自転車の女たちもみなうつくしい。
 
根雪のない季節、自転車走行者が札幌の街路や北大のキャンパスをゆきかうと、避暑のために大雪山にこもっていたトンボが大量に下りて街なかを飛び交うすがたをおもいだす。何が似ているのか。透明な翅をふるわせることで不可視化するトンボは、その胴だけを限界的線分として明示させ、線分として翔んでいる。しかもその飛翔は線分が断続的に更新されるようすを「水平方向だけに」あやうく展開するのだ。スイッスイッというオノマトペが召喚されるとすると、それは生物的であるというより、かるさが機械性と融即した「些少さ」をむしろ幻覚させる。
 
垂直性も彎曲性もうばわれたトンボの飛翔軌道により、たとえば夕空がいくえにも層化し、空間の容量的潜勢がそこで露顕の契機を得る。ベルナデットの自転車は周回していたから、その空間に「あこがれ」を容積化したのだ。線分が水平方向に錯綜して運動の段〔きだ〕をつくるトンボや自転車では、速度にたいする以外の「あこがれ」を運動内に内破させてしまう。「純粋通過」とは消滅を運動の渦中に実体化されるさいの、「すでにしてある」残像ではないか。その容積には「あこがれ」は内包されない。ただ外延があるだけなのだ。
 
一緒に校舎を移動するとか、ぐうぜん信号待ちで学友どうしが出会ったとかの僥倖がなければ、自転車は併走しない。それぞれが孤独に走るだけだ。電車的な様相であれば、孤独は満員電車にすし詰めになっているが、自転車的な様相であれば、孤独は身体と自転車の輪郭どおりにしかならず、いさぎよく周囲の空間と非連絡的に連絡するだけだ。
 
自転車走行者は電車的ではないから、それを車輛や乗換手順のように、電車的に列伝化することもできない。それぞれがそれぞれのようにあって、どこかを走り、その予想だけがへだたりの相互性をもつ。だから一括分析するには躊躇をおぼえる。これがなににたいしての寓喩かは「自転車のように」自明だろう。変型ライト・ヴァースの詩作者たちにたいしてだった。自転車走行者について書いたことはすべて彼らに妥当する。読み返してみてほしい。
 
 

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2017年02月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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