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雑感2月14日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感2月14日のページです。

雑感2月14日

 
 
自画像の描き手では、デューラーとレンブラントが歴史的に突出しているとおもう。前者は自画像をしるす昂然たる意義をそのまま画柄にとらえた。個の粒立ち、世界への反抗。後者は逆に、自画像の脱自明性を自画像へと不敵に展開した。むろんどちらも顔貌が良く、これがしるした「昂然」「不敵」と調和している。
 
詩歌もしょせん自画像の域かもしれない。叙事詩のジャンルをかんがえなければそうなる。日本の詩歌中、自画像性がすぐれて「表現主義」的だったのはむろん岡井隆だ。最近はそこに倦怠がしのびこんで、うつくしい綾もできている。『ネフスキイ』から一首。
 
 しま馬の群が駈けてく映像をちらと見たあと〈私〉に沈む
 
風呂あがりかもしれない岡井隆が、伴侶がTVでみている動物ドキュメンタリーの画面を横目で確認したのち、そそくさと仕事の継続のため、書斎へむかう。その一瞬の「顔」がたしかに結像している。短歌はみじかいから、ただしく主題が提示されれば、ストップモーションの最終ショットまで形成する。
 
ちなみにいうと、シマウマの白黒の「縞」は群として密集すると界面異常をきたす。奥行きを判別できない恐怖の全体となるらしい――天敵であるはずの肉食獣たちにとっては。自然界にあらざるうごく抽象模様、その脅威。このことが、岡井の歌の〈私〉にもかすかに反映しているかもしれない。もしその〈私〉が一者にして同時に群であるならば。ならば岡井の〈私〉も結像性にして結像不能性なのではないか。
 
みじかくはあっても確実な量感をもつ改行詩では、そのうつわの恩寵に、時間の属性がさらに活用されている。時間は「未来」といった漠然とした前方をおもいえがけば即座に他者化する。ところがその一刻一刻は、まえの寸刻があとの寸刻ととけあって自体性をとろかし、調和的な進行感をおぼえざるをえなくなるのだ。散策は、そうした進行感に自己身体を添わせながら、無為と有為を渾然とさせる営みだろう。自己身体が時間と見分けのつかなくなるまで、ただしい散策は継続される。散策の成果がなにもないことが散策の本懐となるのはそのゆえだ。
 
改行詩のながさは、自画像を、写真的静止ショットからあいまいにうごくセルフドキュメンタリーへと拡張する。ただし「わたしはこうした」「わたしはこうした」という誇らしい報告は、恥辱意識の点から避けたい。どうするか。書かれている詩が日本語なら、まずは一人称主語を省略する。それは一種の斬首だ。そうして首なしになった詩的主体の行動が、行の転換単位そのままに連鎖されてゆくと、行の底にいわば「動詞の脚」が林立してきて、その推移がそのまま時間性となる。しかも動詞は日常性の域にある。構文連鎖に自然化とともに不如意もあるのだから、確実に(これが「自然化」の結果)悲哀が蓄積してゆく(これが「不如意」の結果)。くわえて主語が斬首された構文の連鎖は、動作そのものを不在の場所に内面化する。それは読者の内面にまで架橋され、読者もまた首をうしなう。そんな同調が起こるのだ。
 
理想とする類型は、西中行久の「週日レッスン」だった。拙著『換喩詩学』の一七一頁から一七三頁に全篇引用してあるので、おもちのかたは確認してほしい。現代詩中、最重要の一篇だということはすぐにわかる。寂寥、しかも最終的に到来する「世界のあふれ」が只事ではない。それなのに語調が慎ましさにより終始抑えられているから、泣けてしょうがない。
 
さて和田まさ子さんの個人誌「地上十センチ」14号(ゲストは宿久理花子)が送られてきた。和田さんは西中行久に匹敵する詩の快挙をなしとげた。彼女の四篇中三篇は散策詩、そのなかで「極上の秋」と「抜けてくる」がとりわけすばらしい出来だ。
 
はたからみれば散策する身体は連続的な自明性のうちにあるが、それを屈曲した脱自明性へとみちびくのは修辞のずれやねじれだ。このことで顔が不可視化する。しかも身体や思考にともなう作用性と対象性、それらの弁別がうしなわれると、散策者のいる世界の構造には判明しない結節が充満してきて、空間的に豊饒化をむかえる。そうして西中詩同様、悲哀とよろこびの同時化が起こる。「極上の秋」の行頭に序数をのせ、全篇引用することをおゆるしねがいたい。その序数にもとづき註解をほどこす。
 
【極上の秋】和田まさ子
 
1 シュウメイギクが咲いている団地の
2 角を曲がった、その角を
3 同じ角度であとから曲がる人がいて
4 真似られているから
5 今日のわたしを一枚めくる
6 もともとはがれやすい皮でできている
7 おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が
8 ひとつに集合し、かたまりのなかで
9 じぶんと親密になる
 
10 五反田川のわきを通る
11 明瞭でないものをふたつ抱えて、いつか
12 捨てるはずだったが
13 きょう心を離れた、欲望の命令に
14 服従した過去も捨てる
15 きれいな指だった
 
16 支持する人を
17 始末して
18 生田の公園はからっぽだ
19 もう、ここに用はない
20 理由があってもなくても
21 靴底は新しい
22 行きなさいと声がする
 
23 角を曲がって
24 にんげんが逆さに立っている野原まで
25 重石のような川水に
26 男が話しているのを
27 耳でも目でも聞きながら
28 たくさんの比喩に
29 負けないで通り過ぎる
30 極上の秋だ
 
【1行目】「シュウメイギク」は「秋明菊」で、アネモネの一種。赤紫の大柄な花だが、地味でありきたりといえるかもしれない。植物名を精確に見抜くのは女性性の特質。いっぽう「団地」もありきたりの場所属性をつげる。気取りの一切ない開始で、行末が「団地の」と連体形になっていることが詩に推進力を喚起する。こういう改行は凡手にはできない。
 
【2行目】「角を曲がった」は眺望変化をしるしづける。世界の退屈は「角を曲がる」ことで減殺される。だがそんな曲がり角に停滞をおぼえる感性もある。たとえば《曲り角を曲る時に 曲り角も曲ってしまうので/いつまでもここにいる》(松下育男「椅子は立ち上がる」部分)。
 
【3―4行目】《同じ角度であとから曲がる人がいて/真似られているから》中、ミミクリをしるす「真似」はおそろしい語に昇格した。《もしも/遠くから/私がやってきたら/すこしは/真似ることができるだろうか》(高木敏次「帰り道」部分)。他人がいる。分身がいる。私が分立している。共鳴している。どうであれ、「世界のあふれ」は恐怖によってひそやかに充実している。
 
【5行目】《今日のわたしを一枚めくる》。こう書かれて、動作の作用域・対象域が混乱する。関係項をつたえることばがたりないのだ。ともあれ「わたし」は分離可能で、蓄積体で、わたしによって作用される対象だということはわかるが、この認識に出口がない。そうして主体から顔がきえる。前行がめくる動作をみちびいたとすれば、「他人に真似されることをきらって」という理解になるが、一枚めくれば、わたしの「今日」は「今日以外」もあらわにして新規化されるのだろうか。いずれにせよ、わたしの身体は表面性をもち、日めくりのように「枚数」単位で算えられることになる。わたしは束なのだ。次行の展開をみれば、この行末で句点が打たれているという補足が読者に生ずる。
 
【6行目】《もともとはがれやすい皮でできている》。前行の「一枚」から「皮=皮膚」が召喚された。剥落容易性がしるしづけられる。けれども具体的に「皮」と書かれると逆に物質変貌が起こり、蜻蛉の翅のような透明性をイメージしてしまう。冒頭の「シュウメイギク」に「秋」が潜んでいることの間歇作用かもしれない。この行も次行の展開からみて、行末に句点を読者は補う。
 
【7―8行目】《おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が/ひとつに集合し、〔…〕》。前行までとはことなる身体観が無媒介に到来している。読者は論脈をつなげようと躍起になる。色とりどりのおはじきを畳にぶちまけるのは童女期にふさわしいしわざだろうが、その点在性が体表に残存している。おはじきのひとつひとつが別感情をしるし、感情においてわたしは複数なのだった。ところが5行目《わたしを一枚めくる》更新は、「めくる」という作用をつうじて、感情の点在を一挙に局所化してしまう。あたらしい感情が芽生えると、それがとりあえず一枚岩の全体になる――そう示唆されている。
 
【8―9行目】《〔…〕かたまりのなかで/じぶんと親密になる》。同じ動作をする他人との共鳴により一身性をうばわれたわたし、あるいは一枚めくられることで束状をあかされたわたしは、新規化によって「同一性」「自体性」を再獲得する。この体感が親密だとしるされている。もちろん女性性がここに介在している。けれどもそれは恥辱意識により、明示されてはいない。
 
【10行目】「五反田」に幻惑されそうになるが、調べると「五反田川」は「神奈川県川崎市麻生区・多摩区を流れる多摩川水系二ヶ領本川支流の一級河川」とある。のちの「生田」とも空間的に符合する。
 
【11行目】《明瞭でないものをふたつ抱えて、〔…〕》。「ひとつ」なら一般化されるが、「ふたつ」にはどこか個人的なひびきがある。しかも「明瞭でないもの」はたとえば「心配事」などではない。いっけん謎解きを迫る迂遠的な措辞だが、「明瞭でないもの」「ふたつ」とはたとえば「たましい」と「からだ」ではないかなどとふとかんがえたりもする。それで圧をおぼえない。以下、行のわたりが意味形成と息の面からシンコペーションをかたどりはじめる。それがそのまま論脈の把握に混乱をきたすよう意図的に差配されている。この詩篇でもっとも文法破壊的な5行だ。読みはとうぜん遅延化する。文法破壊は「わたし」という措辞をしゃにむに消去したい傾きによって生じている。
 
【11―14行目】《〔…〕いつか/捨てるはずだったが/きょう心を離れた、欲望の命令に/服従した過去も捨てる》。文脈の混乱じたいが詩的だという前提をいいつつ、論理的に文脈を組み替え、この一帯を散文化してみよう。「欲望の命令にあえなく服従したなさけない過去がわたしにはあったが、そのわだかまりが、さきほど今日のわたしを一枚めくったことで、わたしから離れた。もともとそのわだかまりはいつか捨てるはず、と念じてもいて、わたしはそれをあるきながらようやく挙行したのだ」――たとえばこう書いてみて、以上が詩篇の実際のように「詩分解」されるときには、語順が換喩的に入れ替えられ、行が「立つ」ような分離がおこなわれなければならなかったと気づく。つまり心情の分離と措辞の分離とが、ここでは見事に相即していた。読者はことばの潜在性を咀嚼するが、ことばはありのままに書かれているから、暗喩解読をしていることにはならない。
 
【15行目】《きれいな指だった》。「捨てる」動作をおこなった指が「きれい」と振り返られているが、「きれい」と「指」の接合は「しろさ」「ほそさ」をよびだす。ところがこの指の持ち主は論脈上、はるか5行目にある「わたし」になるから、意味的には気味悪い自己愛を結果すると一見おもえる。だが、逆に自己愛の禁忌にふれることで「わたしの指」は「わたし」から離脱し、わたしの離人症的なまなざしがたちのぼってくる。この転換がはかない。ここが詩篇中、もっとも戦慄した一行だった。往年と現在が残酷に分離されている気配がある。同時に自由間接話法的に、独白内容が無媒介化されてもいる。
 
【16―17行目】《支持する人を/始末して》。前聯の論脈混乱によって遅延化した読みを受け継ぎ、ここでは行を構成する文字数(音数)のすくなさによって遅延と視覚集中がともなう。「始末して」の殺し文句にふさわしい措置だ。「支持」という生硬な語が意図的にもちいられているが、こうした衝撃付与は福間健二由来かもしれない。だが「支持する人の始末」は具体性に転化できるのだろうか。できたとしても補いがひつようだ。前聯からももちだしてそれをあえてすると――相手を欲しいとおもい、理知をうしなった女性的な過去を心からそそぎおとしたのもわたしの女性的な指だ――わたしは欲望と切除意志の双方に女性性を反映されていて、その再帰性をことほぐひともいた――けれどもそうした「支持」さえもわたしは切り捨てたのだ――。どうだろうか。読み過ぎかもしれない。いずれにせよ、詩文の要約は、原文よりもかならず冗長化する。だから詩文はほんとうなら「かんじる」だけで解剖してはならない。
 
【18―19行目】《生田の公園はからっぽだ/もう、ここに用はない》。「始末」の余勢を駆って世界が空虚になった。訣別の範囲がひろがった――行のわたりはそんな動勢にのっている。筆者は以前、生田の南を伴侶と散策したことがある。うっすらした記憶では駅前からすこし離れた小高く鬱蒼とした崖の森が公園となっていた。もし詩中の公園がそれだとすると、それは「からっぽ」になるという措辞に向かない。となると、逆に「抹消」の意志がつよいことがわかる。意味解読では必然的に過去のしがらみからの脱却が強調されてしまうが、散策の呼吸でのみ行がわたっている点がむろんすばらしいのだ。あるくことで刻々のわたしが捨てられつつ、その棄却を継続させることで身体的な同一も同時に保証される。
 
【20―21行目】《理由があってもなくても/靴底は新しい》。掲出前行は虚辞と映る。語調面から挿入されたと一旦かんがえつつ、前行までからの反映も同時に斟酌する。すると妙な文脈がみえる――この生田の地への散策は心身の更新のためにおこない実際それに達したのだから「気分として」靴底はひとつも磨りへらず新しいとおもえるが、現実にもこれはあたらしくあがなった靴なのだと。すると「生田」が「わたし」にとっていわくのある地とおもえてくる。だが、やはり前言のように散策の継続性により心情の凹凸が前面化しない。時間とひとしくなった「身体のようなもの」だけが詩の空間をながれ、湿潤はひとつもない。
 
【22行目】《行きなさいと声がする》。前聯の意味的破調にたいし、抜群の音韻性をたもった今聯はこのフレーズで終わる。自己確信を補強する何者か(もしかしたら神性)の声がわたしのなかに再帰的にひびく。けれども「おまえは行け」は熾烈な命法で、換言すると「おまえはすべきことをすればいい」となるが、たとえばそれはイエスが自分への裏切りを見破りながらユダに語ったことばなのだった。だから「行きなさいと声がする」はあらたな分裂の予感をはらむ。ただし一読ではたしかに大団円の音楽性をもつ。
 
【23行目】《角を曲がって》。前行での祝言を受けて、二行目へのメインテーマ回帰が起きた。意味よりも音楽的調子によりフレーズが招かれているのではないか。
 
【24―27行目】《にんげんが逆さに立っている野原まで/重石のような川水に/男が話しているのを/耳でも目でも聞きながら》。掲出の2行あとに「通り過ぎる」があり、掲出一行目「野原まで」はそこにかかっているととらえられるが、ふくざつな構文がつむがれていて、二聯のように読みがいったん混乱する。書かれていることは嘘=「比喩」(28行目)のように現実的ではない。「にんげん」をひらがな書きにするのは当代の流行で、それは人間一般にたいするゲシュタルト崩壊をふくんでいると同時に、道義性への反撥を分泌させている(たとえば坂多瑩子「春」〔『こんなもん』〕にも《自分で自分の予想絵を描いて/首にぶらさげ/にんげん屋の店さきに/立たされている》というフレーズがある)。異常性は各行に散布されている。「にんげんの逆立ちする」野原。川水にたいする「重石のような」という直喩。「川水」に話しかける行為。それら黙示録的な幻影を正常値に着地しかえすのが、「耳でも目でも聞き」の措辞だろう。そこには「眼で聴き」「耳で視る」共感覚の幸福が伏在している。地上の異変は共感覚が平定するのだ。
 
【28―29行目】《たくさんの比喩に/負けないで通り過ぎる》。比喩が異常性を出来させるのなら、通常の詩的言語は狂う。ところが音韻と意味を分離しない(散策のリズムを貫通させた)穏やかな詩作精神は、狂気に「負けずに」、音韻重視に付帯する共感覚を代置する。詩論により裏打ちされた透明な詩作が立証されている細部だ。だが勝利するのではない。「通り過ぎる」のだ。通過だけがある。悲哀の水位も上昇している。《「ひとはただゆっくりと移動するだけだ……」》(稲川方人『われらを生かしめる者はどこか』エピグラフ)。
 
【30行目】《極上の秋だ》。秋は前行までを修飾節にしているのではなく、単独の一行。これも自由間接話法的な内心吐露だ。冒頭から気配としてあった秋の季節感がここで全開、前聯末部「行きなさいと声がする」の祝言性と協和した第二祝言となる。この「第二」性に、過去を断ち切った第二現在のふくみがあるだろう。単純な物言いにより透明化が起こり、それが読んできたこれまですべてに遡及する。感情も景物も、散策中出逢った他人も、曲がり角も、すべて明澄にかがやきかえす見事な結末だ。詩の本質とは運動なのだ。ちなみに詩を読むことは、その読んでいる詩を読者が書くこととひとしい。能動的参入が必須となる。そのさいの端的な参入こそが、詩脈を吟味して意味上の句点を補うことだった。
 
 

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2017年02月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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