雑感2月15日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感2月15日

 
 
中堅の詩作者たちが警戒しなければならないのが、「したり顔」の指摘だろう。まずは評価が部分的にしか定着していない、その台所事情への邪推が読者側からある。「うまいといわれたいのだ」と、「そうではないこと」を嗅ぎつけられる。このとき作動しているのは、作者側の二重性ではなく、じっさいは読者側の二重性にすぎないのだが、世評というものは詩作とことなり、けっして自己再帰的=反省的ではない。
 
意図的に可読性をたかめて書かれている。やわらかくひびくような配慮がある。詩中の会話語尾が偽善的だ。世事を揶揄「してみせた」人工性があって、主題意識の点で迂遠がかんじられる。詩の自体性よりも、みずからの「たかさ」を伝達しようとしているのではないか。書かれているものの深層が読者への訓戒の調子をおびて、みずからの上位性が整理・脱色されていない。終始、作者は安全圏にいて、詩作を利用し常識への容喙をするだけ、自身の書いたものの効果が自身を害する危機意識も稀薄だ。不意打ちや切断が悪用されている、などなど。
 
いずれにせよ、底意と表象の分離(二重性)が読まれているにちがいない。その出来が良いと、かえって作者の達成感が否定要因として詩の裏側に認知されてしまう。読者はみずからがかんじた刻々の二重性を読後意識=作者総括にまで貫徹させようと懸命なのだ。その懸命さを詩作者がわらうことはできない。なんにせよ「懸命」なのだから。ただし無用の論難ほど回避したいものはないだろう。
 
以上のように整理すれば、詩作意識と実際はまったく関連なく感知されてしまう「台所事情」をどのように無効化させるかはおのずとわかる。1.批判する対象があるなら、その対象のなかにみずからも骨がらみに容れ、批判が自傷となるような力線をつくりあげる。2.可読性は会話語尾などの記号的なやわらかさからもちださない。詩自体からもちだす。
 
3.不要な詩脈の彎曲は回避し、読者の読みを作者側から能動的に「運転」しない。4.学殖や語彙展覧はむしろ詩の不純物とかんがえる。5.書かれたものに詩的二重性ではなく、世間的二重性が混在していないかを徹底的に自己吟味する。6.「在ることが在る」としめすだけのぶっきらぼうさを選択し、詩中の語関係だけが純粋に機能するよう語を配備、文体に透明性をたもつ。
 
ところが「したり顔」を誤解されないためには、以上のような世間知的配慮(自戒)よりも、もっと本質的な選択があるのだ。つづけよう。7.詩に自走性をほどこす。どういうことか。詩がそのように書かれていることを作者じしんが制御できないほどの衝迫があった――この軌跡を詩篇の「部分」がのこすということだ。俗にいう、「ゆびがとまらなかった」というこの「おぼえ」は、たとえば罵倒がとまらないのとはことなる。罵倒では自己保守が攻撃性に転化するのにたいし、詩の自走性は自己保守こそを攻撃している。だからそこに「したり顔」的な傑作意識の介在する余地がなくなるのだ。結果、「嗅ぎつけられる」のは自分をあらぬものに供した残酷さだけになる。
 
こう書いたからといって、べつだんオートマティスムを称揚しているのではない。むしろ詩作の自走では、詩篇上の文法的な「傷」が、詩作がみずからを制御できなかった痕跡として現れているひつようがある。「同」を根拠にするオートマティスムは陶酔の蓄積だろうが、詩篇内にみいだされる奇妙な自走性は「異」を根拠にし、陶酔直後の痛覚や冷却までしるしづける。陶酔と痛覚、それら双数から二重性がみいだされないかの危惧はいらない。ふたつの時差は最少可知差異以下にまで詩作では近接するためだ。経験者には自明だろう。
 
8.揶揄とペーソスの不透明な混淆、攻撃性を減殺したちいさな針刺し、すくなすぎる読者属性にむけての同意提案、みずからの身体性の隠匿は、じっさいは詩作者の位置を無謬として温存させるだけのものだから、これをしない。9.詩作はなにかにまみれるものだが、まみれてよいのは自己身体だけで、たとえば卓抜な社会批評にまみれることはできない。「王様ははだかだ」と詩が真実を投げるのではなく、「わたしは裸で、王様ではない」とする屈曲で、自己が折れるべきなのだ。
 
ホモ・サケルの転身となった収容所内の「ムスリム」たちが、自己身体を記述するには離人症的なアプローチしかなかったとアガンベンが検証したのをおもいだすべきかもしれない。対象化されたものは、個人の符牒を剥奪された、ぶっきらぼうなものにすぎなかった。アノニムをめぐるこのぶっきらぼうさが詩の憧憬だろう。とりあえずそれは詩作上の文体選択に影響をおよぼす。「在るものを在らしめるべく書くこと」の純粋は、じっさいはみずからのからだの反映なのだ。からだはほんとうなら優越感から出来する世間への揶揄をふくんでいない。かかわりを抑制する自体性にくるしんでいるだけだ。そこに「顔」はない。だから「したり顔」もない。
 
ここから「したり顔」を読まれることを回避する最後の手段が記述できる。10.感情ではとりわけ「かなしみ」を選択する。前述の自体性は、むろん存在論的には充実すら発露するが、それが記載行為によって裂かれるときにはかならず「かなしみ」をともなう。自体性の裂けは「怒り」にも共通するかもしれないが、怒りは自己身体によって摩耗すれば即座に揶揄へと劣化してしまう。逆にかなしみは渇望を原資としていて、対象が判然としない愛へ転化されやすい。ひろがるのだ。
 
むろん詩の最良の感情は、古来からかなしみだった。よろこびは「現在」をよろこんでいるひとらを架橋する。それは多く、浸透性をもたない反射にすぎない。いっぽうかなしみは、注意ぶかい読解により共苦の圏域と機能を拡大するもので、反射が予定される皮膚ではなく、深化が予定される「肉」を想定している。当該の詩の最良性はかなしみのあかしによって測られる。これは分量がすくなくても、決定的に量感上の体験としてながれてくる。このとき読者側の二重性があっけなく消失する。共感にたいしては抵抗がならない。
 
以上しるしたことが謬見だとする自己診断もある。なにしろ意味生成と構文生成を一致させるぶっきらぼうを志向するわたしは、「したり顔」を多く無用に感知させているだろう「ですます調」を詩の文体に選択できないのだった。「ですます調」は不可思議だ。改行形でそれをおこなうばあい、適している機能が「分解」となる。構文の分解が改行をともなうことで、伝達意味が強調されながら、語調のやわらかさが強調を否定までするのだ。だからそれは再帰的な二重性をつたえてしまう。
 
「ですます」詩の特質は一行の字数(音数)におおきな多寡の差があることだろう。そのぶん構文そのものが緩徐化=自己疎隔化し、「ですます」語尾の出現頻度が減る。逆をかんがえてみればよい、一行字数(音数)をあるていど均質化して一行15字くらいの「ですます」詩をこころみると、「ですます」の多さに胸やけがおきるだろう。
 
以上は詩作技量と詩作意識が真摯な次元で拮抗し、しかも恥辱意識が自己穿孔している中堅の階層にむけての提言だ。提言が厚顔尊大でないだろうとおもわれるのは、その階層に自身も内包されているためだ。書かれたことはかすかに「吐血」している。つまり内出血から書かれたのではない。
 
会話語尾の女性性が愛着期待性として自身に反転してしまう若い女性たちの詩のあまさは、ここでは対象化されていない。もちろん学殖を全面化して音韻性がめちゃくちゃだったり、些少な「アイデア」をペーソス詩に誇ったり、みずからの詩篇の迷惑なながさ(それは権益領土面積の誇示と直結している)に無頓着だったり(ちなみにいうと鈴木志郎康さんは徹底して自覚的だ)、あるいは既得権化を根拠に既得権である「手癖」をだらしなく継続させている、詩精神の空洞化した「大家」たち(なんとそこには若手すらいる)のことも相手にしていない。それらでは「したり顔」が疑われるのではなく、「したり顔」そのものが表面化している。その詩も「かたまり=膠着」としかみえない。外延が存在していないといえるほどに、なにもうごいていないのだ。
 
 

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2017年02月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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