雑感2月16日
「編集」という概念は自分のなかでふたつある。ひとつめは映画編集に応用される手さばき、ふたつめは雑誌編集に参集してくる思考だ。これらはいずれも詩作と関連している。このいきさつをまずは前者からかんがえてみよう。
アンドレ・バザンの所説とは離反することになるが、映画の発明とは、俳優とスタッフに分離した場を前提に撮影をおこなったことではなく、編集によって視覚性の時空間、その質をそれまでの表現一切から不可逆的に変貌させた点にある。しかも1ショットに他のショットを後続させる内在性があることが重要だった。それは物語以上に視覚性の問題圏にある。
空間連続性には延長のほかに対置もふくまれる。また部分化もふくまれる。部分化は部分から部分への「全体をしめさない」越境・混乱まで準備するだろう。時間面では、編集の機能はふたつにわかれる。間歇性を容れること、もしくは同時化の徹底がそれだ。それは別次元どうしでも同時性であれば隣接してよい保証となる。
もちろんカッティングには、1ショットのながさ、あるいはショット内の動勢からくる、つなげたときの呼吸があり、それじたいが生命化する。あるいは逆に弱体化、倦怠化も可能になる。視覚的衝撃は、明暗、遠近、諸部位、構図、了解的位置関係の変転に編集上は起因するが、その編集はどうしても同一化できない驚異を、放置したまま自身に内包している。それが顔や身体や風景などの「表情」だった。「表情」はもともと「顔」なのだ。
以上しるしたことは、比喩学なら徹底的に単純化できる。つながるための、つなげる原理をさがしながら、たえず進行することでそれじたいをうしない、ズレの加算としてしかすべてが結果しないこと――すなわち「換喩」がそれだ。部分→部分の経緯のみではなく、持続と間歇の刺繍そのものも、時間論上の換喩=語りと捉えること。そこまでゆくと、映画編集と、詩作上の編集意識とを、区別するひつようすらなくなるだろう。
ずれだけを自明化させること――これが換喩の使命だろうが、ある種の意味的量感により阻まれることがある。この阻害要素を、志向的・概念拡張的に「暗喩」といってもよい。平倉圭は『ゴダール的方法』でゴダール的編集が「et」のみをみえない結節点にもつ無法則だとしたドゥルーズにたいし、ゴダール的編集が身体や場所を基盤にした「隣接」的結合=換喩のみならず、図像や意味の「類似」性を根拠にした暗喩的結合だと、とりわけ『映画史』で詳細に実証してみせた。つまり「et」に予定される不純物と恣意はどこにも存在していないと。
ゴダールは換喩、暗喩、ふたつの結合系列をかぎりなく同時化へちかづける。結果、換喩の暗喩化、暗喩の換喩化といった事態まで惹起する。これが映像/音声のズレさえともなったとき、物語性の加算としては一切了解できなくなる「それじたいの透明性」をつくりあげる。だからゴダールを観ると、詩作精神が刺戟されるのだ。
詩作に接続詞を多用する者は、論脈を誇示し、読みを誘導している。あるいは読者を貶価したり自身の操舵力に無批判だったりする。ゴダールはしていない。詩作の初学は、まずは接続詞を破砕し、構文の刻々をまるはだかにして、しかも自体性から自体性をうばう「うごき」を詩の刻々に供与することで開始されるだろう。「こうなって」「ああなって」「そうなって」とみずからに生起した時間内事象を列挙することは詩作では基本的に得策ではない。時空のひろがりから言語介在性が剥離され、読者のなかに生ずる「承認」だけがイメージ加算されてしまうためだ。これは小説言語にふさわしいものだろう。
むろん詩作者が人生上に生じた「事実」だけを平叙体で(たぶん簡潔と間歇を原理にして)ただ「具体的に」しるしていっても、詩が高度な次元で成立してしまう。たぶん詩作に原理として横たわっている世界肯定性は、「あること」「あったこと」を絶対に救済するようにはたらくのだ。このとき構文や語使用の刻々の飛躍は、「想起」の原理とまったくひとしくなる。「想像」の原理でそれをしている詩文よりも純度がたかく、共感が湧くのもとうぜんだ。
いっけん記憶の精度がたかく、みずからの往年が息のながい改行形式でふりかえられているようにおもえる野崎有以『長崎まで』の諸詩篇は、その浸透力のやわらかさを理解できるが、詩文のかさねが、「想起」の原理ではなく、「想像=創造」の原理に負っていることを、前川清への言及などで作者みずからが種明かししてしまっている。詩が「嘘」を書いてわるいいわれはないが、『長崎まで』は改行形で書かれた小説とうけとるのが自然だろう。
作者神話に亀裂を入れられたものが同時に詩を自称され、繊細さとやわらかさまで付帯させているそのながめは、実際のところかなりスキャンダラスだ。その醜聞性を掬することはできるが、なにか神経戦の渦中に入り込んだ狭隘もかんじる。証拠は、『長崎まで』の収録詩篇に、叙述と描写はあるが、その編集的刻々に、空白化、飛躍、ずれ、多声化などがないことだ。「空白化」「飛躍」「ずれ」「多声化」「切断」などが、詩的「編集」の肉質なのだった。
映画的編集と詩文的編集が合致してしまうと、あらわれるのはカフカ的なものだ(あるいはある時点の藤井貞和的なものともいえる)。それじたいがことばによって実証されているのに、それじたいが不在だという混迷は空間に深度の魅惑をつくる。以前も自著に引いたことがあるが、カニエ・ナハの一節を再度引用しておこう。「永劫回避」(『MU』)。
ある映画のラストシーンでは
主人公が斬首される
カメラは今まさに
斬首された頭からの一人称の視点で
視界がぐるり、天と地が二転、三転し
オシマイには首のない
自分自身の身体を見ていた
ゆびにまだ「陶酔」があったころは、詩作渦中の天邪鬼、気散じによって、時空がずれ、行加算が能産的に起こることを自分に開放していた。いずれゆびからは陶酔がきえる。そうなると詩作上の編集原理がかわる。単純な加算が単純さを奪われるためには、意味の自明、修辞の自明が減殺されるひつようがあるのだ。しかも奇想を目立たなくさせ、表面上は平滑性をほどこし、読者の参入を欲しなければならない。つなぎめのないつなぎにより、詩そのものに逃走線をいれる。隣接と明示されていない隣接が横行し、隣接が前提とされる空間の充実に、穴があいたり、それじたいのループが起こるよう企てる。このとき換喩はもう換喩とはよべないものにまでよわまってゆく。それで「減喩」という造語をつかいだした。詩行ももはやモランディのもうろうな壺のようにならぶだけだった。
話題を第一段落の後者にかえる。「編集」の別次元――雑誌的なものにかかわる「編集」に動員される概念とは以下のようになるだろうか。「調査」「企画化」「蒐集」「選択」「交渉」「入手」「貼り付け」「空間化」「時間化」「部分強調」「見易さのための風穴ひらき」「パターン化」「美化」「効率化」「入稿」「ミスの抹消」「再精緻化」「索引性の付与」「周知化」「採算化」などなど。
詩作に、現状の詩作フィールドへの批判意識が反映されるのはやむをえない。ある趨勢をみて、そうではないべつの傾斜を自分の詩に内在化させる。長さ、語調、語彙、喩法などをみまわし、とりあえず自分だけでも気に入ろうとする詩を書こうとしたなら、そこに介入しているのは世間一般の編集意識と同様のものだろう。
手垢がついたためにつかえなくなる語がある。わたしにとってたとえばそれは「少女」だった。語を「むすめ」に置き換えたり、属性としてのネオテニーを主題化したこともあったが、そうした姑息な緊急避難さえ効力をうしなう。やがては主題全体にしめる「少女性」の陣地そのものがうしなわれていった。詩にできなくなったのだ。このことからすると、雑誌的な編集は領域化だが、詩集的編集は消失化といえるかもしれない。
消失化は平板化を併存させることでふかまる。書き誤りではない。編集が時空を基底材にする以上、「順番」がいつでもつきまとうのは理解されるだろうが、苦心してしあげた詩行の「順番」は、詩篇の「順番」へと拡大してゆく。詩作者は自己作品を「蒐集」し、全体を「順番」にしなければならない。このとき前述した「編集」概念が縮減のかたちで作者のまえにあらわれる。もういちど減らしながら書こう――「蒐集」「選択」「貼り付け」「空間化」「時間化」「部分強調」「見易さのための風穴ひらき」「パターン化」「美化」「効率化」「ミスの抹消」「再精緻化」「索引性の付与」がそれらだ。項目はだいぶ減少し、その意味で個人完結的、そう、平板になった。
ネットは投げ壜通信と同様の拡散性、再帰性を期待させるが、ブログやSNSにアップされた詩篇は孤立し、詩集空間に置かれている救済をうけない。ネット詩がきらわれるのはその多くが横書きでフォントがちいさいためではなく、所属系が切断されているためだ。作者の名さえ孤立詩篇にとって邪魔となる。こうした抑圧を解消させるために、最終的に詩作者たちは、経済的な苦労を負いながら、詩集形を選択するのだろう。
順番化、取捨選択、浸透が読者に加算してゆく様相の判断、一篇の詩のきえかた、詩集にみえない索引があると意識すること、語彙と音韻の最終調整、主題の重複と展開の見極め、一篇ごとの詩篇のかたちの再吟味、強調されすぎているものを切除すること、ながれの練磨(流麗化)、発句、脇、第三句、花の座、月の座に類するもの、あるいは最終詩篇の祝言性など連句概念の適用、量感と読者の繙読時間の測定などが、詩集編集にかんがえられるものだろう。
詩集は80―120頁が適切だと、だれがきめたのか。むしろ頁数ではなく想定読了時間が詩集の量感を決定したほうがいい。わたしのようにみじかい詩篇を収録するばあいは、読者に頻繁なチューニングのやりなおしをせまることになるが、すこしの増頁がゆるされていいのではないか。
詩集に40頁台の縮減的定形をつくったのはかつての紫陽社刊行詩集の功績だった。それは70年代に青春をむかえていた者の縮減傾向と同調していて、悲哀にまつわるひとつの見識だったようにおもう。ところが同時期の吉岡実の詩集などは200頁を超えていた。いまは経済的な理由から、詩集刊行頻度が詩作者の多くに抑圧される。ならば頁あたりの自己負担が割安になる200頁ていどの詩集がもっとふえてもよい。
ちなみに何度でもくりかえすが、詩集一冊あたりの想定読了時間はCDとおなじく40-50分くらいが理想ではないか。これが注意と感動が持続できる限度だろう。この幅が再読を促す。あるいは荒川洋治や藤井貞和の詩集のように、たりないことが再読を促す。さらには携行容易性も。