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雑感2月17日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感2月17日のページです。

雑感2月17日

 
 
作為の過剰は、これをみずから抑止しなければならない。わたしたちは、脱色されてこそ草木と調和するからだ。そのために古賢は菰さえ身にまとった。そうしなければならないさだめは、かんがえてみればずいぶんとかなしい。
 
作為の抑止のためにさらに作為が発動される再帰性。現在の詩作における自意識は、ふかみへともぐらざるをえない不如意をしい、これが水圧過多や窒息をまねく。この悪循環を断ち切るには、「同」のなかに次元のことなる「異」をみちびき、自分という宿痾の根源をかえてしまうことだろう。自分自身を証言できないかぎりそうするしかない。こうしるすとなにか深刻めくが、じっさいは自身の有限性をみずからからかうような、いたずらごころを引き入れることが現代的な処方となる。
 
編集者から聞いたはなしだが、井坂洋子さんは詩集をつくるとき、構成せずに詩篇の束を無造作に渡し、ならべて詩集にしてみて、と依頼するという(この荒木経惟的な挿話には荒木経惟的でない尾鰭がつく――編集者は熟考のすえ全体を完成させたが、出てきたゲラをみて井坂さんは、ぐうぜんできたながれの完成のため収録予定の一部を捨て、さらに新篇を書き下ろし、結果、刊行予定日までずれたらしい)。あるいは江代充さんが詩文庫に自分の既存詩篇ぜんぶが収録できなかったさい、収録詩を乱数表的な偶然によってえらんだのではないかと、貞久秀紀さんと話したこともある。これらにあるのが、いたずらごころによる「異」の導入といえるのではないか。命題はこうだ。空白をのこすこと。自分を自分の支配下に置かないこと。
 
部分を加算しきって全体になるようには、わたしたちの部分など、実際は確定していない。詩のフレーズ細部とおなじだ。そのことをむしろ自身にたいする放牧として、わたしたちは愉しんでいるはずだ。たとえば左手で左目を隠す。するとたちまち、身体に奥行き、ひねり、たわみが出現し、できたたわみなどによって、わたしたちは自己身体と、のこった右目でみられた世界とを思考する。実際そのようなしぐさをとっていなくても、わたしたちの認識はそれが不完全であれば、だいたいはそのようにある。
 
からだが全体としてあるのは以前に書いた「ムスリム」状態を指標し、そこではおそろしい絶滅が予告される。収容所という閉域が前提されている。逆に意味が明滅している世上にあわせ、からだの各部分が日ごとの共鳴をON/OFFでくりかえせば、からだは波動のようになる。海は全体だが、波打ち際はその伸縮によって部分なのであり、わたしたちはつつましくあれば海ではなく波打ち際を生きている。海はみえるが、波打ち際はそれを数分凝視すると「みえない」と気づく。うごいているのは、みずからへのいたずらごころだ。あるいはかくれんぼをしてみればよい。すると自分の移動しているどの場所も林間にさえなってしまう。
 
わたしたちは他人にたいし恫喝的であるよりも親和的でありたいととうぜんにおもう。作為の全面化がきらわれる符牒なのはいうまでもなく、みずからなす詩篇内にも無意識や自己放牧やだらしなさによる「作為のほつれ」を置く。礼服を着ている詩であっても、一瞬の部分が菰のようにみえてしまうこと。しかもみずからそんな事態を誘導していること。これはいったいなんなのだろう。前回書いたことと離反するが、詩作は「編集」意識のみではまっとうされない。減圧の本質は編集的ではなく他力的なためだ。
 
たぶん「偶然」の部分兆候が、個人的な詩篇をこの世につないでいる緩衝力になっている。詩篇の輪郭、「詩の顔」はそこからほどける。むろん「偶然」だけを志向するような詩作は滑稽なだけだ(結果的にそれは「手癖」の展覧になるだろう)。「偶然」が生じたのは、この世からの介入があったからだが、「こつじき」の眼を装填すれば、この世はやわらかくて、秩序立ってはいない。そうしたこの世の属性によってこそ偶然が詩にも反映されるのだ。たとえば松岡政則や清水あすかの「文体」を確乎たるものとしてみず、そこに偶有の風をふかせてながめるよろこびをかんがえてみよう。
 
あるいは赦し。ふかい情動はけっきょく悔恨へゆきつく。それを収めるのが赦しだが、気づかれるように、他者にたいする終点をもつまえに、あるいはそれが「大悲」となるまえに、赦しは予行段階として自分自身を対象化するものだ。自身を甘やかすのではなく、論理でつくられようとしているなにかの計画性の流産を笑うこと。それは拡散と調和がひとしいとする達観まで喚起する。そうしてこの世が遊牧形態となり、あたらしい草原をもとめひとはそこを真に移動できるようになる。そのような予見にひらかれている詩篇内の「偶然」を、詩作者じしん摘み取ってはならない。むろんそれがない、「意識」に目詰まりした詩篇も数多いのだが。
 
「部分」にあらわれた失敗・破損・乱調・不調和・逸脱・身体・菰を、詩づくりの名手は、いわば恩寵としてのこす。くりかえすが、ひとはみずからを計画しきれない。この事実を名手は親和性に置き換える。同時に、詩篇のしるす奇想が、信念によらず、日常にあらわれた破損のばあいがある。このときは自身の不調和が世界の不調和と共鳴していて、なおかつそこに深刻感がないということが、調和的な文体で書かれるべきなのだ。文体が調和的であれば、主題上の破損はこれまた「部分」の座に落ち着く。しかもその部分性はけっして全体に向けて加算できない。だからこそそこにある生の軌跡が具体性と捉えられることになる。佐々木安美や近藤久也の流儀だ。あるいは金井雄二、さらには八木幹夫まで同根かもしれない。いずれも一方では無時間のただよう無場所に身を置くことをこのむ釣り人なのが示唆的だ。
 
結語としていえば、「顕密」ある世の中の事象で、具体性として「顕」在化されたものが、逆に隠「密」を形成することになる。隠したものが隠密を形成するのではない。しかも顕在化は顕在化であるかぎりけっして韜晦とはならない。投企ある詩は作為過剰の詩とはちがうのだ。そうしてこの世はリズム化し、明滅する。よくかんがえると、顕密とはじっさいは精神と分離できない身体にすぎないだろう。
 
 

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2017年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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