雑感2月24日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感2月24日

 
 
詩はなおせない、そうおもうことがある。一回性によってなった詩篇にたいしてだ。だめなら(そう自分か他人が判断すれば)それは捨てるしかないし、詩篇の出来に拘泥して、事後的な推敲をかさねることもない。
 
詩篇はどう書かれるか。たとえば一行目が「舞い降りてくる」として、そのあとはその舞い降りの以後を「展開」し、しかるべきながさをのこしてただ終わらせるしかない。一行一行が「おわりの準備」になる。推敲はこの過程でのみ内在する。自分の信頼できない身体的発語=手癖を矯めながら、その呼吸に遅延をくみこんでおずおずと連辞を形成してゆく。この軌跡こそがつねに、結果的に、詩としてよまれるだけだ。むろん途中で失敗し、完成を見送るばあいもある。
 
偶然を必然にとけこませる。あるいは逆に、必然を偶然にとけこませる。詩を書く手許で起こっているのはおよそそのようなことだろうが、偶然と必然は自覚面では畢竟、乖離している。これを宥和させ、飽和させるのが、まさにことばだ。ことばのいわばこの自助性によって、詩篇はあるところで展開を「満ち足り」、みずからの土台にあった離反を縫合させるように、おわりをしるす。だからほとんどの詩篇では、はじまりとおわりがやはり面目となる。途中の1フレーズに傍線を引き感銘するのは初学的な振舞だろう。
 
もちろんいまのべたことは、「よりみじかい」詩篇に適用される。ながい詩篇では、推敲によってひとつの聯をまるまる割愛し、目覚ましい「経絡」が詩篇内に生ずることさえある。これからわかる――理路とはたんなる意味上の整合性ではない。連辞そのものの分裂的な連接力は、意味が壊れかけ、なおかつ意味が残存している「低密度」部分にこそわたされるのだ。その低密度地帯が電荷をおびて、驚愕が生ずる。詩が集約として意識されるのはこの局面でしかない。
 
日本的ライト・ヴァースや変型ライト・ヴァースがジャンルとしてすぐれているのは、集約が拡散とやわらかく調和しているためだ。それは了解性がたかく、読者の「日常」から作者の「日常」が類推され、共感をみちびきやすいが、たとえ「詩の顔」がそうであっても「詩のからだ」の本質はそこにはない。低密度が詩的に電荷している構造がさらけだされている決断力のほうに実際はうごかされる。ライト・ヴァースはそうみえないが、主題、意味展開、了解性以上に、組成にその価値がある。このときたとえば文学的な散文詩とは「単位」がちがう点に注意が向けられなければならないが、この点はのち「二物」を例に説明しよう。
 
はなしをもどすと、マラルメ的な推敲概念は(それじたい厳格なものだ)、不可能の「地」にちりばめられる真実の探索だろうが、何度も一回性が更新されてゆく彼の詩は、点的な集合組織としてかんがえられていることになる。細部は明滅し、変更可能性を訴える。そこにロマン派的な自己探求意識がからまっているのだ。ミシェル・ドゥギーが『ピエタ ボードレール』でマラルメからボードレールへの回帰を提唱したのは、「生」に原資をもつボードレール的な自己流露性が、可読的かつ自立的であり、同時にインフレをもたらさないためではなかったか。「そのまま」ではないマラルメと、「そのまま」だったボードレール。そのマラルメに無為の烙印をおすのが現代なのだ。
 
詩作のアポリアは、自分のなした詩篇の傑作ぶりを自分では立証できないことにまずある。自己立証の不可能がもっともミニマルな様相で出来しているのが詩作営為で、それは確たる解釈格子を読者がもたず、作者自身のそれも自己信奉的、自己閉塞的だからだ。益体もないこんな自意識の葛藤を「おおかた」は回避するし、それは「よまれれば」かならず「不気味なもの」の圏域をつくる。忘れていたものの回帰。詩作者はみずからの詩論と批評意識が成熟すればするほど、深刻な葛藤をかかえる。それでも音韻をはじめとしたことばの自助力に引き寄せられ、詩作をくりかえしてしまうのだ。じつはマラルメにはこの機微の反復確認がない。
 
自己点検は詩作時間のながれのなかに組まれる。偏向していない用語(日本語のばあいは格助詞がとりわけ重要になる)により、世界がおだやかに開口してなければならないとするのが批評意識だ。まよいも生ずる。必然(=同)が偶然(=異)を圧殺していないか。SVCを基本とした構文に安直な解決がないか。認識が借り物ではないか。ことばの解析、選好そのものが詩の内容になって、当初あったはずのモチベーション――「体験の一回性」が疎外=阻害されていないか。不明のままでいる勇気が欠落していないか。
 
一回性が一回性としてのみやわらかく成立する場が詩篇で、このときこそことばが面倒きわまりない自意識を救抜する。こうした認証がすこしでもないと、詩作(くわえてその発表)は苦痛でしかないだろう。
 
一回性の最小単位は「2」だ。ふたつがあることをかんがえなければ、詩作は成立しない。それは多数を志向するまえにかならずある問題だし、一語と一語の隣接が、衝撃と照応と相殺、それらのいずれをもたらすのかが推敲的詩作時間の検証要素となる。ひとつの語にべつの語をぶつけ、衝撃をたのしんでいた詩作は、いずれは照応へと、さらには相殺へと、創作細部の感興を移す。
 
「二物衝撃」は俳句の詩法上の嘘だ。まず前提をしるすと――みじかすぎる俳句に音韻があるかどうかは微妙だ。あるとすれば定型そのものの音韻でしかないという見解もあるだろう。いずれにせよ、それは終止形態をもたず、ずんべらぼうに立つだけで、「歌」ではない。俳句はその一回性が記憶される。それは和歌の暗誦誘惑とびみょうにちがう。
 
さて俳句は「切れ」により構文性を内破させながら片言のまま対置をおこなう。そこに感興が生ずれば二物の衝撃に効果があったのだとまずはかんがえられるのだろうが、「二物照応」、さらには「二物相殺」により、音韻性のない土台に擬制的な音韻(これは意味論的なものだ)が生じ、俳句の非容積が容積化したとしたほうがよい。各音が流麗性をもって溶け合う音韻が、事物レベルでおこなわれる、それが名句の条件だと。ライト・ヴァース的なものの傑作は「説明過多」からこの意味での「俳句単位の集積」へと、かならず移行する。一回性を身体にもっているためだというしかない。
 
「2」を詩法にもっている俳句が、「2」そのものを主題にするときはさすがに動揺が走る。芭蕉を引く。
 
 命二つの中に生きたる桜哉
 
服部土芳との、満開の桜の下での再会を、芭蕉がことほいだ一句で、「命二つ」は芭蕉、土芳それぞれの身体の換喩だ。となると桜も生き生きとふたりの再会を内面化していることになる。ところが事情をしらず一句にむかったとき、桜だけが現前し、その桜に「命二つ」が貫流していると錯視される。ぎょっとする。なぜこんな「見立て」なのか。「二つ」を「一」に融解するのが「見立て」なら、「2」が残存している見立ては論理的に変ではないか。それで「2」の本質、生死や光陰や雌雄などがみちびかれ、桜の実在性がゆらぐことになる。ゆらぎが生きている。伝記的註釈はうごかないが、句自体はもともと同定不能なのだ。
 
ところがこれこそが、一回性が本質的にもつ細部なのだった。一回性はみずからに遅延を組み込んで自己軌跡化するとき、細部の照応を相殺に変えて、同定不能性をちりばめるのだ。これを「減喩」としてもいい。ならば原石鼎のつぎの一句はどうか。
 
 秋風や模様のちがふ皿二つ
 
わたし個人のイメージでは、床の間に飾られた藍の装飾模様の大皿がこちらを向いてまずみえる。その幅を秋風がわたる。ちがうものをわたるおなじもの。それで同に異がきざまれてゆく。これを秋風にみたのが手柄だ。ところがこの一句については、中西夏之を追悼した四ツ谷龍の衝撃的な文章があった。「現代詩手帖」2月号。
 
《中西は熟視したのち、句を指さして「この皿は、一つだ」と断言した。これには驚かされた。「模様のちがふ」と書かれているけれども、どこがどう違うのかはこの句には表現されていない。「模様のちがふ」という概念だけがあって、具体的な「ちがふ模様」は書かれていない。だから模様はイメージとしては固定していないのであり、二枚の皿は互換的なものだ――というようなところまでは私も考えていたのである。このシンメトリカルな句を中西がどう読むのかは興味があって、意見を求めた。ところがこちらの想定をさらに超えるように「この皿は、一つだ」と構図の本質を喝破した。何という鋭利な指摘。》
 
この中西の「喝破」はさきの文脈に接続できる。二物衝撃を奪われた皿の「二つ」は二物照応を一瞬経たのち二物相殺となり、「一」の痕跡だけをのこしたのだと。そうなったのは「模様のちがふ」という一種雑駁な措辞が、その一回性のみに下支えを受けて、措辞ではなく意味そのものを音韻化したためだ。ライト・ヴァース的なものにあるすぐれた細部とはこの「模様のちがふ」にあるような減喩だった。「模様のちがふ」は動くようで動かない。一回性のもたらす推敲不能性もここにある。
 
 

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2017年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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