雑感2月27日
なぜ前提はそのままに包含なのだろうか。たとえば「不謹慎を笑う。その笑いも不謹慎だ」という二文がかんたんに箴言として成立してしまうのなら、おもわずなされた論理の領域突破というか界面更新に、じっさいことばはあおざめるのではないだろうか。これは思考操作であって詩ではない。ところが詩についてもおそろしい逸脱がおなじような二文で成立してしまう。「詩に感銘する。その感銘も詩だ」がそれだった。こうした同一性の出現には、内部的な隔絶を画策しなければならないだろう。
そのみずうみのうつくしさは詩にひとしい、という言い方には、ことばでしかつくられない詩にたいする誤解や欺瞞が侵入している。夕刻の寂寥が濃くなり、みずうみの水面が刻々、ねむたさにかたむきだしている。たとえばその報告をことばでなそうとするときにこそ詩作が煩悶するのなら、なにかが詩だという雑駁な大づかみは、言った気にさせているだけの、真実味をもたない疑似判定にすぎない。
「ひといきにつかむこと」でなく「つぎつぎにつまむこと(つまみかえすこと)」の優位がないがしろにされてならないだろう。「ひといきにつかむこと」は想像にかかわり、「つぎつぎにつまむこと」は想起にかかわる。くわえて水面はみずを掬うてのひらではなく、つまもうとして失敗をくりかえすゆびをもとめているはずなのだ。むろんゆびが馴染むのは「少量」の領域にたいしてのみだ。それでも水面はめくりあげられない。
時間の時間化、空間の空間化がひつようだし、それらこそが創作物に光沢をみちびく。レヴィナス『存在の彼方へ』から引こう。《時間は存在することであり、存在することという顕出である。時間の時間化においては、瞬間と瞬間それ自体の位相差によって光が生じるのだが、瞬間と瞬間それ自体の位相差、それが時間の流れ、すなわち自己同一的なものにおける差異にほかならない》(合田正人訳、講談社学芸文庫、36頁)。
発語のやりきれなさは、それがことばとして生じた「瞬間」に、「現下」性をおびてしまうはずかしさにあるのではないか。この想起が追想であっても事態はかわらない。ましてや想像の恣意性を刻印されている発語の刻々は、煎じ詰めれば現=在への冒涜となってしまう。だれかのみた夢がかたられても真面目には受け入れられないように(なぜならそれがどこまで本当かをあかしする座標が論理的に成立しないためだ)、割り込んでくるだれかの想像についても主体化や客体化ができない。
かたられているものの「現下」性には、いまだ「つまむゆび」が関係していない。かんがえてみよう。ありうべき現下は、そのあらわれをつままれて、各瞬間同士の「位相差」が「現下」以外によびだされ、さらにその位相差が光をながす媒質になる、そんな不可能をみずからの「なか」にもっているはずなのだ。そうして時間の時間性が自他間を反射する。このときにこそ「詩に感銘する。その感銘も詩だ」の同一性がただしく差異体験としてとらえかえされることになる。
想起が連続しているうちはまだ詩が起こっていない。想起とは想起じたいの孤絶を志向するものだからだ。想起が連続相にあるものは、実際は小説的「想像」によっている。あるいは想起のふたつがひかりを投げ合うのは俳句的「切断」の結果であるべきなのに、詩ではそれが多く冷笑的な箴言性におとしめられている。想起はとりあえず接合面をもたないままにながれだすが、そこに身体性=「つまむゆび」を導入することで各瞬間の位相差があらわれだし、ひかりのながれる詩が形成の過程にはいるのだ。その意味ではいつでも身体がひつようだった。なにかがきえ、なにかがのこる。
すべて想像に負っているようにみえながら、まったくそうではない、という詩があるとするなら、そこでは現下から「現下」性をうばう、どんな想起が、自己隔絶のための運動をくりひろげているかが確認されなければならない。詩にあらわれているこの自己隔絶の度量が、その詩を立たせている詩観のきびしさとして計測されることにもなるだろう。
確認されるべき事項はいくつかある。詩篇が無媒介に開始され、その説得力ある終わり方に、「読了」にあたえられるべき残酷さもふくまれていること。意味の理路がイメージの図示をよびこまない(カフカ)。空間そのものではなく、空間の空間化が詩の眼目になっていて、それをきわめてゆくと相即的に時間の時間化も付帯してしまう。これはもしかすると減退にあたいすることがらだが、それをよろこぶ倒錯と、詩作が無関係ではない。構文についてはそれを微視すると、つながっているのかつながっていないのかが判別不能になる(ふたたびカフカ)。
生起に生じている変貌をことばが報告するときには、生起の刻々を「つまむゆび」が介在している。連続相をうたがってほしいというのがあらゆる詩篇の命題で、その兆候はたとえば自由間接話法、その使用にも転位する。詩に人物が登場している気配があるとして(それは「誰か」とよばれている)、けれどもそれが人称になってゆく安定性へ着地しない。いつでも人物は新規性のまま残存しつづける。これらはつまむゆびが連続性を破損し、瞬間の切片だけがのこされているためだ。ところが用語が簡潔だと、連続性の破損が、円滑性という逆の物質感をつくりあげてしまう。これが光沢となる。以上述べたことは(読みなおしてほしい)、「かわいさ」にもすべてつながっている。
だんだん語ろうとしている詩篇が具体化してくる。「糸状藻」という現存するのかしないのかわからない、湖中を起源にもつ、毬藻にはなりえない植物性があって、それを定位すれば詩的には充分なのに、その想起のなかになぜ「たまご」「子どもたち」を主題とした「分割的な」再想起が非連続的に後続するのか。原理的な問題にかかわるだろう。時間の時間化、あるいは空間の空間化は、それらの対象性を「分割」しようとして、その分割じたいが身体的な表情をおびてしまう不如意を駆逐できない。だから書かれたすべては、(創意そのものを)「誰かさんから聞かれたら困る」困惑をにじませることにもなるのだ。
(そういえばきのう、入試採点をしていて、漢字の書き取り問題で「きれつ」にかかわる目覚ましい誤答があった。「割裂」と書かれていたのだった。あたかも割礼と陰裂をデリダ的に合成しながら、それをさらに「カツレツ」として美味化させたような新しい語彙。この語彙こそが「誰かさんから聞かれたら困る」ものではないだろうか。とすると、「糸状藻」もこの「割裂」とおなじ系列の、「困る」語彙かもしれない。そうして坂多瑩子の詩では世界が恥かしさのやさしい間歇として再認されてゆく。)
以上のような「前提」であれば、無媒介な「包含」なしに、坂多瑩子のすばらしい詩、「糸状藻」を最後に転記できるだろう。どこにも書かれていない「つまむゆび」が詩篇の身体に瞬間同士の位相差をつくりあげ、それがひかりや模様や表情の根拠となっている。大意や全体(的連続)を志向する想像の詩とは成り立ちがちがうのだ。詩集『ジャム煮えよ』から――
【糸状藻】
坂多瑩子
綿菓子の要領で
糸状藻をくるくるまわすと
そのさきに
しっぽみたいに
誰かが
ぼおっと暗い
暗いまま誰かさんがやってきて
きのうはいい天気でしたね
話しかけられると
月夜にあかるい水槽がひとつ
こんな夜には
糸状藻はつぎつぎと成長して
森のようになって
ひびの入ったたまごをいっぱい産む
もうすぐたまごが割れますよ
そういわれて
あたしは待ってるけど
たまご抱えた子どもたちが出たり入ったり
あっそれ
あたしのなんていえなくて
でも
待っている
ひびが少しずつひろがっていく音が聴こえているあいだは
で考えている
糸状藻ってなにって
誰かさんから聞かれたら困るから