ロウ・イエ、ブラインド・マッサージ
【ロウ・イエ監督『ブラインド・マッサージ』】
全盲者の経験している世界は健常者の想像を絶している。デリダ『盲者の記憶』にもあるが、彼らがどんな夢を見るのかさえ視覚偏重の価値観では記述不能なのだ。デリダはほかの何かの本では自己触覚が自己身体を定位すると示唆していた。「瞼を閉じ合わす」「唇を閉じ合わす」「膝を閉じ合わす」「手で自己身体に触れる」――それらの再帰的触覚、その内部性が身体をただしく有限化するのだと。健常者にはこれが「愛」の基礎に映る。このことは、対象への視線を愛撫的にうごかす「触覚的視覚」を拡大してゆけば類推が可能だろう。本質的にさわれないものにふれる、とはそういうことだ。
ジャ・ジャンクーと中国第六世代監督の双璧をなすロウ・イエの映画『ブラインド・マッサージ』(畢飛宇のベストセラー小説『推拿』が原作、白水社から刊行されている)が、寓意的な着眼なのかどうかはわからない。南京のマッサージ院「沙宗琪按摩院」が主舞台。視覚上は健常の賄い婦がひとり、あとで判明するが全盲への過程を進んでいる金嫣という女性マッサージ師がいるほかは、すべて全盲のマッサージ師により労働と運営がなされている按摩院がはたして現実的な立脚なのかどうかはわからない。ロウ・イエの作品ではたえず物語をしるしづける俳優身体の流浪=漂泊性がすぐれて主題化されている。自己の視覚的定位がならない盲者が蝟集する按摩院ではおおむねの「顔」は漂泊性を超えて歪形化されていて、それが漂泊の果ての「吹き溜まり」を形成しているとは看取できる。
ちなみに中国の古都・南京はロウ・イエの『スプリング・フィーバー』では男色者が享楽の生を謳歌する現代的な魔都だった。グランドステージをもつゲイバーの華美な虚飾に、カラオケボックスの寂寥や雨が同在していた。全盲者の感覚をえがく『ブラインド・マッサージ』では街の詳細の描写は、性風俗店と飲食店などを除いてはほぼ割愛される(後述する一場面を除く)。限定的に生じている南京の街の様相は、それでも『スプリング・フィーバー』よりも旧い感触がある。
視覚性と触覚性が混淆すると起こるのは、実際は視覚上の非判明性が触覚的な動態をつくりだすことだろう。映画の冒頭から、レンズに分厚くワックスを塗ったのだろうか、対象性の判明しない何かが、脱焦点化もふくめ揺れる手持ちカメラで捉えられる。曖昧な暖色のなかにシルエットを強調されてぎりぎり判別できるのは、時計やオルゴールの内部のような機械性だったか。
そこに中立的な(つまり人物によらない)ナレーションが加わってゆく。物語の中心人物・小馬が幼少期に母親と交通事故に遭い、母親と自らの視力を失ったことが小説的文体(原作からの移入だろう)で語られる。しかも視力喪失が脳医学的には原因不明だという示唆がのちの伏線となる。小馬のちいさな伝記。結局、医者に匙を投げられ、小馬は頸動脈を切る自殺を図り(未遂)、のち立ち直って、マッサージ技術を習得、沙宗琪按摩院に勤務していると。
レヴィナスによれば、愛撫とは他人=隣人=対象の限定不能性そのものを撫でることにほかならない。対象は愛撫により峻烈に拡散してゆき、その触覚は視覚とはべつの働きをする。ロウ・イエはたぶん作品にふたつの描写禁則を設けている。ひとつは来客へのマッサージ施術の詳細をえがかないことだ。もうひとつは盲人杖が足場の継続的確認のため地面や床を叩く詳細をフレーム外に置いてしまうこと。そうして触覚はまず音の拡散をしるす聴覚にのみ転位されてゆく。
なぜそうするのかといえば、マッサージ師どうしの「他人と他人」の出会いがしらの衝突を「運命法則」にするためだ。作中、クルマと人が衝突すれば事故だが、人と人が衝突すれば愛だ、という言明がある。そのとおりに小馬はぶつかった女性マッサージ師への性的欲望をつぎつぎ反復し、のちに説明する新人の美人マッサージ師・都紅も、ぐうぜん衝突した相手=小馬への執着に殉じることになる。いっぽう小馬がおこなう、欲望対象の乳房を中心とした愛撫はいつも十全ではない。
視覚喪失者の内観と環界は「空間的には」整序的ではない。それが物語の多中心構造、逸話同士の相互溶解によってしめされる。作品は要約が容易ではない。按摩院は沙復明、張宗琪、ふたりの院長により運営されている。そこに沙院長の旧友でベテランマッサージ師の王先生が、恋人の小孔とともに深センから辿り着く。作品の性愛描写をおもに引きうけるのはこの王先生と小孔との交接だが、ロウ・イエのこれまでの作品に較べ描写は抑制されている。小馬の多触手めいた欲望の拡散は、相手が性風俗店のマンに定着するまで彷徨をくりかえすのみで、関係定位がおこなわれない(欲望の狂奔に悩む小馬は先輩の導きで性風俗店に筆おろしにゆき、そこで風俗嬢のマンと相思相愛となった)。
作中の逸話は脱定位的なブラウン運動をくりかえす。たとえば賄い婦が従業員の弁当に入れる肉の数で依怙贔屓をしていると判明する詳細がある。女性マッサージ師のひとりが指でつまんで肉の数を算えあげる。賄い婦は仕事を辞めると深夜に泣いて大騒ぎする。ところがこのエピソードは物語的には着地をみず、数の算えが触覚でなされる侘しさだけを残存させる。
作中、中心人物になるのは、小馬のほか、まずは沙院長だった。ゆがみのまま固められた表情でつい見逃しそうになるが、演じているのは『スプリング・フィーバー』『二重生活』のチン・ハオだ(その意味でいうと、小馬に扮しているホアン・シュエンもアン・ホイ、チャン・イーモウ、チェン・カイコー作品への出演をつづける若手人気俳優で、俳優たちの中心化は芸歴と声望によっている――ところが俳優たちは表情のゆがみにより、ロウ・イエの俳優起用法則=顔と身体の漂泊性を体現することになる)。
沙院長は按摩院の経営で社会的地位は盤石なのに、見合いでは相手にされない。それで「美人」と評判の新人マッサージ師・都紅に執着することになる。ここで映画全体に最初の結節点ができる。演ずるのはこれも多彩な映画出演歴をもつ、ややトウのたったメイ・ティン。疲弊と素人性と抒情性と漂泊性と生々しさが綯い交ぜになったその容色は、これまでのロウ・イエ・ヒロインの系譜をみごとに継いでいる。ロウ・イエは女優の「顔」の現世的定着のために通常の女優演技を否定する。
沙院長は都紅の「美人」という評判に欲情する。それで言い寄るが都紅は相手にしない。自らが衝突した相手=小馬への一種の貞節に殉じているのだ。むろん全盲者の世界にあって、視覚的なうつくしさなどまるで意味をなさず、主観に訴えかけることもできない。ところが沙は都紅の顔を愛撫して、そこに美の痕跡を探ろうとする。「「顔」が現前性を超えて痕跡になる」「愛撫は対象の限定不能性を撫でる」というレヴィナス的主題がここにふたつ生起する。ところが都紅はその振舞を嘲笑する。出口なしの沙院長の欲望、その絶望性がそれで逆照射される。
全盲者の繊細であるべき触覚は、マッサージには奏効するが、欲望には混乱を呼び込むだけという「引きはがし」が生まれる。作品は障碍者にたいする保護精神にはほとんど立脚していない。全盲者の感覚の内部性を熾烈に外部化させる反転のほうに注力がおこなわれるだけだ。結局、いつものロウ・イエ作品どうよう「愛の谺」のようなものが作品そのものの視覚性をむなしく愛撫=摩擦することになる。
触覚は蔑視されるのか。このときに「血」がふくざつな働きをする。触覚の至高点は刃物と皮膚の接触、その切迫性にあり、触覚は血によっていわば高貴化されることになる。幼少期の小馬の頸動脈切断による自殺未遂については前言した(画面には血が噴き上がった)。作中、一瞬伏線化された王先生(『天安門・恋人たち』の主要人物たちのひとりだ)の実弟によるギャンブル放蕩。それはやがてその実弟が恋人とともにヤクザに軟禁され、借金返済がならなければ殺されるドラマへと発展する。
王先生は溜めていた小孔との結婚資金を横倒しして、救済に宛てようとする。タクシーでヤクザの居座る実家に向かう。ところが自分を取り巻く葛藤の理不尽に憤慨し、王先生はヤクザの面前で、恐ろしい気魄で裸の腹への浅い切腹を繰り返す。カネは払わない、自分は死ぬ気だ。血が滴る。やがて刃先が頸動脈におよぶ寸前で、ヤクザが借金の取り立てを断念する。
全盲者たちの身体は、打撃や傷を吸着する。都紅は命綱の手に恢復不能の傷を負った(彼女はそれでも沙院長の庇護により退院後も按摩院に置かれることになるが、自ら点字メッセージを遺し出奔してゆく)。風俗嬢・マンとの希望のない性愛関係を断ち切れない小馬は、柄のわるい客に性的サーヴィスをしている渦中のマンの部屋に乗り込んで、返り討ちをくらいボコボコにされる。ところがこのとき受けた脳への衝撃により、とつぜん視力恢復にいたる。
レンズにほどこされたワックスか何かによる脱自明的な手持ちカメラ運動が復活する。メインテーマ回帰のようだか、冒頭が文脈からいって視力喪失ぎりぎり手前の、世界の薄明性を暗喩していたとすると、今度は視力復活ぎりぎり手前の、世界の薄明性が真逆に暗示されている。マッサージ施術の詳細を描かなかったこの作品において、「みえるもの」を撫でさする触覚的視覚は、その半―判明性をもってこの場面で頂点をきわめる。血だらけで風俗店を出て、蹌踉と南京の街をあるく小馬の視界が、復活を謳歌しつづけるように延々と詳細を替えて連続するのだった。「出口」が兆したようにみえる(もちろんロウ・イエ的希望はいつでも「半分」の状態をキープする)。
いずれにせよこの一連と冒頭の、半―判明的で触覚的な視界のゆれは、それ自体が「ブラインド・マッサージ」的な、感覚の内部性と抵触している。身の毛がよだってくる。ゆれる視界のいくつかに判明不能の小域があり、それが手持ちカメラのうごきにより、ふくざつに内部移動する。片目の失明とリンクさせるようにレンズを叩き割って撮影をおこなった荒木経惟の「右目墓地」シリーズがあたかも動態化されたかのようだ。
その後の小馬の行動が聖人を髣髴させる。彼は世界の真理を告知するためにうごくのだ。按摩院に戻った彼はまず、言い寄りを跳ね返し泣かせていた都紅の顔を見る。彷徨のうちに「美」の概念をまとめていった彼は、都紅へ、きみは美人だと告知する。それは受胎告知に似ている。もちろん対象化できなかった一般的真実を個人へと引きおろし、価値を救済することにつながっていた。ただし彼はその架橋をしただけで、その場を去ってしまう。マンのところに行くのだ。
彼は風俗店にいるマンの顔をみる。たぶん美人だけではない「漂泊の活性」(形容矛盾だが)がその顔にみとめられた。苦界にいる者の特性かもしれない。小馬はたぶん自分の選んだ相手のもつ適性によろこんだのだろうが、その詳細は描写されない。代わりに、以後、小馬とマンの姿は界隈から永遠にきえた、と中立的なナレーションが驚愕をあたえながらはいるだけだ。いずれにせよ、ロウ・イエの話法は透徹している。
小馬の失踪、都紅の出奔。映画は対象化に適した美形の存在をふたつ失って、いよいよ終幕へむかう。勤務体制の立て直しと慰労のため沙院長の音頭でひらかれた飲食店での食事会。沙院長が中座し、トイレに向かう。彼は便器に身を屈めて吐いた。通常の吐瀉物ではなく大量の血液だった。「血」の皮肉な復活。全盲の沙自身は通常の嘔吐だとおもっているが、異変に気づいた周囲が大騒ぎになる。
刃物と皮膚が接触して結果される「血」が全盲者たちの触覚の紋章だと前言した。ところが沙を襲ったことはちがう。刃物のとの接触なしに胃から「自発的に」噴き上げた血は、愛撫とおなじように「それ自体の限定不能性」を表象する。沙は自己再帰的愛撫を流産させ、世界への定位を壊滅させたようにみえる。惨状をあかししたのが吐血の血だった。触覚性の内破が作品の主題だった点がここにあきらかとなる。
作品はそうして終わりに移行する。都紅をふくめ、「その後」が中立的なナレーションで報告される。按摩院は沙の療養にともなって閉鎖、マッサージ師たちは多く生活の糧をもとめ南京を去って行ったと。主要人物たちの最終的な帰趨が列挙されるのは『天安門・恋人たち』のラストとおなじ。ここでも作品のすべてが集合離散のはかなさ、存在の漂泊性に依拠していた点が露呈される。
以前にも書いたが、それが中国人の宿命だった。農村部から海岸部への大規模な人口移動は「盲流」とよばれている。ブラインド・マッサージは人民レベルで大陸の地におこなわれているもので、ロウ・イエはその事実を見据えている。そういえば真実は多数性によっては決して確定できないとしめす格言「群盲、象を撫づ」も中国起源だった。つまり盲人性とは普遍性なのだ。
その後の帰趨報告で除外されている主要人物がひとりいた。小馬だ。作品の画調がかわり、8ミリ映像に似た懐かしい朦朧性をおびる。小馬が経営している按摩院のぼろ看板。その案内する方角にむかい歩いているのが、時間経過ののちの小馬自身だ。ひなびた、場所標識の不在な地方都市。やがて極貧アパートへと視界がいざなわれると、玄関前の通路の洗濯機で洗濯しているマンの懐かしい「漂泊性」の顔が捉えられる。朦朧映像の意味は確定できない。一旦復活した小馬の視力が、ふたたび喪失の過程にはいったことまで指示しているともかんがえるためだ。
このやりとりは無言で、バックには奇妙で繊細なギター弾き語りによるバラードがながれている。配給のアップリンクの資料では名前がわからないが、現在の中国でその特異な才能が人気を博しているシンガーソングライターによるものらしい。一緒に観た中国人留学生たちによるとタイトルは睾丸を表す「他媽(タマ)的」。破礼歌と抒情歌のダブルミーニングなのだろう、樋口裕子による字幕では「媽」を「お母さん」への頓呼法にして歌詞翻訳をおこなっていた。記憶による大意――「お母さん、ぼくは自分の青春をすべて彼女のからだに捧げたのですが、その彼女をもう思い出すことができないのです。お母さん、ぼくはたしかに虹を自分の眼でみたのですが、その色をもう思い出すことができないのです」。
作品は冒頭、タイトル提示部分で、盲人観客のためというように、メインキャスト、メインスタッフを中立的なナレーションが読み上げる異例の措置を講じていた。もちろんそれは救済だが、同時に閉塞でもある。ところがエンディングロールの画柄では作中登場したマッサージ師たちの記念撮影的ショットが視界移動をあたえられて展開される。そこでは実際に盲人としてティパージュされた素人とともに、盲人を演じた俳優たちが眼のあいた健常者として画面定着されている。これは種明かしを超えている。「救済は閉塞でもある」というタイトル提示部分の印象の逆をおこなったのだ。すなわち――「閉塞は救済でもある」と作品は結論を提示した。
――三月七日、ディノスシネマズ札幌にて鑑賞。