近況3月11日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

近況3月11日のページです。

近況3月11日

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が載ります。1月期のTVドラマをあつかいました。串刺しにしたのが、『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』。複数主役ドラマという括りです。
 
じつは、先月は2月11日が第二土曜日で、ぼくはうっかり夕刊がない建国記念日なのを失念して原稿を書いてしまいました。とうぜん没原稿。そのときはまだ放映のつづいていた『お母さん、娘をやめていいですか?』を『東京タラレバ娘』のかわりに組み込んでいました。これも複数主演、具体的には波瑠と斉藤由貴の主演でした。一か月後の原稿では、『お母さん、』を『タラレバ』に差し替え、その他も3、4回放映分までを話題にしていた内容を、7、8回分までに延長しています。
 
それにしても、『お母さん、娘をやめていいですか?』はすごかった。以前、雑誌「ユリイカ」でも母娘の相互依存がどれほどの惨状をもたらしているかをレポートした信田さよ子の著作を中心に、母娘の対構造を考察する特集が組まれ、ぼくも原稿を書いたけど、その信田さよ子を監修に、母と娘の相互依存ドラマを、名手井上由美子がサスペンスを基調に脚本化した。その手さばきが見事だった。
 
娘・波瑠、母・斉藤由貴、その夫・寺脇康文の一家がマンション暮らしから一軒家への引っ越しをのぞんでいる。購入地に新築を進めている現場の監督に、建築会社から派遣されている柳楽優弥。波瑠と柳楽が自然と恋仲になるうち、たんに仲の良いとみられていた斉藤と波瑠が虚偽を隠していたとあかるみになる。母・斉藤は娘が幸福を掴みそうになると容喙し邪魔し、娘を終始、自分の思いどおりの「人形」にすることを、つまり娘の全人格と全人生の支配こそを、欲望していた。ずっとかんがえようとしなかった現実に直面してもがく波瑠、その波瑠のかよわい抵抗にたいし無意識に糊塗をかさねようとする斉藤。母娘間の仲は回を追うごとに「最悪」が「さらに劣悪」になり(斉藤が娘の動向をうかがうストーカーめいてくる)、恐怖化、だれもが母からの娘の悲劇的な独立劇を予想するようになる…
 
ふたつの特筆すべき見どころがあった。まずは眼。波瑠の透明で吸い込まれそうになるおおきくきれいな眼にたいし、斉藤由貴もおおきく飛び出したギョロ眼のもちぬし。くわえてどういうのだろう、柳楽優弥が独特の眼をしている。眼じたいは切れ長なのだが、そのアーモンド形が全体に大きく、しかも濃い眉、濃い睫毛が相俟ってのことなのか、両目それぞれに横一筋のつよい光が走っているようにみえる、じつに不思議な印象をあたえるのだ。「眼千両」といえるのは波瑠だけかもしれないが、いずれにせよ物質的なレベルでたんに大きな三俳優の眼が、まさに「物質的に共演」しているのにワクワクした。
 
当代最高の美人女優・波瑠の演技は受け身型で恬淡といわれている。その顔を以前、ぼくは同コラムでたしか以下のように表現した。大きく透明で美しい眼。口許のうごきのおばあちゃんめいたやさしさ。横顔の中心突出性。頭蓋の形状の実存的な重み。不安の表情が刻まれるときは顔全体が魚っぽくなり、意識のたかさがドラマで強調されるときはそれが未来人っぽくなる。顔全体が和風か洋風かは一概にいえない。清潔感だけが印象につよく刻まれる、じつは不定性がつくりあげている顔。オードリー・ヘプバーン以来のショートヘア美人。いずれにせよ、「たんなるお人形さん美人」ではない複数性がつるりと清潔な顔をひそかに分割していて、たぶん波瑠のファンはその分割を女性性としてみている。
 
うつむいただけ、あおむいただけ、瞠目しただけ、瞑目しただけでふくざつな表情変化のニュアンスをつたえることのできる波瑠の顔は、実際は対面する相手の演技を「受け」、反応するだけで、いわばドラマ張力をみたすことができる。受け身こそが能動性というのは、いわばレヴィナス的な「顔」の要件でもあり、その顔は現前の領域から「みているこちら側の」痕跡の領域へと翻訳をくりかえされる。しかもその顔は分割的で、顔じたいの清潔な陰裂をこちらにさしいれる。だから美に直面した以上の動悸を現象させることになる。
 
身体的にはいつもより内股に下肢を自己設計していたとおもわれるが、基本的に波瑠の顔・挙止は一定性の振幅内部に自己を保とうとする。すくなさを微視してほしいという提案じたいが波瑠の存在性なのだ。たいする斉藤由貴は、演技の各瞬間が動物反応的で、振幅がおおきい。本来ならふたりの演技が融即されることはできないが、たったひとつ、これもレヴィナス的な条件=「近さ」がこれを可能にする。
 
最終回、波瑠が自分用に新たに買ったカップが、斉藤由貴のこのみにあわないと悶着があり、結局、感情のきわまった斉藤が平手打ちというかたちで初めて娘・波瑠に「手をかける」。そのとき波瑠が「痛いじゃない!」と条件反射的に初めて平手打ちを返す。こうして、ついに受け身に能動性の陰裂が瞬間的に生じて、そのちいさな悲劇性にぼくは泣きそうになった。斉藤由貴の能動的な演技が波瑠の受け身の演技の聖域に干渉したのではなく、波瑠のそれが、みずからが対の能動性を帯びることで斉藤のそれを「赦した」とおもえたのだった。現れたのは、近さであり、距離であり、点滅性同士の架橋であり、隔時性ではなかったか。いずれにせよ波瑠は演技の、顔のミニマリズムの価値をつたえてくれた。
 
『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』についてはしるす余裕がなくなった。みなカルトドラマで、とりわけ『カルテット』は回を追うごとに感銘がふかくなっている。いずれ機会があればまた書きたい。
 
 

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2017年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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