雑感3月14日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感3月14日

 
 
むかしカッパブックス、多胡輝の『頭の体操』にこんな命題があった。「二者のあいだで食べ物などの好物を、文句の出ないように分けるにはどうしたらいいか」。答はこうだった――「はじめにひとりが、対面する相手にどちらを選ばれても後悔のでないよう対象を綿密・完璧に等分割し、どちらか好きなほうを、のこりひとりが選ぶ」。
 
そう、隔時性をまたいで有利性を相互に付与するというのが命題を解くポイントだったが、思考上の技術的な突破口は、最初の分割実行者が、みずからつくった選択肢の双方を支持できるほど精密な分割ができると想定する点にあった。ひとつの羊羹の切れ端をふたりで分ける実際などをかんがえてみればわかるように、ことはさほど簡単ではなく、この命題の解決法は机上の空論にちかいという反論も出るだろう。
 
ましてや詩集の収録候補詩篇を、編集者が収録数を減らして再構成するといった現実的条件では、作者がどの詩篇を選ばれて、どう並べられてもいいと当初は達観していても、すごく落ち着かない心情におちいるだろうことは眼にみえている。それでこうおもうはずだ。「約束は約束だ」。あとは運命の問題へと移行してゆく。最初に案を提出した者は「よりすくないほう」を甘んじて受けざるをえない。
 
ネット発表の詩篇をオンデマンド出版などで著者が自発的に詩集化する風潮が年を追うごとによりつよくなって、詩集空間を宰領する編集者の不在が危険だ(悪書蔓延の源泉だ)とは良くいわれるようになった。「詩集は作者単独でつくられてはならない」。とりわけ夢見がちな詩作者が自己領域にたいして盲目になっているためだ。
 
編集者不在が広範にみとめられるようになると、経済的な問題を度外視すれば、たぶん詩集刊行頻度がたかまる傾向が裸出する。詩作者はオンデマンド出版や自費出版であっても詩集刊行の直前には昂揚しているから、勢いで自分のかんがえたままの詩集が出てしまう。それで刊行後冷静に再読し、構成や詩集刊行頻度の失敗に気づき、臍を噛むことにもなる。自身の冷却装置としても「正しく物のいえる」編集者がひつようだったと。とつぜん謙虚さに立ち返る反省が起きてしまうわけだ。
 
詩作はもともと奇妙な均衡に乗ったフィクションめいたところがある。たとえばひとつの詩篇を最も精密に、最もくりかえし読んでいるのは誰か、と設問を自分に投げかけてみればいい。とうぜん答は自分自身となる。だから詩作者たちの不満も、「自分が自己作品を分析しているような精度では他人が読んでくれない」という点に尽きてしまう。もちろんこの不満が自己閉塞的な点に気づかなければ、自意識地獄が延々とつづくようになるだろう。
 
詩作者が自作に「気づく」もろもろは、たしかに特定的な深度のなかにある。それらはたんなる出来不出来の判断よりももっと微妙だ。わたしのばあいならこうだ。「当初思い描いたモチベーションにたいし、自然な流露ができ、その一方で自然なズレも呼び込むことができた」「近さから遠さへの架橋がうまくいった」「他人の既存詩篇からのひそかな参照が、それが露顕することなく独自性に達した」「修辞が達成意識に落ちるところをうまく回避し、ある種の消極性へとシフト替えした結果、当該箇所があたかも他人が書いたような新鮮味を帯びた」「その意味では受け身的自走をうまく導入できた」「これまで自分の既存詩篇に使用してこなかった語彙が巧まずして出てきた」「進行中の詩論を創作にうまく溶け込ませた」「現実の存在をあたたかく救抜できた」などなど。
 
もちろん他人は、研究するのでもなければ、ひとりの詩作者の使用語彙の歴史にさえも頓着などしない。大雑把に、たとえば詩風や文体や長さが変わったくらいのことを「印象」するだけだ。とりわけ他人と詩作者自身の齟齬は、難読性にかかわる判断に乖離が出る点だろう。詩作者は自分の作品をモチベーションの段階から自己吟味し、推敲過程の逐一を手中に収めているのだから、自分の作品のこまかい機微までを十全に理解している(のが理想だ)。
 
当事者性のない他人ではそうはいかない。この「そうはいかない」点を納得し、無前提の者がいま書いているこの詩篇を読んだらどんな反応が出るだろうか、それを場合分けまでして緻密に追い詰めながら、詩篇を完成させてゆくのが、他人に向けられた詩作の良心、ということにはなる。むろん「わかりやすさ」だけの観点から、自分の詩脈を枉げるのはおかしいとかんがえる均衡意識も一方で要る。
 
そういったもろもろを視野に入れてゆくと、自意識を他人の読みに変型応用することがなんという苦行か、詩作じたいのよろこびからいかに離れているか、それらを詩作者は絶望的に捉えるようになる。盲点はたしかにある。ただしその盲点をもっと単純な領域に限定できないか。そうでなければつぶれてしまう。
 
詩作者が最も自己判断できないものとして、頁数、収録詩篇数、行数、字数など「量」に、問題をまず局限してみればいい。詩篇の巧拙ではなく詩集全体の「量」の吟味ならば、じつは詩作者自身と読者の判断はともに一回性のイーヴンだとフィクショナルにとりあえずかんがえてみること。それならば「量」の吟味を自分自身ではなく編集者などの他人の判断にゆだねればいいのではないか、とべつの方向に考えがうごきだすのだ。
 
一詩篇をつくることと、一詩集を編集することにはおおきな径庭がある。このことに気づいている才能をたとえば「詩集巧者」とよんでみよう。巧者の詩集には、いろいろな外観が共通している。装丁と内容が「つきすぎ」ではない状態で相互に補助をおこなっている。詩集空間の安定性の下支えをうけて、個々の詩篇の位置がきれいに決まって、全体が粒だった印象をのこす。ヴァリエーションもある。冒頭詩篇と最終詩篇のあざやかさ。流れが巧まざるそっけなさのなかで実際は綿密に吟味されている。章扉や白紙挿入が見事。字の大きさなど詩篇の組みに愛着がうまれる。とりわけ、文体と主題が精密に考慮されることで、詩集全体の「量感」がその詩集の幅でしかうごかない。
 
この詩集巧者のもろもろの美点のなかでなにがいちばん巧みなのか。やはり「量」の自己測定だという気がする。けれども文字量の多い詩集にも少ない詩集にも、いわゆる詩史的傑作があるから、ことは一筋縄ではゆかない(そういう詩集が、自分ひとりで出せるのがいわば「天才」なのだろう)。
 
たとえば井坂洋子の第一詩集『朝礼』はみごとな「すくなさの空間」だった。書いたこと=詩がそのまま詩行になっている詩風と相まって、そのすくなさが清潔をつたえてきた。逆に石原吉郎の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』はその圧倒的な量感が主題選定の重みからして「正しかった」。以後の石原の詩集はすべて量感においては過っている。すくなすぎたのだ。ほかにもいろいろな例を出せるが、ともあれ「量」がひとつの批評、主張、表現内容、生き方になっているものが、その量が多/少のどちらに振れようとも、正しく編集された詩集ということになるだろう(そういえば往年の「正しかった」ころのH氏賞の授与は、そういう詩集にたいしてのみなされていた気がする)。
 
たぶんいまわたしの警戒しなければならないのは、「量が多すぎることで」「台無しになってしまう」詩集だろう。というわけで、詩集原稿を信頼する編集者にあずけ、再構成案を待っているところなのだった。最初の『頭の体操』の話題にもどると、わたしは「よりすくないほう」にむかう運命を甘受しようとしている。これが諦念ではなく論理的な問題だということをしるしたかった。
 
 

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2017年03月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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