キングコング・髑髏島の巨神 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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キングコング・髑髏島の巨神

 
 
【キングコング・髑髏島の巨神】
 
1974年とはアメリカにとってなんだったのか。個人的には大好きなロックアーティストたちが次々に「足りないアルバム」をつくり、ロック音楽の衰退傾斜を決定づけた年だったが、むろん前年にニクソンはベトナム撤兵をうちだし、最強アメリカの神話が崩れ出したメルクマールだった。アメリカ映画の多くも説話論的経済性をうしなって長くなり、ストーリーのうえでも配役(スターシステム)のうえでも脱中心化、荒れ錆びた雑駁の魅力を湛えるようになる。SF意欲作などまだあたらしい風潮も出ておらず、全体に緩慢化していた印象がある。
 
ジョーダン=ボート・ロバーツ監督『キングコング・髑髏島の巨神』の基軸は1974年だ。ベトナムからの米兵の撤退作業が依然つづくなか、ランドサットで南洋に確認された未知の島「髑髏島」が舞台となる。島の生物・地質等を確認にゆく科学調査隊をベトナム戦争の従軍兵士たちが護衛輸送するという設定だ。そこに英国SAS出身の精鋭が傭兵として、従軍でありながら反戦写真を撮っていた意欲的な女性カメラマンがくわわってゆくが、「人材集結」をストーリーに乗せる方法は『七人の侍』の序盤に似ている。
 
こう書いて、この映画がさまざまな映画の既存の枠組、既存イメージをマニアックにパッチワークしたものだと即座にわかる。これまで嵐に包まれて実在を確認できなかった髑髏島は、気味悪い巨大生物群が跋扈しているのだが、これはむろん『SF巨大生物の島』からの設定借用。そこに『キングコング』シリーズが合体するというのが大筋だ。それだけではない、ヘリコプター隊が島に辿りつくまで嵐に巻き込まれるのは、『天空の城ラピュタ』だし、やがて雲が切れて眼下にひらける光景は宮崎駿のクライマックスの廃墟のようだし(「水」がある)、キングコングの家族たちが白骨化している野での巨大爬虫類の対決場面ではその瘴気が「腐海」的だったりする。アメリカ兵たちのやりとりはアルトマン『MASH』などに淵源がある。
 
なによりも、ヘリコプター隊は島に訪れた直後、島に爆弾を落とし、土壌の反響をみて、「地球空洞説」が適用できるかを調査、島の守護神キングコングの怒りを買い、凄惨な反撃を受けるのだが、ナパーム弾の大量使用と、ジャングルの景観が『地獄の黙示録』そのままの引き写しだ。実際に、兵士たちは「ベトナム戦争がまだつづいているようだ」とくるしい感慨をいだく。つまりベトナム戦争が反復しつづける悪夢のような時間強迫が作品の構造を決定づけている。映画は最終的に島からの脱出に向かうが、それは同時に「時間からの脱出」でもあったのだった。『地獄の黙示録』がドアーズ「ジ・エンド」など60年代ロックの名曲を垂れ流したように、『キングコング・髑髏島の巨神』は「74年のロック音楽」を垂れ流しつづけ、74年論であろうとする。それは衰退をはらんだ強行の実相がなにかをとらえることにつながっている。
 
作品の地政学はどうか。ロバート・クローズ監督によるブルース・リー主演『燃えよドラゴン』は前年、73年の公開だった。オリエントには奇怪さとキッチュをすべてつめこめるとしたクローズの精神性を、この『キングコング・髑髏島の巨神』が踏襲している。作品はやがて髑髏島の先住民族(彼らには言語がない――おそらくそれゆえに「現在」観念もない)を描写しだすのだが、東洋的な無表情にアラビア文字のような装飾(刺青)をほどこされたその顔は、台湾高地民族、チベット民族、アフリカ民族などを混淆された総称的「オリエント」と位置付けられるだろう。そう、サイードが『オリエンタリズム』でしるしたイスラム圏以東はすべてオリエントという雑駁な把握を作品は批評的に増幅してみせるのだった。
 
74年が基軸としるしたが、映画には1944年のプロローグがある。やがておなじ島を舞台にしていたと判明するのだが、従属部隊から孤立した太平洋戦争下の米兵と日本兵が大岡昇平小説よろしく一対一で対峙し、どちらもが相手を殺害できる膠着に縛られるのだ(けれどもその帰趨は割愛される)。ベトナム戦争が無限反復される悪夢は、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争がすでに反復された歴史的事実に原資を負っている。このときもうひとつの「時間の光」が映画の奥深くから差し込んでくる。つまり『キングコング』第一作の1933年(このとき「偉大な」アメリカは世界恐慌からたちあがり、ニューディール政策に踏み切っていた)が作品の時間を立体化する奥行きとなっているのだ。
 
奥行きといえば、作品は3D映画だった(ただし3D映画を観ると酩酊と吐き気に陥る連れ合いとの鑑賞だったので、2D版で観た)。アクションが期待される内容だから、3D効果は奥行きからの攻撃性が中心とかんがえられがちだが、3D的な奥行きが水平軸の奥行きだけによらないという是正を進展させている。俳優たちの手許を映すちいさな俯瞰構図にもたぶん3D的立体感が強調されたはずだし、巨大なタカアシガニ(蜘蛛)が米兵を次々捕食する恐怖場面ではジャングルの木立を見上げる視界から、その爪が鉛直方向に猛烈な速度でおりてくるようすがとらえられる(キン・フー『侠女』へのオマージュかもしれない)。仰角構図にも3D的立体感が適用されることで、上下奥行きすべてに馴致できない「奥の潜勢」があるという苛烈な空間意識が実現されていたのだった。
 
作品では「恩讐」「回収」が徹底的に敗北する。護送隊の長パッカード大佐=サミュエル・L・ジャクソンは、島にヘリコプター隊が到着した当初、キングコングによって米兵とヘリコプターが壊滅的な打撃を被った怨念を忘れない。軍事的な判断ともいえる。それが米兵や武器の回収という誤命令を発しつづける要因となる。物語の説明を端折るが、そのときにはキングコングが島の巨大怪物の脅威から先住民を護衛する「神」に配置がえしたことは、1944年のプロローグから生き残っていたマーロウ中尉=ジョン・C・ライリーの証言により判明しているし、バラバラになっていた調査隊と兵士たち全体も合流して、「川をさかのぼる映画」(蓮実重彦)の『地獄の黙示録』にたいし、島の北端を目指すべく、「手当をした残留船」で「川をくだる映画」になろうとしていたのだった。
 
作中の死者は政治的に配慮されている。サミュエル・L・ジャクソンなど米兵たちは、勇猛さと自己犠牲精神を発現したためにすべて死に(むろん犬死の兵士たちも数多い)、髑髏島の危険を秘匿し、ソ連に先駆けるためだけに調査権をかちとった調査隊の長ビル・ランダ=ジョン・グッドマンもその自己中心的な卑劣さを断罪されたのかあえなく死ぬ。生き残るのはリベラルで勇猛な英国傭兵コンラッド=トム・ヒドルストンと、女性カメラマン・ウィーバー=フリー・ラーソン、さらには科学調査隊がらみの「文民」たちだ。あるいはキングコングや非人間的な印象をたたえる先住民族たちが、天空の城ラピュタのロボットたちのように、時局から外れた遠い永遠のなかに「生き残りつづける」。
 
ところで1974年はモンスター映画の空白期だった。だから76年にギラーミンの『キングコング』リメイクが冴えないかたちで再召喚されたのだ。モンスター映画は迫真のサスペンス、宇宙密閉空間、そして爬虫類からの変型形象をともない、『エイリアン』であらたな画期を迎える。『キングコング・髑髏島の巨神』では、その間の空白期に旧来のモンスター=キングコングと、まだ潜勢の状態にある新モンスターたちとが共存しているという過激なパッチワークの様相を選択する。
 
まず神話創造的だったのが、シシ神をおもわせる巨大バッファローだろう。創意的だったのが先にしるした巨大タカアシガニと、巨きな枯れ木にしかみえない巨大ナナフシかもしれない。だがキングコングと対決するモンスターは、やがてすばやい匍匐的前進をおこなう巨大爬虫類に収斂してゆく。哺乳類=猿=ゴリラの巨大化にすぎない、「顔」のあるキングコングはイメージとしては体毛もあり親和的で、やがてはストーリーの進展にしたがい人間化する宿命にある。逆に非人間性にたもたれる「咀嚼不能な脅威」が爬虫類型のモンスターなのだった。
 
蛇の「顔」がどこからどこまでを指すといえるのか、そう疑問を呈したのがレヴィナスだった。「顔」の確定できないものは他者ではない。爬虫類的モンスターは「脱他者」という規定不能性なのだ。しかもその顔は裂ける。上顎と下顎のあいだがおおきく開示されると、口腔とみえたものが女性器の襞をもち、舌との境目がわからず、しかもそれが有歯性の気味悪い複数をかたどることで、身体内壁がめくれあがったという以上に、「顔」部分に脱定位的に女性器の攻撃性を内破させ、表層から一貫性を奪う驚異=脅威をもたらすのだ。この複合性がないとモンスターたりえない。
 
魚類の変型とみなされる『グエムル』の怪物は、脚をもち、反転し、倒立する素早さも怖かったが、こうした口腔の開示性を増幅されていた。酸と粘液の中間にある唾液もおぞましい。『シンゴジラ』のゴジラにも性的に不気味な口腔開示性があったが、それは同時に震災後の日本の停滞のメタファーでもあったから歩行以外の運動性をころされ、最終的には東京駅のうえに廃墟として凍結された。現在批評だった。
 
キングコングは人肉食の恐怖と一瞬連接されるが、基本的にその形象は、いかに眼や口を遠隔操作されようとも、着ぐるみ怪物の延長線上を離れることができない。かつてのキングコングはよじのぼったエンパイアステイトビルの窓から、窃視的な両眼を捉えられる程度の大きさにすぎなかったが、それ自体が高層ビルのおおきさになった『髑髏島の巨神』のキングコングは、それでもそのおおきさを嵌め込みCGによる別縮率の共存として把握されてしまう。キングコング的怪物は「了解」(伝統ハリウッド的了解)に刺繍されるほかない。だからモンスター恐怖の真髄に迫りたい『髑髏島の巨神』では、怪物性の特権化として爬虫類型モンスターを登板させざるをえなくなったともいえる。
 
爬虫類型モンスター映画の系譜はそこで展覧される。キングコングの肉親たちが白骨化している瘴気あふれる荒れ野で、爬虫類モンスターは最初の猛威をふるうが、その殲滅方法に火炎がもちいられ、口腔が炎上する。むろんそこでは英国傭兵と女性カメラマン(このふたりのツーショットは『ロマンシング・ストーン』の主役男女をおもわせる)のハワード・ホークス的連携もあって『グエムル』のクライマックスをおもわせる。他の映画のクライマックスを消化要素として蕩尽するのが、怪物系映画の文法だ。それ自体が怪物なのだ。さらに巨大な爬虫類モンスターとキングコングの肉弾戦的な直接対決が『髑髏島の巨神』では用意されるが、ここでは参照軸はなんと『ゴジラ対キングギドラ』へと逆行する。ベトナム戦争の永遠の反復という悪夢的時間の突破口は「遡行性」であり、そこから33年の初代キングコングの活躍が期待されることになる。
 
最初は怪物的他者として定位されていたキングコングは、「正義」の色彩を帯びさせるドラマ的要請にしたがい、次第にその主観を形成されるようになる。とりわけ大きかったのが英国傭兵と女性カメラマンのハリウッド・カップルの間近に、その「顔」を寄せたときだった。ゴリラの「顔」でしかないキングコングを荘厳化(=列聖)したのは、その神秘感に落涙をもってこたえた女性カメラマンの「顔」だ。そこには「顔」から「顔」への反射があった。
 
キングコングに期待されるのは賛意や勝利の陶酔をしるす「胸への両拳による太鼓打撃」、さらには女のうつくしさに打たれてその裸身を掌に掬うことだろう(そうして33年のキングコングはほぼ裸身のフェイ・レイをいとおしげに掌にのせた)。キングコングの正体は「手」なのだ。ご覧になればわかるが、この手の特権化は、『髑髏島の巨神』では満を持したタイミングでおこなわれる。水中にほうりだされた女性カメラマンを、爬虫類モンスターと死闘をくりひろげる渦中のキングコングが水中から掬うのだが、てのひらでカメラマンをやさしく握ったままのキングコングが拳を握り爬虫類モンスターの口腔に突っ込み、舌を引き抜く(?)などの壊滅的な損傷をあたえる。惜しむらくは、てのひらのやわらかさと、拳のつよさという内外の離反するサスペンスを、弁証法的に解決する詳細が描かれなかった点だろう。宮崎駿ならそれを実現したはずだ。
 
髑髏島ではなぜ生物が巨大化したまま残存しているのか。解答はあまりはっきりしない。地球史的には嵐に囲まれたこの島の酸素含有率が異様にたかかったと予想がつくが、昆虫類、鳥類、爬虫類、それにキングコングが巨大化していても、先住民はそうなっていない。巨大化とは逆叡智だということだろう。ところで先にしるしたように、巨大化した爬虫類モンスターはその口腔開示性により、脱他者化している。この規定不能性が、実は『エイリアン』以降のモンスターの色彩となった。この規定不能性は、たとえば領土と国民があるのかないのか不分明なままにテロリズムをアメーバ増殖させるISといまでは似ている。ISの脅威下では「映画の怪物」は脱他者性=究極の規定不能性をまとうほかなくなった。
 
ところで映画の示唆するところによれば、生物の巨大化の要因となっているのは「地中の空洞」ということになる。「地球空洞説」は、ある程度「物理学」が進展をみた近代初期の疑似科学として英国から発祥し、以後神話化した。地球空洞説は西洋的な同一性が迷妄とふれあって起こった、いわば同一性の影にすぎない。深読みすれば、ISを映画は、西洋の同一性の影ともとらえているのではないだろうか。
 
――3月25日、TOHOシネマズ新宿にて鑑賞。
 
 

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2017年03月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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