顔の見分け ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

顔の見分けのページです。

顔の見分け

 
 
中国人と韓国人と日本人がいる。中国人と韓国人と日本人の顔写真が多数ある。それぞれに、どの写真が自国人かを問うと、百発百中で中国人と韓国人が当てるのに対し、日本人は誤答率が高く、とりわけ、中国人の写真を日本人と錯視するという。村澤博人の『顔の文化誌』にあった逸話で、それは実際ぼくが聞いた、「札幌や北大にいる東洋人が中国人か韓国人か日本人かは一目瞭然でわかる」という中国人留学生の述懐とも一致する。ぼくはわからない。村澤の見解によれば、正面顏の文化の浸透した日本では、実相をみないで顔を抽象化するゆえに顔の把握からリアルが欠如するのに比して、顔を顔として見る大陸、半島では、横顔文化も浸透し、近隣民族の差異特性が物質感として別々に把握できるためではないか、という。面白いと思った。ぼくはさらにこう考えたのだ。とりわけ眼と眉の配合は個人反映的で、それが日本人には抒情化する。眉目が情緒の微差をこまかさのなかに確定するのだ。その際のかけがえのなさが自国中心化と相まって、たとえば中国産美人を自国人ととらえてしまうのが日本人特有の誤りなのではないか。日本人は分析的に近隣民族の顔をみず、たえず情緒的に歪曲する。それはみないこととかんじることとが通底する恥辱の文化が発達したためでもあって、いわば自分の肌でみるから民族的差異ではなく、個々の造型的イデアの孕む、民族とは無縁な差異のみに、伏目のもと遠隔性を伴って感応してしまうのだ。じつはこれこそが「高度にみる」ことでもないのか。偏差は民族的な分析学ではなく、個々の造型の偏差そのものに脱民族的にあるのだ。高度にみることがゆたかな、そしてお人好しの誤謬を呼ぶのだとすると、判断面での日本人のとろさも決して悪いことではないだろう。視覚的誤謬がみることの本質に接触して、この点でむしろ生産的なのは日本人のほうなのだった
 
 

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2017年04月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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