背後論
【背後論】
めのまえをとおくみはるかすと
いつのまにか背後に雨がふるとわかる
まえからはただ浸透があるだけで
あるきにおいては背後がのび
それが蕭条と降雨にしろくぼやけ
うしろからひとときを吸われるのだ
うしろはほそくしかもうすまり
身からはなれるほどにきえてゆく
あまみずつたうあさいぼんのくぼが
そんなさだめをおぼえつくす
くさのはえるからだの分布では
さけめをおおうかなしさもあって
盆と窪のであっているあたまに
かんがえのすぎゆく会陰をかんじる
からだをさかいにしてそのまえを
うしろへとながしいれているときには
こころからの感情がなくなっている
塔をたてていきるほこらしさではなく
筒をまよこにしつづけるおそれや
みずに砂糖のとけてゆくありさまが
つぎつぎにものおもいを襲いだし
かんがえがうごきをささえるならば
からだはあらわれよりさらに遅れ
そのあかしに背後がいわばうつくしく
からだいろの尾をひくことになるが
ところどころ横形が縦形をまねき
この世もみずからぬれるためにこそ
あめの枠組へあめをおおくふらし
ざんこくに存分に交錯しつくす
かなめのぼんのくぼをいためつけながら
ぜんしんのところどころを索引する
ひとのからだはしかし再帰性ではなく
その背後によってうごきつづけて
それじたいくるしいゴーストとなり
ぬらす二重のあめのなかさらに
ぬれる二重としていれられてゆく
とどのつまり雨の背後、ひとの背後も
移動のうちにひとしくなるだけだ