万田邦敏Unloved ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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万田邦敏Unloved

 
 
【万田邦敏『Unloved』】
 
ひつようあって、万田邦敏監督『Unloved』(2001)を観なおした。公開当時は批評的評価を受けたものの、一般には他の仙頭武則プロデュース作品(「J Movies」シリーズ)に埋もれて、目立たなかった。恋愛ドラマとしての作劇のくらさ、それと恋人同士の「議論」の生硬さ・執拗な連続形も忌避原因になったかもしれない。むろんその後、おなじ万田珠美(万田夫人)脚本による万田監督の『接吻』(2008)が大傑作だったことから、そのステップボードとなった重要作として事後的に『Unloved』がふりかえられることも多かっただろう。
 
物語構成の大略は以下だ。齢30を越した市役所の地味な職員・影山光子(森口瑤子)が仕事でかかわったベンチャー企業のヤングエグゼクティヴ勝野(バツイチ=仲村トオル)に見初められるが、「分相応」に拘泥する光子は、勝野がのぞむ生活向上、共同生活の誘いにのらず、やがては破局する。光子が勝野の熱心な求愛を撥ねつけた気色がつよい。
 
光子の失意を救ったのは、岡山の工業高校を卒業、いまは宅配業の屋内集配に従事する下層労働者・下川(松岡俊介)だった。光子にとって気安く自然でいられたのだ。光子はアパート暮らしで、二階の住まいだが、下川はその真下の一階の住人。アパートの階段を行き来しながら、ふたりは不規則な同棲状態にはいる。ところがその束の間の安泰も、下川の疑心と不安により覆る。心模様はこうだった。光子は結果的には勝野から自分へと乗り換えたかたちだが、生活の勝者・勝野にたいし、恋愛の勝者である自分が一向に満足できない。「あなたはあるがままでいいのよ」と光子は抗弁するのだが、確信にみちたその物言いがかえって下川の逆鱗にふれる。決定的なことばが発せられる。「きみはだれからも愛されない」。「Unloved」の定着だ。
 
『Unloved』はのちの万田のすばらしい映画評論集『再履修・とっても恥かしゼミナール』(2009、港の人)でも、①塩田明彦―万田珠美―万田邦敏の鼎談、②高橋洋と万田邦敏の往復メール書簡、③中原昌也―万田邦敏の対談において考究の対象になっている。奇異なことにそれらでは、とうぜん名前が挙がるだろう演出技法の先達・成瀬巳喜男の存在が浮上してこない。万田監督のこのみが「聖なる映画作家」(演出技法の約分できない独自性)にあるのはあきらかで、普遍的通用性と円滑性のたかい成瀬演出は、興味の対象外なのか、同書すべてにわたってすら、成瀬についての言及が皆無なのだった。
 
成瀬ファンからすれば、「人物がラーメンを食べる」「物思いにふけるとき、窓外に視線をさまよわせる」「狭いアパートの二間続きの空間」「テーブルがあるとき二人物は隣り合う二辺に坐る」「信頼が成立したもの同士の同道を後退移動でとらえる」「人物の対峙において片方が背中を向け、数歩すすんでから振り返る(そこに舞踏的な進展がある)」(=A)「二人物を、奥行きをたがえた縦構図のバストショットで定着する」(=B)などが、成瀬演出的な符牒を構成する。
 
仲村トオルのふくみのない演技は、科白発声に綾や緩急や強弱がなく、またその表情も、上顎下顎が尖り、頬がふくらんでみえる一定性のうちにある。終生変わらぬ、別の意味で貴重な一途さ=怒気の様相は、成瀬映画でいえば『乱れる』『乱れ雲』の生硬だった加山雄三をおもわせる。だから仲に暗雲の立ちこめだした仲村―森口のふたりがクルマで湖にむかうときには『乱れ雲』の雰囲気が漂うし、冬の湖の埠頭をとらえる最初のショットで、森口ひとりがそこにたたずんでみえるときには『乱れ雲』のラストシーンの引用まで自然に想像してしまう。
 
その埠頭で仲村トオルもフレームにはいり、ほとんど森口が一方的に仲村の求愛を撥ねつける会話の応酬となるとき、さきに述べたA、Bを交錯させる展開がフル開花する。『Unloved』は観だした途端に「二人物をカメラがどうとらえるか」「階段はどうとらえられるか」で、万田監督の映画的才能に昂奮させられること必至なのだが、じつはその才能は成瀬演出を基調に、刻々の偏差をしるす点にむしろ顕在化する。湖の埠頭に立脚したやりとりは、A、Bを展開させながら、左右構図で森口―仲村の横顔対峙、あるいは縦構図で二人の位置が離れすぎたために話者に焦点を当てかえるピント送りなど、成瀬がおこなわなかった禁則まで織り込むのだ。遵守と破壊、このふたつが人物布置の変転にリズムをつくりあげて、動悸がしはじめる。男女のやりとりをしるすに際し、成瀬巳喜男的なものが普遍として介入したのではないだろう。意識的に成瀬の法則遵守と法則踏破が刻々割り振られているのだ。
 
伊香保温泉の実景転写をもくろんだ『浮雲』には例外的に「階段」があるが、成瀬は小津同様、階段をドラマへ基本的に召喚しない。とりわけ階段での人物の移動をしるすにあたり、階上からの俯瞰撮影、階下からの仰角撮影を忌避する。撮影角度のはげしい人物把捉をおそらく不自然と認識していたのだ。それは「顔」への崇敬をも瓦解させる。
 
『Unloved』の階段は、先述のとおり、アパートの一階二階を外面からむすぶもので、それはアパート正面からすると右上方向に延長され、二階廊下へとつながっている。家賃の安そうな、こうした貧相なアパートのしつらえは、いまや徐々に稀少になりつつある。万田演出は、人物によってアパートの階段昇降のみえかたをふりわけている。光子=森口瑤子にかんしては、アパートから離れたロングでその全体を水平でとらえるのにたいし、勝田=仲村トオル、下川=松岡俊介にかんしては、アパートの階段下りを夜に設定し、しかもその肩から階段全体を急角度で俯瞰する視点が選択され、階段の様相をいわば奈落へとつながる強度にまで鍛え上げるのだ。アパートの階段傾斜が峻厳だという感覚付与。これは森口の生=性が緩慢さと円滑をこのみ、仲村―松岡の生=性がはげしい高低落差をこのむ点と相即しているだろう。
 
アパートの階段はむろん、いったんは相愛を成立させる森口―松岡の紐帯、その架け橋として空間的に不安定ながらむすばれるが、上階に森口が住むことで松岡にたいして刻印される優位性も無視できない。森口にしてみれば、市内の離れたところにちいさな菓子屋を営む実家があり、勤務先の市役所に自転車で通える利便性があるとはいえ、それなりに勤務を実直にこなし、上司からは試験をうけての階級昇進を望まれていて、その安定した状況からすると、よりよい住環境へと住み替えることもできたはずだ。やがて現在のアパート暮らしに拘泥する理由が仲村トオルとのやりとりをつうじてわかる。向上心を抑制し、慎ましさを自然とする森口にとって二間しかないそこでの暮らしが「分相応」と映っていること以外に、夜の寝床からみあげる天井の様相が実家の部屋とおなじであることが重要だった。無変化に安住するためのアパート暮らしでもあったのだ。二階の森口は自分の住まいの天井を仰臥して見上げる。視線は象徴的に天上へとむかう。天上性が無変化性なのだ。べつのとき一階の松岡も自分の住まいの天井を仰臥して見上げる。視線は象徴的に上階のひと森口に向かっているだろう。
 
森口―松岡のつきあいがはじまると、ふたりは階上階下を往還しはじめるのだから、生活領域が倍化する。「どちらにいてもいい」。しかも空間は上下に密着していて、じつは物音も上下を浸透している。ひとつの縦にうがたれた家なのだ(外側に迂路はあるが)。森口は松岡と親しくなる前に、松岡が練習するギターの音を聴いているし、やがては松岡の部屋にいるとき、階上の自分の部屋で電話の音が鳴っているのも知覚する(このときの電話の鳴り響く夜の森口の部屋の空舞台〔エンプティ〕ショットが不吉さの強度において見事だ)。松岡は、懸想していた女子社員の同僚が別の男子社員と懇意になっている様子をみて勤労意欲をなくし、会社をさぼりはじめる。このとき彼は、買い物のあとそれまでいた二階に戻らず一階の自分の部屋に帰る。選択の躊躇が彼の心理状態に直結している。森口が煙たくなっていて、なおも離れがたいのだ。ここでも上下が活用されている。
 
映画は巧みに、自転車の荷台に賞品の洗剤を積んだ新聞勧誘員が、森口の居住スペースの真下の部屋の扉越しに呼びかけをしていたとき、「そこ空き家ですよ」と自転車で帰宅した森口にいわせていた。真下のスペースという空間マーキングのほか、勧誘相手を森口に変えようとしたその男に(彼は階段をのぼってくる)、扉をひらく森口が振り返りもせず「ほかを取ってますから」といわせることでその無駄のない冷たさを際立たせる見事な演出も施されている(森口のうごきと新聞勧誘員のうごきの相関関係がぞっとさせるほど映画的なのだった)。おなじ経緯が、松岡が自分の勤め先のトラック、同僚の助けでその真下の部屋への引っ越しをしている様子を、やはり自転車で帰った森口が横目でみながら、階段をのぼってゆく際にも反復される。むろん今度は、真下の部屋に「誰か」が引っ越してきたことが強調され、真下が加算的にマーキングされる(夜の暗さのなかで森口の視界からは松岡の顔がその時点ではっきりしていなかったはずだ)。
 
名手・芦澤明子が最初のショットで定着したのは、アパートの階段前、降雨の様相を知ろうと軒先に差し出された森口瑤子の手(てのひら)だ。その俯瞰の画角には森口が自分のてのひらをみやる再帰的視線が擬されている。俯瞰構図の奥行き(つまり下方)にピントの外れた階段がみえる。雨がかなり降っているとおそらく理解した森口は、出勤用に準備した機能性重視、外見度外視の、全身を覆う透明ビニールのレインコートを着用したまま、自転車に乗ってゆく。外界が雨かどうかの判断のため手を軒先に差し出す動作は、松岡と暮らしだしたのちも、ベランダに立った森口により反復される。行動選択の起点が視覚を司る眼ではなく、触覚を司るてのひらであること。それは対象の見た目ではなく、自分の体感のみを信じる森口の感官の閉鎖性とかかわっているだろう。
 
そうしてはじまった映画は、身体部位では、「顔」よりも「手」を先験させることを選択する。ドアをひらく、書類にさわる、階段の手すりにふれる――「手」は森口、仲村を問わず欠かさず描出されてゆく。「仕事」は「顔」ではなく「手」こそがつくりあげ、そうなると存在も求愛も、手が主要器官となるのだ。これが「顔」の貶価と相即している。森口と仲村が一時親密になりながら、やがてその間柄を流産させてゆくのは、手をむすびあってデートにふさわしい同道を経験しながら、森口にやや豪奢なナイトドレスを買い与えたのちの高級レストランで、仲村に急な仕事がはいって中座を余儀なくされ、頼んだ料理を、ナイフをもった「手で」とりわける機会を失い、のこされた森口が注文をせず店を出て、手ごろなラーメン屋に食事場所を移し、自らに閉鎖する手でラーメンを食べて、仲村の帰還を戻ったレストランの店先で待ったからにちがいない。
 
この意味でいうと、松岡は「手によって」仲村に勝利する。森口は帰宅途中のコンビニで買い物をすると、三百円足りなかった。家が近くだから買ったものを籠に取り置いてくれ、戻っておカネをもってくると店員に頼み、店を出ようとすると、ドアの前ではいってきた松岡に直面する。いつの間に見知っていたのか、その松岡にあとで返すという気色で、無遠慮に三百円を無心する。てのひらからてのひらへの運動。ところがふたりはそのあと同道しない。ただし帰宅した森口は階下の物音を聴いている。松岡の帰宅した気配があって、三百円を返しにゆく。玄関先。松岡はてのひらに受けようとして硬貨をとりこぼす。双方が拾い上げようとしゃがみ、てのひらが交錯する。謝意としてはまだ足りない。やがて森口は実家から送られてきた林檎のお裾分けをしようと林檎をもってくる。松岡の部屋の玄関先が何度も召喚される。受け取って扉が締められるが、森口が再度、ノックする。「林檎を剥きましょうか」。扉はふたたび開けられる。むろん外界につながる玄関が空間上で特権化されるのは成瀬映画に先例がある。
 
往還の開始。今度は礼をもらいすぎたとかんがえた松岡が、二階にのぼり、森口の部屋をノックする。友人のライヴコンサートのチケットを森口に手渡すためだった。しかもその前段、もともと二枚用意されていたチケットは、松岡が同僚の女子社員をデートに誘う口実として送り付け、無下にも突き返されたもので、一旦松岡はそれを二枚ごと部屋で破り捨てていた。半分に裂いてクチャクチャに丸めた詳細を観客はみている。森口に手渡されたチケットは皺を修復され、しかもセロテープでつなげられていた。つまり「手」が濃厚に介在したチケットがてのひらからてのひらへと移動したことになる。
 
映画はライヴハウスの具体をとらえず、帰途のふたりをしるすだけだ。森口はいたずらっぽく、遠回りで帰ろうといい、自転車の二人乗りを提案する。おぼつかなく運転する松岡の後ろに森口は乗っている。手は松岡の衣服をつかんでいたのか、それとも手の上級部位――腕が松岡の胴に回されていたのか。やがて場面はくらいあかりのしたでのふたりの性交シーンに移る。とらえられるのは何かの安堵によって涕泣寸前になっている森口の、くらさのなかで完全な判明性を欠いた顔だ。ただし性交の「渦中」をしるしていて、「事後」のみをとらえるしかなかった仲村相手のものとは審級をたがえている。
 
手の上級部位――「腕」についてしるせば、松岡は溶接工時代、そこに火傷を負っている。プライドを捨てて、森口とすでに別れている仲村に、職の斡旋を頼みに押しかけたとき、「腕」を自分の存在証明としてみせようとして失敗している。腕はほとんど無目的に、夜の部屋の暗がりのなかで火傷痕を開陳される。万田監督は、「幽霊」としてそれをしるしたのではないか。そういえば、松岡は手の甲も年齢のわりに血管が浮き出て、なにかが凄惨だった。この当時の松岡俊介には、「影のうすい役柄」に数々の好演があった。みすぼらしさが逆説的な独壇場となっていたのだ。
 
映画『Unloved』の法則下では、「手」は「顔」を貶価すると綴った。ヒロイン影山光子=森口瑤子の「顔」はその「手」のようにつるりとして、じつは観客の視線をとどめない。艶のある髪の流れだが、きっぱりとしたショートヘアにまとめられ、そのせいで顔が露わになっているはずなのに、物質感があったりなかったりするのだ。ひとみが潤って抒情的にかがやいているうつくしさはある。涼しさとやさしさ、聡明さもかんじる。ただし顔はときに疲弊する。感情の振幅はさほどない。その顔はレヴィナス的な意味での「他人」の領域にうかびあがっていて、うつくしいのに親密感をあたえないのだ。あるいは金沢正夫のくらさ=限定光源を強調した照明設計のなかで、恋人と語りあう森口の顔は影にはいったり明かりのもとに出たり、顔の「部分」に影を走らせたりして、「ホワイトボード」として一定しない。「ブラックホール」にもならない。顔が存在の焦点となる空間性をもつまえに、あるときは時間性のまま変化を繰り返している。
 
森口の顔が定着しないのには理由がある。顔がたしかな「他人」のものとして、なおかつそれが敵対者であれ同調者であれ定位されるためには、顔を基盤とした発語がひつようとなるのだ。発語こそが顔のあらわれを実質化する。ならば森口の発語は、森口の顔を阻害している。実際、万田珠美の用意した科白は前代未聞といえるほどに奇異なものだった。迂言であれ直言であれ、「分相応」「ありのまま」の価値を一貫して彼女はしずかにだが言いつのり、しかも顔とはちがい、言説にはすずしさや余裕をかんじさせない。第三項が決定的に言説対象からは脱落し、「わたし」の信条と、「眼前の相手の容喙」が不当であることをやさしい口調で終始諭しているのだ。つまり会話には存在論的な一人称と二人称しかない。これが彼女の自閉の形式なのだった。だから、最終的に松岡と口論の修羅場を迎える段で、松岡が嫉視する仲村が会話上の第三項としてのぼったとき、ふたりの関係そのものが決裂せざるをえない。いやそれ以前に「わたし」と「あなた」に閉じている徹底的な世界観、男たちはそれに窒息するのだ。
 
脚本の万田珠美が用意し、森口瑤子の演技力が完全に実質化したもの、それは会話語尾の「よ」ではないだろうか。「――だよ」「――じゃないよ」「――しなよ」の「よ」。それは一見女性的な会話語尾だし、会話内容の断定性を柔和にするものともとらえられがちだろうが、実際はやわらかさによって強意を付加する、断定にまつわる冗長性の尾とでもいうべきものだ。蛇足。それは蛇のまぼろしの肢のように嫌悪のなかをうごめくのだ。「よ」は会話内容ではなく、会話から余っている身体で、この身体性こそが、顔の身体性を削ぎ落とすともいえる。男性的な断定性が、やわらかさを引き寄せるときの欺瞞の匂い。会話語尾の「よ」には芯があり、その芯は余剰として空間にばらまかれ、対峙する相手が仲村であれ、松岡であれ、熾烈に伝染してゆく。映画『Unloved』が生理的にきついとすれば、森口の発声する「よ」に浸潤されるためだ。なにかが「よ」でダメ押しされるときに、そのなにかはすでに終わっている――男たちはそれに気づいているのではないか。森口は自己の明晰さ、眼前の他者にたいする聡明さによって、かえって「Unloved」なのだった。その哀しみは通常よりも上位にあり、容易には感銘できない。
 
作劇されたもののながれでいえば、「Unloved」=「愛されない種族」は変転している。声が大きく、すべてが直言的で、「上から」威圧的な断定をくりかえす仲村トオルが、懊悩を発語の渦中に滲ませる才能を欠いている点でまずは「Unloved」と映る。次には仲村への意識により卑屈さに取り込まれ、実現性のない上昇を夢見だす松岡が社会的な「Unloved」と映る。ところが同時に観客の胸裡には、自己領域の「分相応」に守られて終始動じず、感情によって崩れてゆかない森口こそが、より次元のたかい「Unloved」ではないかと衝撃が走っている。その事実をこともあろうに、「きみはだれからも愛されない」という発語で松岡が定着するのだ。このときはじめて森口が泣き崩れる(しかも大芝居ではなく、どこか不如意・不完全な崩れかたをする――万田演出と森口の演技力に最も震撼した箇所だ)。それまでの森口―松岡の応酬は、じつは「我―汝」規定の変転に終始していて、頭にはいってこない。内容が抽象的すぎるというより、その色彩にあらかじめ徒労が仕込まれているためだ。「応酬」が延々とあり、最後の「きみはだれからも愛されない」だけがのこる。
 
「Unloved」=「愛されない種族」の刻印は熾烈だ。「愛されない次元」が上位であればあるほど熾烈だ。それは民族的刻印、階級的刻印と同等に、変更できないもののようにおもえる。こうした変更不能性を実証していたのが、一見は余裕をもって「分相応」の自己領域を温存していた影山光子=森口瑤子自身というべきだろう。自己疎外は命名に隠されている。彼女の名前のなかで「影」と「光」が相殺関係となり、他人の彼女は、さらなる他人には真に結像しないのだ。
 
「変更不能性」を踏破したのは、ラストの松岡俊介のように一見おもえる。松岡は「Unloved」の刻印を森口に捺したあと一旦階下の自室にもどる。それからベランダのむこう、夜明けをかたどっている雲をみあげ、改心し、また上階に行き、自分はそれでもきみをえらぶと告げる。そのことばに「救われたように」、それまで茫然としていた気色の森口が松岡の身体にすがりつく。たぶん野心が本当は不要とされている時代を「正しく」生きている森口にたいし、脚本の万田珠美は救済を予定し、この場面をつくりあげたのだろう。ところが夫の万田邦敏の演出はその意図にたいし微妙に不穏だ。松岡にすがりついた森口のからだをおもいおこしてほしい。その「顔」は松岡のからだのむこうにあって抹消され、そのふるえる「手」だけが強調されていたのだ。
 
映像上の結論はこうなる――「手渡すこと」をし、「仕事」をする「手」が先行する種族には、真実を確証する発語は要らず、その結果、土台となる「顔」も要らない。こうした存在形態こそが「愛されない」。「手」があって「顔」のない、ラストの森口の抱擁の姿は「愛されなさ」の受難を最終的に立証していて、何らの救済でもないのだ。むろん肝腎のドラマ高揚部分で「顔」を消去する演出など成瀬にはないもので、これこそが成瀬との最大の離反点だった。「顔」は消去されることで潜勢のうちにかえって力をえる。それで「顔」はふたたび二階から一階へと不吉に拡張する。「顔」は幽霊になる。ただし気配だけだ。万田邦敏には、その「顔」を徹底的に孤立させることで、宙に浮く幽霊の運動にまで高める課題がのこった。課題がクリアされるのは『接吻』においてだった。
 
 

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2017年04月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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