公開講座「恋する顔」
※昨日5月17日は、北大文学研究科が一般社会人に向けて提供する公開講座の第一回で、ぼくが担当した。今年の総合テーマは「恋する人間」で、ぼくの論題は「恋する顔」。トッド・ヘインズの傑作『キャロル』をもとに話した。北大卒業生から仕事で行けないが、内容を知りたいというリクエストがあり、きのう受講者に配布したプリントに少し加筆したものを以下にアップする。このFB/ブログへのアップは短期間で終わらすかもしれないが。
公開講座「恋する人間」①「恋する顔」
【1.辞書より】
○恋【こい】人を好きになって、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)(三省堂国語辞典)
○恋【こい】特定の異性に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態(新明解国語辞典)
○恋【こい】特定の異性(まれに同性)を強く慕うこと。切なくなるほど好きになること。また、その気持ち。(明鏡国語辞典)
※相手への距離が横たわっている段階では自己被所有・対象所有にかかわる希望と不安が物憂く交錯するが、じつは相手との距離が無化された段階でもそれは変らない(「愛」とちがう)。つまりその恋が真正であれば、そこから脱出できない閉塞だけを結果する。
【2.映画『キャロル』概要】
キャロル・エアード……ケイト・ブランシェット(『アビエイター』『バベル』)
テレーズ・ベリベット……ルーニー・マーラ(『ドラゴン・タトゥーの女』)
アビー……サラ・ポールソン
ハージ……カイル・チャンドラー
リチャード……ジェイク・レイシー
監督……トッド・ヘインズ(『ポイズン』『ベルべット・ゴールドマイン』)
原作……パトリシア・ハイスミス(『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』『アメリカの友人』)
※ただし名義は変名「クレア・モーガン」、原題は“The Prince Of Salt”
脚本……フィリス・ナジー
撮影……エド・ラックマン(『ヴァージン・スーサイズ』『今宵、フィッツジェラルド劇場で』)
衣裳……サンディ・パウエル(『キング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』)
音楽……カーター・バーウェル(コーエン兄弟作品)
美術……ジュディ・ベッカー
原題“Carol”、2015年、アメリカ、118分、
第68回カンヌ国際映画祭主演女優賞(ルーニー・マーラ)
【3.作品背景、作品構造】
・女性同士の「恋愛映画」(※好奇的なレスビアン映画ではない)。
・当事者たちのある時点から語りが開始、当事者たちの出会いへと戻り、時間が進展して冒頭時点にふたたび到達すると、「その後」がエピローグとして付加される(クエンティン・タランティーノ『パルプ・フィクション』などと同型の時間構造)。
・主舞台は冬から春先のニューヨークだが、途中、テレーズとキャロルがフロンティア時代どうよう「西進」してゆく。ただしこの動きは挫折する。
・1950年代の時代符牒は作中のことば「アイゼンハワー大統領」「非米活動委員会」によって示されている。キャロルのコート等が絢爛に変わるように第二次世界大戦戦勝国の豪奢な生活が支配している(ただしいつもおなじ帽子をかぶっているアパート暮らしのキャロルは下層に属する=その意味で、キャロルのテレーズへのアプローチは「下犯」といえる)。とうぜんこの時代、同性愛は一般的にはつよいタブーで、レスビアンが精神病者とみなされていた点は、キャロルの親権闘争の経緯でわかる。
【4.指摘1:フィルのパーティへ行く車中のテレーズ=ルーニー・マーラの「顔」まで】
・キャロル=ケイト・ブランシェットがテレーズの肩に手を置くときのテレーズの憂いの顔が観客にとっての「謎」となる。友だちが肩に手を置くときとは好対照だから[その瞬間は「後ろ姿」で、顔が明示されない]。
・車中のテレーズの顔はクルマのガラスを経由しているため、間接化・幽閉化・朦朧化・反映化されている。放心と、それを覆そうとする「物思い」とで、顎先の「方向」が変化し、しかも光の反映により、瞳の湿潤度がうつくしく強調される。ここにすでに「恋の気配」がある。
・一瞬、突然の挿入といった気色で、キャロルとの最初の出会いが交錯する。このことで「顔の現在が、過去を不測に内包してしまう」不如意がしめされる。
【5.指摘2:クリスマス商戦、デパート「フランケンバーグ」玩具売場におけるテレーズ、キャロルの初めての邂逅】
・逆構図の反復で、見つめ合ってしまい、視線を逸らせることのできない運命性が描写される。
・「無防備に」視てしまうことがテレーズにかんじられる。その少女=乳児性【引例1】。視ることに内在する反射性。けれどもあとづけでいえば、この反射性は期待可能性でもあり、そこに自己の被所有にまつわる淫猥さを感知することもできる(性的に晩生なのに淫猥さを分泌するルーニー・マーラの内包的演技力は奇蹟の域に達している)【引例2】。テレーズの表情は最初の瞬間、凝固し、「一方向」へと釘づけになる。
・とはいえ、演技を離れ、ルーニー・マーラの目許を虚心坦懐にとらえると、じゃっかん寄り目で、このことが不順・女性病・視野狭窄など狂気につながる薄倖な異常をも予感させる。
・いっぽうテレーズへのキャロルの眼差しは質をたがえている。「淫蕩」をゆらめかせながらも、同時にテレーズの「階級」を対象化する冷静さをも保持している【引例3】。
【6.引例1】
母親の表情を模倣する乳児が〈顔〉の映し出す鏡であるように、母親の〈顔〉もまた、乳児の〈顔〉を映し出す鏡なのだ。向かい合う乳児の〈顔〉と母親の〈顔〉は、合わせ鏡のように互いが互いを映し出し、見るものと見られるもの、主体と客体が区別されはしない。融合的とは、この合わせ鏡のことなのだ。その意味で、〈顔〉的知覚とは、触れるものがそのままで触れられるものである触覚的なものである。別言すれば、視覚において触覚性を再現するのが〈顔〉的知覚なのだ。
――西兼志『〈顔〉のメディア論』(法政大学出版局、2016年、19頁)
【7.引例2】
視線にはみつめるものからみつめ返されるという期待が内在する。(狭義の視線においてと同様に、思考においても注意力の意欲的な視線に纏わる)この期待が実現されるとき、アウラの経験はその充実において視線にあたえられることになる。
――ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールのいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン著作集6 ボードレール』(円子修平訳、晶文社、1975年、208頁)
【8.引例3】
人間のまなざしに貫かれ、道具化されてしまった対象たちの世界。その頂点に立つのは、当然、まなざしの主体である人間ということになる。では、そのまなざしが人間自身を見つめた場合、何が起こるのか。まず、そこでは階級の分化が起こる。農民階級の人間は、静物画における事物と同様、対象としての地位が与えられ、人間以前の未完成の生き物として表象されるのである。彼らは顔も定かではなく、年齢も性別も不明で、ただ数として存在する権利しか与えられていない。その理由は、もうひとつの階級である貴族だけを人間とみなすためである。
――桑田光平『ロラン・バルト 偶発事へのまなざし』(水声社、2011年、61頁)
【9.恋する顔について1】
・少女マンガでは70年代の大島弓子作品を好例に、「恋する顔」は頬の斜線でしるされる上気、瞳の潤み、さらには唇の半開といった、「表情の病態」で綴られた(むろんそれは性的法悦を予感させる)。ただしマンガ特有の表現の静止性による産物。
・映画女優にあっては「恋する顔」の観客・共演者への伝達は、頬の上気、瞳の潤みをふくみながら、むしろ顔の諸部位の連関の「わずかな異常性」のほうにつよく刻印される。徴候的。ルーニー・マーラは「眼千両」といえるほど眼の表情が多弁だが【引例4】、相手を視て唇を閉ざすか(切迫)、相手を視て微笑むか(解放)で偏差をつくりあげる。顎の向きは、相手に向けば期待、相手から逆になれば放心・物思いをしるし、いずれにせよ、恋情と眼差しがつながってそのすべてが恋愛モードを形成する。同時に、眼差しそれ自体は、それをもつ者が人間である以上、聡明さにもつながる【引例5】。
・日本人好みのやや不定形性を帯びた少女的なおかっぱ髪(前髪プッツンと現在よばれるもの)によってあらわになった表情の「転写幕」の存在がおおきい。それは「その刻々」を視るのに値する【引例6】。
・テレーズ=ルーニー・マーラの息苦しいほどの「一途」は、作品の途中までは出会いの瞬間の激しい「固着」からの自己展開として生起する。それがやがてキャロルの離婚と親権問題を案ずる同志的な頼もしさへと上昇、さらにはキャロルとの仲の破綻にともなって相互性そのものを拒絶する硬い意志の顔へと変化を遂げる。つまりテレーズの顔の「時間性」はこの映画では後天的に変化をつづける【これも引例6】。
【10.引例4】
個別における最小の変化によって全体表現の最大の変化を生じせしめるという課題を、顔はたしかにもっとも完全に解決している。それぞれの特徴の規定性が他のすべての特徴の規定性と、かくして全体のそれと連帯している顔こそ、物体の形式諸要素を相互的に理解にもたらし、直観的なものを直観的なものとの関連によって解釈するという、すべての芸術の問題にとって、これほどふさわしく予定されているものはない。顔のおどろくべき運動性もかかる連帯の原因であり結果であって、この運動性は絶対的に観れば、きわめてわずかな形状の変動を支配するにすぎない〔…〕。/最小の自己運動に最大の運動感が生じることの頂点をかたちづくるのは目である。
――ゲオルク・ジンメル「顔の美的意義」『ジンメル著作集12』(杉野正訳、白水社、1976年、185―186頁)
【11.引例5】
もっとも叡智的な眼は、おそらく、遠くを見ていながらしかも近くを見落としていない眼、すべてを見ていながらしかもどこを見ているのかわからないような眼であろう。主観客観の相即を説くことはやさしい。困難なのは主観と客観とのまさしく中間に眼を保持すること、この両者の間に眼を独立に維持し、維持することによって両者を結びつけていること、眼によって物をも心をも支配しながら、しかもそのいずれにも捉われないことである。人間の真の叡智がそこにある。このときもはや眼が見るのではなく、物がその真の姿を見せるのである。
――矢内原伊作『矢内原伊作の本1 顔について』(みすず書房、1986年、43頁)
【12.引例6】
表情は、純粋な可視的象としてより、むしろ時間表象として現れる。表情はたえず移ろい、揺れ動いているもの、またわたしがその前にいれば、わたしのそれとシンクロナイズするかたちで噛みあったり反撥しあったりするものである。そしてその変化や変換の速度が見るわたしのそれと異様に違うとき、あるいはゼロのとき、われわれはそのひとの存在を「ふつうでない」と感じる。〈顔〉という現象は何よりもまず時間的な出来事ではないのか?
――鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫、1998年、20頁)
【13.恋する顔について2】
・同性愛者が対象から見事に「潜勢」を嗅ぎだすのは知られているだろうが(これは、実際は危険回避とも結合している)、ケイト・ブランシェットはその過敏性を着実に伝達する。
・売り子のテレーズにたいし、「4歳のころ親しんだおもちゃは?」と唐突に訊ねる客ケイトに注目しておこう。「人形が家になかった」という逸話はテレーズの育ちの貧困をしめし、けれども男児のこのむ「列車セット」には親しんだという逸話は、テレーズの「性」に変貌可能性が仕組まれていることを語る。これらがテレーズの視線の質とともに、キャロルの「判別」材料となったのではないか。
・ルーニー・マーラの顔の「情緒性」にたいし、ケイト・ブランシェットの顔は冷厳なほどに物質的とかんじられるが、それは映画の当初、主観の位置に置かれるルーニーにたいしケイトが他者の位置に置かれるためでもある【引例7】。
・ケイトの「恋する顔」で注目すべきなのは、約分できない諸感情・諸性質が同時性のなかに混在している点だろう【引例8】。そこでは、威厳・優雅・颯爽・絶望・悲哀・疲弊・不足・欲望・淫猥・かすかな老化が同時にひしめいて、そのそれぞれを分離できない。この分離不能性が物質感だともいえる。このことをさらけだすケイト・ブランシェットの演技力も瞠目に値する。とりわけすばらしいのは、眼差しを対象へともちあげたときのケイトの瞳が「泣いてみえる」ことではないか(ケイトの顔は動物類型でいえば、山羊と狐の混淆――ルーニーの顔が鹿類型なのにたいして)。
【14.引例7】
顔はその性質によってあらわれるのではなく、それ自体としてあらわれる。顔はみずからを表出するのだ。
――エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』上(熊野純彦訳、岩波文庫、2005年、80頁)
顔とは生きた現前であり、表出である。表出のいのちは、かたちを解体するところに語る。かたちのなかでのみ存在者は主題として暴露され、まさにそのことでそれ自体は隠されるからだ。だが顔はことばを語る。顔が現出することはすでにして語りである。
――同上(116頁)
顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである。顔が見られることも触れられることもないのは、視線あるいは触覚にあっては〈私〉の同一性が対象の他性を包含し、対象はまさしく内容となってしまうからである。
――エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』下(熊野純彦訳、岩波文庫、2006年、29頁)
【15.引例8】
顔はなによりまず、形而のパトスであり、言語活動のパトスである。自然が顔を獲得するのは、自然が、言語活動によって啓示されていると自ずと感じるときである。言葉によって露出されあばかれているということ、秘密をもつことの不可能性のなかに自らを覆うということが、顔の中に、貞節としてあるいは動揺として、無礼さとしてあるいは慎みとして、ちらりと姿を現す。
――ジョルジョ・アガンベン「顔」『人権の彼方に』(高桑和巳訳、以文社、2002年、96頁)
【16.顔はひとつではない】
映画がショット同士の交換と反映を基本にしている以上、テレーズ=ルーニー・マーラ、キャロル=ケイト・ブランシェットの「恋する顔」は「それぞれ」ではない。それらは映画の情緒のなかで必然的に混淆(=双頭化)する。それでたとえば情緒と物質が混ざり、一途と多様が一体化し、期待と絶望が合体する。主演女優がふたりというときの映画の外観=ルックは、ふたりの中間領域に不可視性までふくんで出現する。映画は「見えている」。同時に「見えない」。それは、映画が結局は「表面」であることとおなじだろう【引例9】。
【17.引例9】
我々の表情を持つ表面は顔だけになった。体の他の部分が着衣でおおわれていたためばかりではない。我々の顔は、今や小さくてぶきっちょな魂の信号器のようなものであり、それは何とかして出来うるかぎり信号を送ろうとしている。時々両手が援助にかけつけるが、手の表情にはつねに切断されたメランコリーがつきまとっている。
――ベラ・バラージュ『視覚的人間』(佐々木基一訳、岩波文庫、1986年、29頁)
真の映画はそもそも〈内容〉を持たない。映画は〈同時に芯であり外皮である〉からだ。それは、絵画や音楽と同じように、あるいはちょうど顔の表情がそうであるように、内容を持たない。映画は〈表面芸術〉であり、そこでは〈内なるものが外にある〉。にもかかわらず――そしてそこに絵画との原理的な相違があるのだが――映画は動きと有機的連続性をもつ時間芸術であり、それゆえ、納得のいく心理学かまたはまやかしの心理学、明確な意味かまたは不分明な意味を持ちうるのである。
――同上(46頁)
【18.指摘3:キャロルとテレーズのはじめての昼食まで】
・キャロルが売り場にのこしていった手袋は、テレーズにとってはキャロルの「残存したからだ」となる。ベラ・バラージュは映画にとっては風景までもが「顔貌」だととらえるのだから、その手袋もまた「顔」といっていい。もちろんそれは持ち主を欠いた空虚、何かの装填をもとめる欲望の象徴だ。
・キャロルの愛娘リンディは、キャロルから髪を撫でられる仕種を共有することで、テレーズの分身ともいえる。分身が存在するのは苛酷な状況だ。作品終盤、キャロルが迫られているのは、本来は同一ではないはずの分身関係=リンディとテレーズ、そのどちらを選択するかという認識論的な難題だった。
・手袋をテレーズがキャロルののこされた住所(それもまたキャロルの「分身」だ)宛に郵送したお礼に、キャロルがテレーズを昼食に誘う。テレーズは注文を自発的にできず、キャロルのそれに「準拠」する。自分では何も決められないということは本質を語れないということであり、テレーズの顔は曖昧領域から実質化する方向性しかもてないことになる。レヴィナスにいわせれば語りが〔他者の〕顔を顔貌化するのだから【引例7を再参照】。
・煙草を吸いあうやりとりが秀逸だ。キャロルの吸いかたは、みずからの揮発性をみつめる夢想的なものだ。いっぽうのテレーズは、「おんなのように」吸い、その通常が平穏さ・凡庸さのなかにあると示唆される。ところが「恋」がやがて彼女を狂わせる。
・キャロルは「テレーズ・ベリベット」の名を不思議がる。チェコ由来の東欧系の出自だとテレーズがいうと、キャロルは「テレーズ・ベリベット」の「音」を、唇を運動させ、口腔のなかで味わうように転がす(ナボコフ『ロリータ』で、ハンバート・ハンバートが「ロリータ」の発音に官能を味わいつくすのに似ている)。発音が咀嚼となり、味わいとなったこの瞬間に、テレーズはキャロルによって「食べられた」。これは「恋する者」の遊戯習慣だ。
・この場面でのテレーズ=ルーニー・マーラの「恋する顔」は、〔自らへの〕伏し目と対面するキャロルへの眼差しを頻繁に交錯させている。頻繁さのリズム、これが恋自体の異常性をかもしだしているが、たぶんテレーズは自らのそんな律動に気づいてはいない。一方のキャロルは折々に、舌舐めずりするような視線で、テレーズをみている。あるいはその細さをしるす開眼は、陰裂に似た湿潤をおびていると感知される。レスビアンの詳細。監督のトッド・ヘインズがこうしたやりとりを実現できるのは、彼がゲイだからだろう。
・ふとキャロルがもらす、「あなたは不思議な人。天から落ちたよう」という科白がすばらしい。のちの愛のクライマックスシーンでそれが「天使」の形容だったと判明するのだが、キャロルは運命的に、恋愛を鉛直軸に定位する。恋愛は宿業なのだ。いっぽう、テレーズは階層が上のキャロルを水平にみつめる。それが天使たるゆえんかもしれない。
・いずれにせよ、「恋する顔」は科白と仕種の応酬により、分節化・具体化・悲劇化する。
・映画を「顔の映画」(たとえばこの『キャロル』や成瀬巳喜男『浮雲』)/「身体の映画」(たとえばキム・キドク監督『魚と寝る女』)に分別することはできるだろう。「顔の映画」にしてあからさまなクロースアップ(斬首)がない点でも『キャロル』と『浮雲』は共通している。
・昼食シーンの直後、テレーズのクロースアップは、横顔のそれで変則的に一瞬のみ挿入される。ここで彼女は手帖に「キャロル・エアード」の名(これもキャロルの「分身」)を書き込んでいる。分身に敏感になることが恋愛なのだというように、テレーズのクロースアップがもちいられ、観客自身が恋愛に陥ることになる。テレーズの横顔が下方に向くので、恋愛そのものが下方性を転写される点に注意が要る。それは「自己への方向」だろう。
【19.指摘4:はじめてテレーズがキャロルの運転するクルマでキャロルの家へ向かう】
・相互の横顔のクロースアップ、ことばは交わされないか発声状態で画面にしめされない。代わりに運転するキャロルのからだの細部への、テレーズの主観ショット(アップ構図)がある。ことばの応酬が不要になったことで、存在の相互性が音楽化している。そのようにして恋情の進展をしめすトッド・ヘインズの演出が精確。トンネルの光景を(やがての)通過儀礼の象徴としている。
・キャロルは愛娘リンディのために、バザーだろうか、クリスマスの飾り用の樅の木を買う。このとき遠くからテレーズは、キャロルの姿(それは振り返った一瞬)を初めてカメラに収める。「視ること」が「撮ること」に固着化され、結果、テレーズは恋愛の眼差しを病態化させるだろう。ふるしきる小雪が、受苦と映る。
・キャロルの写真については、のちにタイムズで働く男友達から寸評される。「人間が撮れていない」と。なるほど、最初にしめされた写真群は純粋風景などのほかは窓内人物を盗み撮りしたか路上の後姿を撮ったかしたものが多かった。ところが運命的に、「振り返ったキャロル」には「人間」がなまなましく定着していた。「恋愛」がそうさせたといえる。
・カチューシャをしたテレーズはお嬢さんぽく、チェック模様のセーターのうえに肩掛けのワンピースをまとって、その胸許がおんならしく膨らんでいる。その姿は、少女性と大人のあいだで分裂している。
・ただし初のキャロルの自宅での逢瀬は、キャロルの夫ハージの予期せぬ「来訪」で陰惨なものにかわる。帰宅の列車に乗ったテレーズは涕泣する。恋愛と水分の連合。連合はまだある。テレーズはおそらく、自分のために泣いているのか、キャロルのために泣いているのかがわからない。恋愛とは自他をめぐる狂気だった。ここでもクロースアップはほぼ横顔で、ついにとらえられた正面顔アップは夜の車窓を鏡にしてのやはり間接的なものだった。恋する顔がそれじたい間接的であるかのように。
【20.指摘5:キャロル、ルイーズの西走と、旅先での共生】
・キャロルは愛娘リンディと引き離され、夫ハージから全面親権まで要求され、支えを失ったまま、旅を決意、ルイーズを誘う。時節はクリスマス。一種の逃避行なのに、常にキャロルとともにいることがルイーズを昂揚させ、「街全体が私のものみたい」という印象的な科白を言う。このときビリー・ホリディのレコードがクリスマスプレゼントとしてキャロルに渡される。ルイーズの照れ笑いの表情が、少女めいて可愛い。ルイーズ、キャロルの顔を写真に撮る。自分の表情を意識することが、対象の写真を撮らせている機微に注意。
・旅先のモーテルでの一齣。シャワーを浴びているキャロルが、スーツケースに入っている「ブルーのセーターを出して」と声をかける。キャロルはそれをみつけ、鼻をうずめる。そこでは顔ではなく、仕種が恋の狂気だ。
・ふたりはひさしぶりにスイートルームにモーテルの部屋を替える。ルイーズにキャロルが化粧することで、ふたりは遊戯に耽る(大島弓子『バナナブレッドのプディング』の一節のようだ)。「脈打つところ」(手首/首筋)にふたりは香水をつけあい、匂いを嗅ぎ合う。だんだんとやりとりが濃厚になってゆく。酔って頬を寄せ合う。キャロルの寝顔を隣のベッドから見入るルイーズ。
・シカゴ方面へ向かうふたり。肩に手を置くという動作までを応酬していたふたりだったが、クルマの運転がつづいて疲弊するキャロルのために、張った背中をさするキャロル。「接触」に変化が出ている。ふたりの笑み。これが前哨となり、アイオワ州ウォータールーで新年を迎えたふたりは、ついに性愛を交わすことになる。鏡の前に坐るルイーズの髪に指を滑らせ、やがてはディープキスを交わすふたり。それは50年代までのハリウッド映画の規範を超えているが、やはりキスが「顔」どうしの幻影、相互陥入、無差異化であることにはかわりがない【引例10】。「上から」キャロルがキスをする上下関係。ベッドへと促され、バスローブをはだけ、胸をあらわにされても、まだルイーズの「恋する顔」は崩れず、「覚悟」がその表情を引き締めている。キャロルの接吻や愛撫を瞑目のまま受け入れることがひとつの安定した調律になっていて、場面がポルノグラフィ化しない。「顔の映画」では裸身が顔貌化する――「身体の映画」で顔が身体化するのとは真逆に。ルイーズの乳首はルイーズの顔に「似ている」が、ほんのすこししずかな喘ぎをあげるルイーズの口腔が「穴」の様相をつよめ、顔が「縦に」崩れだす【引例11】。やがて熱烈な顔の摺り寄せ。「恋する顔」の境界が溶ける。上下反転構図。ルイーズの反応が熱を帯びてくる。しかし痛ましいのは裸身でいるルイーズの変貌ではなく、「私の天使。天から落ちたひと」というキャロルの讃嘆のほうだった。
・けれども溶暗の直前、性愛の昂奮により、ふたりの恋は狂う。狂気は顔の領域に集中している。
・それまでのふたりの交情にはあかるい出口がみえていたようだったのに、この性愛の渦中では出口がみえない。だから時間の転調のために溶暗が必要だった。
・「視ること」に淫してきたふたりは、第三者の聴覚によりしっぺ返しをくらう。旅先で一旦「小間物」のセールスをしていると自ら語った親切めかした男が実はハージの放った尾行者で、ふたりの性愛の喘ぎは隣室から彼のテープレコーダーへと収められたのだった。それを親権剥奪のための証拠物にされる惧れ。ハージの脅迫にキャロルは屈するほかなく、やがてふたたびの性愛ののちルイーズを置き去りにした。ルイーズとクルマについては、キャロルの以前のレズ相手で、ずっと人生上の親友であるアビーが引き取りにきた。
・アビーはキャロルが託していた手紙をルイーズに渡す。封を切り、慌ててひとりになってそれを読むルイーズ。文面はキャロルの声のオフとして、ルイーズの姿にかさなってゆく。この音声上の処理が、以後、映画に音声が正しく機能しない失調を、最後までしいることになる。ともあれ文面は簡潔で高貴、キャロルの教養のたかさをしめすものだった。もちろんここには原作者パトリシア・ハイスミスの属性そのものが潜んでいて、監督トッド・ヘインズは原作の二重構造を剔抉している。
・その後ルイーズ/キャロルには「ずっと会えない時期」がつづく。恋愛映画がおのれを成就するために、その時期が必要なのはいうまでもない。ルイーズの表情は硬くなり、「恋する顔」の病態が増す。あるいはその顔にすでに「何もなくなる」。
【21.引例10】
接吻は単に、求愛の鍵的技術でもなければ、検閲が禁じている性交の代用品でもなく、二〇世紀の恋愛における、顔と魂との役割の誇らしい象徴なのである。接吻は顔のエロチシズムと対をなして進んでおり、どちらも古代の段階では知られておらず、ある種の文明ではいまもなお未知のままである。接吻は単にひとつの新しい触覚の快楽の発見ではない。それは、口から出る息を魂とひとつにさせる無意識的神話を蘇らせ、こうして魂の伝達あるいは魂との密接な結合を象徴する。だから、接吻は西欧のあらゆる映画に味つけをする唐辛子であるにとどまらず、魂を官能化し、肉体を神秘化する愛の複合の深い表現なのである。
――エドガール・モラン『スター』(渡辺淳ほか訳、法政大学出版局、1976年、163頁)
【22.引例11】
口は動物の突端、あるいはこう言ってよければ、動物の舳である。もっとも特徴的な場合、口はもっとも活力のある部位、つまり周囲の動物がもっとも恐怖を覚える部位なのである。しかし人間は獣のような単純な構造ではないので、どこが始まりなのかを言うことすらできない。
――ジョルジュ・バタイユ「口」『ドキュマン』(片山正樹訳、二見書房、1974年、129
頁)
【23.指摘6:再会の失敗、けれども大団円】
・旅先で撮ったキャロルの写真を、戻ったアパートの部屋を暗室にして次々現像してゆくルイーズ。会いたいきもちは募るが、キャロルに電話をかけても無言で応じられる。録音によって乱調したふたりの関係では、音声が失調したというしかない。やがてルイーズは写真の腕をみこまれ、タイムズの仕事に就き、生活を立て直す。いっぽうのキャロルは心理療法士のカウンセリングを受けながら、ハージの両親の監視下でのみ愛娘リンディに会える、生活の去勢をこうむりつづける。顔が荒廃してゆく。とうとう彼女はこの不自然な生活を断とうと決意、娘への共同親権を諦め、面会権のみを主張するようになる。むろんハージとは別れるのだ。
・冒頭場面への回帰。ただし前後関係やショットの角度が新規化されている。キャロルが走り書きメモをことづけ、職場のルイーズを、ゆきつけのレストランに呼び出したのだった。けれどもルイーズの表情は硬く、会話は進まない。音声の失調はまだつづいている。ルイーズの視線がつめたい。キャロルは年長者の余裕を自己演出して、眼差しをやわらかくしている。キャロルは家を売る、そのあとのアパートで一緒に暮らさないかとルイーズを誘うが、ルイーズは拒む。9時からの会食にも同席を提案するが、それにもルイーズは応じず、たまたまそのレストランで出くわした友だちの誘いに乗り、別のパーティへ出かけてしまう。車中。冒頭シーンへの回帰がここまでつづく。ただしそのパーティは若さにまかせたスノッブたちのくだらないものだった。ルイーズはパーティをぬけだす。タクシーで目指すのはどこか。
・ラストシーン。キャロルが会食すると語っていた場所に赴いたルイーズ。キャロルの姿を不安げに探す視線。その視線により、彼女に「恋する顔」が恢復している。部屋の奥にキャロルの横顔がみえる。ここで撮影にややスローモーションがかかる。結果、場内のひとのさざめきがきえ、弦楽曲だけがそこに加わってくる。音声の失調はこうして完成される。ルイーズの顔へのわずかな手持ちトラックアップ。奥行きにキャロルのいるルイーズの主観画面が手持ちでゆれる。逆構図の応酬。見つめ合う者どうしの主観切返しではないから展開は非対称だが、最後の瞬間、対称性の兆候をおびる。近づくルイーズ。垣間みえるキャロル。だんだん近づくと、その顔が社交の要請から笑みを浮かべている。ふと視線がルイーズをみとめる。顔が締まる。さらに近づくルイーズ。口許がわずかにゆるむ。腕を組んだまま見返すキャロル。その口許もわずかにゆるむ。手持ちカメラによるゆるやかなトラックアップは突然の暗転で断ち切られる。劇伴音楽は響いているが、ふたりは無言のままでしかない。
・しるした「わずかに」というのが重要だ。「わずかに」だけが表情の本質だからだ。あるいは無表情と有表情の「わずかな」隙間に、本当の表情がある。そこにこそ「顔の恋」がゆらめく。作品は縮小をもって最大をおわりにしるした。ジンメルからの【引例4】をもういちど確認してほしい。そのようにふたりの眼がわらっていたのだ。
【24.指摘:その他】
この作品では、決定性を直截化せず、各シーンを付帯状況までふくめて間接的・事後接続的・やわらかにしめし、結果、観客に想像と推進力をもたらす、脚本の上品で効率的な抑止力をも讃美しなければならない。テレーズの言語能力が秀逸なのはもちろんだが、戦前の厳格な女子教育によって、キャロルの発語にも教養と凝縮と修辞とニュアンスが豊富で、それがテレーズ=観客の愛着をさらによびだしている点も特記されるだろう。キャロルの発語は当時のなかでさえ「旧い」。このことが「顔」以外の映画の「ルック」とも連動している【引例12】。
【25.引例12】
エドワード・ホッパーの絵を思わせるショットが何度も出てくる。ロバート・フランクやヴィヴィアン・マイヤーの写真を想起させるショットも眼につくが、色合いまで含めると、やはり脳裡に浮かぶのはホッパーの絵だ。ダイナーの内部、屋根の傾斜、窓ガラス越しのショット、ベッドに腰かけた女。
どの構図も揺るぎない。確固としているというよりは、沈着で、隙や乱れを感じさせないのだ。といっても、ぎこちなかったり窮屈だったりするわけではない。みごとに堅牢で、しかも体温や脈拍を感じさせる。衣裳や美術も、当然、いそいそと協力している。
――芝山幹郎「パルスポイントのある映画」(『キャロル』劇場プログラム、ファントム・フィルム、2016年2月)