私の好きなもの
《私の好きなもの》
ある食べ物が飲み物に似ていること(たとえば山芋のすりおろし)
剥かなければ食べられないもの
負担のない詐術のような上り坂(明治大学の脇からアテネフランセへゆく径など)
ちいさな疲労
疲労によりみえにくくなっている遠方
デミニッシュ・コード
伏し目のうつくしいひと(女優ではなく)
色彩のこぼれる声
先メロにより文法破壊の生じた歌詞
胡椒のにおい
廃園(なおも花が咲いていれば)
ヴァルター・ベンヤミンの過去のかたりかた
傾向としてのセルフ・ネグレクト
主格のきえた構文連鎖(しかも動詞の終止形連鎖)
幾何学的な木造建築
回転一般
護岸されていない水辺
メランコリックな大型犬
とつぜん出会った八〇年代ふう雑誌文体の発展形
「線」「比例」など視覚原理を考察する文章
「展開」「和声」など聴覚原理を考察する文章
順延
敬虔さ
自分自身を待つこと
論理でわらわせるもの
湿度のひくい曇り日(秋などの)
少年的な女性
裸身の賞玩
調和のとれた三人で出歩くこと
廃サイロ
断章でつながれた映画
与謝蕪村
エクスタシー発作にいたるまえの前兆的文章(みじかければ注意が要る)
動物番組
音色と楽想の縮減をそのまま展開している演奏(マーク・リボーなど)
繊細に調理された鶏胸肉
遺書のない生
かつてした鉄道旅行(大糸線、三陸鉄道、根室線が三大路線)
間歇的でみじかい睡眠
パウル・クレー
にんげんの手を精巧にしるす画
放棄をうたう詩句
古代中国にあらわれた奇妙さの体系
「分割」論ともいえるアートっぽいマンガのコマ割り
クライマックスで「悔悛」をえがくドラマ
うすいサンドイッチ
こもれび
寓喩
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授業であつかうため、ひさしぶりに『彼自身によるロラン・バルト』を再読している。《私の好きなもの》の断章にいたり、むかしをおもいだした。立教での授業のため、当時仲のよかった諸賢(いまや故人も絶交者もいる)に、バルト同様の「私の好きなもの」を書いてもらい、それをプリントで配布したのだった。委細ご覧になりたければ「阿部嘉昭 私の好きなもの」でググってください。ぼくじしんの流行と不易もわかります。