台北ストーリー
【エドワード・ヤン監督『台北ストーリー』】
エドワード・ヤン(楊徳昌)の映画の特質、そのひとつに「複数性」がある。登場人物の数が多く、たとえば「顔」が台北の背景と相俟って、アジア的外観を一種「みえる闇」として緊張度高く繰り広げるばかりではない。挿話、場所、運動、光陰、感情、それぞれの「数」が映画一篇のなかにはちきれんばかりに具体的に多いのだ。それらは破裂寸前にふくらみきっているようにみえて、映画組織、その静謐の全体のなかに、緻密きわまりなく配剤されている。伏線とその消化、自然化、一過的に存在したものの事後的な了解、映像の不吉な強度、非親密性、つめたさ、これらがみごとに調和し、反復的な鑑賞により、観るごとにさらなる魅惑を決定づけてゆく。
台湾新電影〔ニューシネマ〕の双璧エドワード・ヤンとホウ・シャオシェン(侯孝賢)が理想的な共働を樹立した記念碑的な傑作、『台北ストーリー』(『青梅竹馬〔幼馴染み〕』八五)をひさしぶりに観た(ホウは本作の製作、脚本〔クレジット上はヤンと朱天文との共同〕、主演)。かつて作品を最終確認したのがダビング劣化した英語版のVHSによってで、それも九〇年代の前半だったから、ほぼ四半世紀ぶりの再会となる。上映はマーティン・スコセッシ、ホウ・シャオシェンらの共同作業により復元されたニュープリント版。ヤン映画の一時期の特質、鈍色に統一された無彩色性のつよい画面の、くらくひきしまった「映像の肉」が鑑賞する眼にいまも新鮮にからみついた。動悸した。
ヤンの画面の多くでは、棚や障子などによって画面内に矩形(四角形)がこまかく繊細に重畳する成瀬巳喜男映画とはちがう形式で、矩形が重畳する。二間をつなぐ部屋の開口部、窓、鏡などがそれら矩形の「材料」となるが(そこに反映や影が生起する)、独創はそれががらんどう空間でのショット分解においてとりわけ強度を発揮する点だろう。
『台北ストーリー』冒頭、永すぎた春をかこつ幼馴染みとのちに判明する阿貞(アジン=蔡琴〔ツァイチン〕扮)と阿隆(アリョン=ホウ・シャオシェン扮)のふたりが、父親と折り合いがわるく実家からの引っ越しを決意した阿貞の要請で、マンションの空き室を検分している。静かな立地もあって物件を気に入り、家財の置き方を夢見がちに構想する阿貞にたいし、阿隆はバッティングフォームを仕種するなど気のはいらぬようす。やや不穏に開始されたそんな映画時間のなかで、間取りの細部を確認するふたりの別々のうごきにしたがいカットが割られる。その一連で確実に「空舞台〔エンプティ〕ショット」を織り込むのがヤンの流儀だ。結果、「エンプティ」こそが不吉に増殖してゆく(それはのち、エレベータの開扉時などへと飛び火してゆく)。
作品内における「がらんどうの空間=空き部屋状態」の反復の多さは只事ではない。すでに結婚を留保しつづける幼馴染み阿隆との倦怠に耐えていた阿貞が、のち阿隆が「東京の恋人」と帰国前、東京で密会していたと露顕、腹いせのように妹の若い男ともだち(年齢差がおおきい)と火遊びをし、それが作品の最終的な悲劇を招く導火線となるが、この束の間の若い恋人が仲間とたむろするのが、ちかくに富士フイルムのおおきな電飾看板のある、繁華街のなかの廃ビルだった(それは不良仲間たちの秘密のアジトとして機能していた)。むろん取り壊しが予定されているのだろう、建物のなかにはなにもなく、打ちっぱなしのコンクリート壁面が寒々と露呈されている。阿貞とのアメリカ行を一旦は決意し、その資金捻出のため阿隆が売り払おうとする実家もすでに家財が整理された空虚状態だった。
あるいは、当初、不動産ディベロッパー会社のもとで経営者の有能な「助手」として働いていた阿貞は、施工ミスの係争事の弱り目につけこまれ所属会社の買収をくらい、その役員でも秘書でもない役職を買収先から難詰され、一旦は意地で退社するが、作品ラスト、旧知で年長の女性経営者から、コンピュータを分野とした新会社の経営補佐の話をやっともちこまれる。このときもその相談をもちだされる場所が、借り手を待つ空き家状態の社屋空間だった。この空間から異様さによって伝説となったラストカットが招来される。いつしか建物外に出たカメラが、外壁を構成しているとおぼしい、山並み状につなげられた反射性のつよい強化窓、その連続表面を凝視する。窓の鏡面は、角度がつけられているのかなんと地上を映す。高度成長下の「交通増殖」をしるす台北の道路があり、そこにクルマが行きかうのだが、数の多さのみならず、鏡面の不連続が原因となって動く車影も不吉に寸断される光景の惨状が、台北の疎外的風景論もをしるすようにうかがわれるのだ。
そう、「エンプティ」増殖の地になっているのが、「ただの増殖」だろう。クルマの所有台数が殖え、しかも信号機設置が未発達な台北ではうんざりするほどの交通渋滞が日常化し、住民はうごいているクルマを縫いながら道路を渡るのが一種の景物としてずっと語られているが、阿隆、阿貞ともに、そうした道路横断のすがたを作品に刻印される。阿貞は影ぼかしなどのサングラスを作中着用することが多く、キャリア女性特有の神経質な自己防衛の所産と想像されるが、彼女の部屋にも眼鏡=サングラスのコレクションが異変の印象をあたえるほど増殖している(眼鏡についてはギャグも織り込まれている――買収先の面々五、六人が不動産ディベロッパー会社にはじめて乗り込んできたとき、社長室の経営者と阿貞が「そのうちの中心文物はだれか」と確認しあう――「眼鏡をかけている男だ」と経営者はいうが、サングラスをふくめ全員が眼鏡を着用しているようすが念押しされる)。阿貞の父親は愚痴の多い肥り肉の老年だが、権威のおしつけとともに家業の経営才覚のなさを疎んじられている。しかも筋のわるい金融会社からの借金が、もう立て直し不能なほどに「増殖」している。
印象的なやりとりがある。窓がロングに高くならぶ建物内での引き構図のなか、窓際階上の渡り廊下部分で、阿貞と不動産ディベロッパー会社の経営者が話し合うくだり。ヤン映画らしい逆光の照明設計が異様だ。やがてふたりは窓外を見下ろし、ふたりの主観である地上の台北光景が俯瞰される。建物の外観がこまかい矩形重畳をしるすが、かつてはモダンビルとして建てられ、いまはふるびてしまった特性のない輪郭がつづいているだけだ。経営者がおよそこんなことをいう。あのなかには自分の建てたビルもあるが、みな似たり寄ったりで、いまではどれが自分の設計か見分けがつかない。増殖は台北では個性差の剥奪、殺伐たる平準化の所産として機能するしかないのだ。風景の選択にそんな恐怖感覚を容れるのがヤンの感性だが、むろんこの形式はヤンの次作『恐怖分子』でさらなる彫琢と沸騰と非親密化を迎えることとなる。
上述のほかにも、『台北ストーリー』において「場所」は多い。義兄の経営する食品商社の運営をロスで手伝っているとされながら、台北にもどると阿隆は少年野球指導のかたわら古い零細商店の櫛比する迪化街で布地商を友人と営んでいる。商売は栄えておらず布地を棚にならべる商店空間じたいエンプティな感触がある。阿隆の住むマンションの一室はあまり定着的でない成り行きでいつも捉えられる(不在時に電話が鳴り、阿隆のメッセージを入れた留守番機能の作動するようすこそが反復される)。くわえて、極貧と混乱にあえぐ阿隆のリトルリーグ時代の盟友・アキン(阿欽=呉念真・扮)が子供たちと住まう長屋の陋屋。育児放棄してやがては出奔することになるその妻が入り浸る雀荘。賭け事といえば阿隆が所有する自慢のクルマまで失うことになるポーカーの賭場。阿貞とディベロッパー会社の経営者が食事する庶民向けの料理店と、その経営者の自宅(彼と妻の仲は冷えていて、阿貞との親密な間柄も関係しているとおもわれるが説明は明示的ではない――しかも「子がかすがいとなった」のだろうか、のち妻との仲を彼は修復させる)とでは「豚レバー麺」の重複ギャグが仕込まれる。
もちろん作品でもっとも風情があるのは、旧知の間柄として阿隆もが出入りする阿貞の実家だ。日本式建築が取り入れられた重厚で伝統的なつくりだが、阿隆饗応の場面があっても、戸主の経営は逼迫し、長年押さえつけてきた老妻も蚊帳の外、ましてや阿貞につづきその妹までが姉の新居に移ったのだから、家屋内は空虚感を湛えている。土間から奥座敷を見渡す構図に夜の家闇の落ちているのがとりわけ素晴らしい。恐らくその旧式の風情にこそ阿隆が惹かれているはずだ。だから彼は血縁者ではないのに長年の交情から、阿貞の諌止もかいくぐって借金にあえぐその父親に義侠にとんだ資金援助をするのだろう。阿欽にたいしてもそうだが、彼は「敗北」の決定された者にたいしてやさしい義捐を淡々とくりかえす。それは「侠」しか自らの存在意義がないとひそかに焦燥しているためではないか。
その他の場所――阿貞によばれて阿隆が赴いたダーツバー。阿隆の紹介の段になり、「生地商」と説明したのに、何度も「紡績業(経営)」と取り違えてみせる阿貞の男ともだちに驕慢な悪意をかんじた阿隆は、五、六人でなされている会食の席を離れ、店の端にあるスペースでダーツに興じている。そこへ厭味な男の「からかい」がさらに入る。そろそろ会食の席を辞去したいという阿隆に、男はダーツ勝負をして勝ち点を時間にしよう、つまりあなたが勝ったら望み通りの辞去は構わないが、自分が勝ったら勝ち点に比例して店にのこるようそそのかすのだ。時間が賭博に付された恰好。展開から男がダーツの名手と判明する。投擲された矢がすべて的の中心に刺さるのにたいし、相手のつよさにさらに平常心を失った阿隆は、的の中心を次々と外すようになり、負けが異様に「増殖」してしまう。このとき男が揶揄する。リトルリーグのかつての名物エースが、こんな俺に負けるなんてと。阿隆に刻まれた能力喪失、不能。阿隆が隠しつつも実はその中心となる略歴を知悉しての男の振舞だったのだ。阿隆は怒気を発し、掴み合い、殴り合いの喧嘩になり、会食は陰惨さのうちに終了したことがやがて間接的に判明する。阿隆の頬に痣がのこる。
先取りしていえば阿隆は、『勝手にしやがれ』のベルモンドと比肩するような「犬死」を路上で迎える結末となるのだが、少年時代の阿隆の、リトルリーグでの活躍ぶりはその犬死の場所に、TV受像機などが不法投棄されているのをきっかけに、画面部分が往年の試合経緯を「ふと漏らす」作品唯一の「幻想シーン」として召喚される。一九六九年、台湾の少年野球チームは世界リーグで優勝する快挙をなしとげたのだった。これは史実で、これが大陸中国との対比から世界内で孤立に向かいだした台湾に、成長をもたらす象徴的原動力となった。劇中では幼くしてその英雄となったのがエースだった阿隆だとわかる。
彼はその後の人生がうまく運営されていない。それは金融業者にも賭博者にも悪い因縁がのこっている点にあきらかだし(誠実な顔だちの阿隆は作品の限定局面でときおり不良時代の片鱗をみせる)、米国と台湾(と東京と)で宙吊りとなり、曖昧に少年野球チームを指導しているのにも如実だ。呉念真演じるかつてのチームメイトの阿欽はさらなるその陰画だろう。小学校高学年時に体格が良く野球選手として将来を嘱望された彼は、その時点で身長の伸びがとまり、また投手として変化球を駆使をしたため腕を故障して撤退を余儀なくされる。刑務所暮らしも経験、前科もちとなった彼は現在、就職がならない。賭博依存症の妻とでなした三人の子供が重荷となり、妻の家出に泣くしかないのだ。瞬時の栄光が永劫の挫折の引き金となる熾烈な運命法則が支配している。
渡米してコンピュータ・プログラムを学んでも家族の反対を押し切って映画の道に踏み込んだ実際のエドワード・ヤンは、アメリカン・アイビーの服装をこのんだが、自己形成期には日本のマンガや映画にもふかく親炙した。ヤンはサブカルチャーや哲学をつうじ世界的感性を養った。ところが台湾全体ベースでみると、『台北ストーリー』の撮られた八五年は、日本文化の浸透はまだ勃興期。「カラオケ」だけが日本からの表立った輸入文化だった。作品には阿隆の行きつけという設定で「銀座カラオケ」という雑駁なネーミングのカラオケ酒場が何度も映る。
むろんそれは国民全体のアイデンティティ・クライシスと連接している。象徴が阿貞の妹だ。彼女は姉と住まうマンションにのこされている阿隆のバッグから引きずりだしたVHSカセットをデッキに装填、映像をたのしんでいる。東京を迂回せず、じかに米国から台湾に帰国したとする阿隆の映像資料には少年野球指導のための大リーグ野球の録画映像しかないはずだった。ところが妹のみているものは日本のプロ野球を録画したもので、そのようすに接した姉の阿貞は阿隆の虚言を見破ることになる。ところが野球に興味のない、しかも渋谷や原宿を熱く語っていた妹は、そのCF部分、つまり物質文化のみを早送りを介して飛ばし見していたのだった。
ヤンの配剤が冴える。CF映像で印象づけられたのは、八〇年代当時放映されていた、美少女のおもかげを誇るナスターシャ・キンスキーの起用された美容品の宣伝。彼女は画面では英語で語り、そこに日本語テロップが付されるので、それが日本で録画された映像だと即座に了解されるのだ。「英」語圏で活躍する「ドイツ」系女性を「日本」人が撮った。その映像をさらに「台湾」の少女が熱狂的に観る。このばあい「増殖」は入れ子的に深化し、内破寸前にいたっているといえるだろう。
「世界差」はあるのか。「ない」というのが阿隆の所感ではないか。職を意地で辞した失地回復のため、結婚と米国への移住を夢見る阿貞にむけて阿隆はいう。それらが実現されてもなにもかわらないと(むろん「なにもかわらない」は、のちのヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』でもヒロイン小明が表明する)。ロスには台湾人社会ができて、米国にいても台湾人は自閉するばかりだ。TV漬けにもなっているが、その映像も世界各地で差異はなく資本からの浮薄な使嗾に富むだけ。人を疎外する平準化は世界大に及んでいる。どこもが辺境で、どこもが中心だ。生きるための苦労も、一時の慰安も、結婚を回避するしかない不毛なサスペンド状態もまた世界の普遍相ではないか(そうして作品は、アントニオーニへと接近する)。
そうかたる阿隆、対峙して阿貞のいる室内空間(阿貞のマンション)では仲の修復のため部屋灯りを消そうとする阿貞と、むりやり点けなおそうとする阿隆との、スイッチをめぐる葛藤がある。部屋は長いスパンをつうじ明滅しているのだ。それは最初にその場所に住もうかどうか検分しにきたとき、阿隆がまだ電気の通っていないながら点灯スイッチをかちゃかちゃいわせていた動作の反復だった。むろん「点滅」「停電」は、『恐怖分子』『クーリンチェ少年殺人事件』にも反復されるし、『台北ストーリー』のディスコのシーンにも停電のディテールがある。ひかりの不安はヤン映画に必須の材料だろう。
そういえば日本から一時帰国した「東京の恋人」(彼女は阿貞演じるツァイ・チン〔台湾の有名歌手だ〕とちがい美形といえる)と阿隆が夜、再会をする抒情的なシーンがあるが、その「東京の恋人」もまた日本人の夫と離婚寸前という危機を抱えていた。だれもが人を愛する才気をもてない。ちなみに「東京の恋人」の台北の実家には日本語の流暢な祖父がいる。彼女は日本人の血をクウォーターで受け継いでいるのではないか。言い忘れたが、彼女は学生時代、阿貞の親友だった。だから阿貞はその「東京の恋人」と阿隆の再会をゆるさないのだ。阿貞は少女時代、家庭内で孤独だった。彼女は野球の練習帰りの阿隆をひそかに見るのをこのんだ。野球道具と空の弁当箱を抱えた彼の鳴らす物音に和んだとふりかえるが、それはその親友もおなじだっただろう。
「東京の恋人」にたいする阿貞のルックの劣位。これはエドワード・ヤンが意図的におこなった配剤だろう。阿貞とラストシーンをともにする女経営者も、阿貞の妹も、あるいは母親も美観的には阿貞の上位に属する。「悪相」ともいえる阿貞のルックは通常の映画ヒロインからは逸脱していると感じられるが、それがないと台湾映画のルックが保たれないとおそらくヤンがかんがえたはずだ。つまり無表情を基底に、感情が奥底からゆらめいてくる深浅の不気味さが、ポストモダン建築が並びはじめた当時の台北光景と相即するのだ。むろん、サングラスのコレクションをもち、キャリア女性として気概を崩さず、同時に(性描写はないが)妹の男ともだちを熱くさせる火遊びをおこなう阿貞、その行動の端緒となっているのも容貌コンプレックスではないか。妹の男ともだちのバイク後部にまたがり、海へとデートするとき着用される最も濃いサングラスによって、阿貞のハードボイルド感が極まる。もちろんそれは「ゆれ」のなかにある。
いっぽう相手役・阿隆役のホウ・シャオシェンはどうだろうか。映画神話のなかの聡明な自然児、義人という印象のつよいホウは、この作品の撮影でヤンから具体的な演技指導はなかった、だから「自分自身」を画面に存在させただけだと述懐するが、それもあって、瞳の澄んだ「少年」のおもかげを湛えつづける。軽く額にながされる自然な前髪から、往年の時任三郎にすこし似ているともおもう。しかも同時にたたずまいは気弱で、意思表示がなく、ときに沈鬱な自己抑制の曇りまでかんじさせる。
彼が作中でしめす怒気はいくつかある。前述したダーツバーでの厭味な男にたいして。無力な阿貞の自宅に押しかけ残酷に借金返済を迫る非合法金融業の男たちにたいして。麻雀にうつつをぬかす阿欽の妻にたいして。「東京の恋人」との密会発覚で悋気を沸騰させ、阿隆のもちものをドア外の階段へと放擲した阿貞にたいして。阿貞のストーカーに身を堕としバイクで乗り付けマンションの玄関口で帰宅を待ち構える妹の男ともだちにたいして。いずれも怒気の沸騰して構わない局面なのだが、世界との均衡意識のゆえ阿隆の表情は爆発一歩手前で聡明に抑制されている。だから怒気は対象ではなく彼の内面に向かい、彼自身を傷つける。観客は怒りではなく傷を視る。ホウ・シャオシェンの「存在」なしにはありえなかったことだ。
前述のようにホウは、ヤンの演技指導がなかったから、自分自身をただ画面に存在させただけだといったが、気をつけなければならないのは、都会っ子、米国帰り、結婚に慎重、台北の歴史的深部に愛着する義人、といった阿隆にあたえられた属性は、じつはヤン自身からの由来だという点だ。この作品の阿隆=ホウ・シャオシェンのうえにはヤン自身が投影され、ふたつは混淆をえがいている。この混淆の感覚が、傷の感覚と似通うのだ――ほんとうのふたりは個性差がつよく混ざりあわないのだから。阿隆の造型が澄んで哀しいゆえんだろう。本当の名演。だからその後の人生でのふたりの齟齬をおもい、かなしくなる。
物語の説明を間接的にし、作中のいろいろな「屋内」をこうしてふりかえってきたが、じつはこの作品の最大の空間は「路上」だった。最後にこの点を説明しよう。「路上」とはなにか。それは徒に何事かが擦過するだけのむなしい空間だ。加算があるとすれば、それは事故としてしかおこらない。ヤンの映画では運命の直進性としての路上の奥行きが遮断され、選択の可能性としての四つ角の葛藤が銘記されない。そのぶんだけ路上は生き物の動脈となって、室内を外部から縫い込む恐ろしさにすりかわる。ただしそのばあい必要とされるのが多く「夜」なのだった。
阿隆との仲が疎遠となり、阿貞が廃ビルの悪ガキたちと付き合いをふかくしていった段。なにかの間違いのような成り行きだが、その間違いは荘厳される。後部席の阿貞をふくめた彼らバイク集団が夜の台北中心部の路上をおもうさま疾駆する幻惑的な光景によって。「複数」で組織されたバイクの走りは、台湾総督府をはじめとしたいかめしい中心部の建造物を、その速度によってこすりあげる。摩擦の痛みが画面を走る。しかもその夜は国民の祝日らしく建造物に細かい電飾灯がほどこされ、夜がだれもいないまま「夜以上」になっている。既視感がある。ローマの諸相をエッセイ形式でとりあげ、ローマの実質に肉薄しようとしながら、しかもついにローマを掴むことはできないと自覚した映画が、ローマの中心部にバイクの暴走集団を走らせ、それを無為に脈動させる一連をラスト映像とした『フェリーニのローマ』がそれだ。対象把捉の不可能は、対象のなかを走る暴動により転位される。『台北ストーリー』『フェリーニのローマ』、ふたつの呼吸はおなじだ。
阿隆が阿貞の父親の借金を肩代わりし、ついに阿貞との米国移住資金をとりくずしてしまったのち、阿隆はその父親を呑みに誘う。自分のだらしなさを恥じるその父親は当初固辞するが、義侠心に富む阿隆は、恥かしさにこそ酒がそそがれるべきだという考えなのだろう、その父親を酒場に連れ出した。ふたりがしこたま酔って路上――具体的には戦前建築ともいえる豪勢で風格のある建物の玄関部分に坐りながら並んでいる。一体化したふたりに交わすべきことばはもうない。
編集された画面は次々に歴史的な建造物のファサード部分を連鎖させる。そのいずれにも少し離れた道路から、通過してくるクルマのヘッドライトのひかりが投影される。ひかりの「複数」が反復され、曲線移動し、彫りのふかい建物ファサードの質感をやわらかにかつつめたく撫であげるのだ。ひかりは届いている。ただしそれは一時の感覚にとってそうおもわれるだけで、ひかりは建物のもつなにものをも変えることができない。ところが無為には無為なりの運動があって、それに魅了されることは虚無に親しむ心性をつくりあげる。美と虚無の繊毛を介在させたような接触、幾筋ものひかりによる建物の深部への絶望的な愛撫、これまた『台北ストーリー』では忘れることのできない映像のながれだ。ひかりが画面を撫でることを、さらに視線じたいに変貌した観客が撫でる。映像にはそんな再帰性しかない。
そうして、阿隆が「路上で」犬死するむごたらしいシーン、じつは散文性をもたせるため周到に上記のようなうつくしさが除去されたシーンが到来する。ただし上記ふたつのくだりにあった「分解」については、小道具「タクシー」がべつに役割をうけもっている。ヤンの映像的洞察が素晴らしい。どういう経路か具体的にえがかれないが、阿貞は火遊びでつきあった妹のともだちの少年を厭いだした。タクシー帰宅しようとすると、バイクをマンション玄関前に付けて、少年が阿貞の帰宅を「張って」いる。タクシー内の阿貞はクルマのさらなる発進を運転手に依頼、少年をやりすごす。行き先をぐるぐる探す昼間のタクシー、そのフロントガラス越しの光景が一旦不安に迷宮化する。迷宮化が都市を増殖させるのだ(ベンヤミンはその機能を最大に負うのが路上客引きをする娼婦だとつづった)。やがて彼女は帰宅を諦め、阿隆行き着けのカラオケ屋に入り、問題が起こったからそこに自分を迎えにきてほしいと阿隆に電話をかけるが不在、メッセージだけをのこす(阿隆は前述のように阿貞の父親と吞んでいた)。
やがて阿隆と阿貞がタクシーに同乗し、阿貞のマンションにもどると、玄関先に不穏に待ち構える者はいない気色だった。部屋まで送ってほしいという阿貞と、部屋に入れられた阿隆のあいだにさきほどしるしたようなスイッチ点灯をめぐっての悶着があり、阿隆は結婚にもついに同意しない。相手を傷つけ、阿隆が辞去する。タクシーが停まっている。乗り込もうとして、ふと問題の少年がバイクを乗り付けてその玄関前に待機しているのに気づく。阿隆はタクシー運転手を待たせ、少年に近づき意見をいう。阿貞はもうお前には会わない、諦めろと。
タクシー車内。路上は都市部を離れ、寂寥を増している。リアウィンドウに捉えられるバイクのフロントライト、ふたつのひかるめだま。運転手が阿隆に注意喚起する、さきほどのバイクが執拗に尾行していると。話をつけるから一旦クルマをとめ待機してくれと依頼するが、運転手は、最近は物騒な事件が多く、面倒は御免とその場での阿隆の下車をうながす。料金を払い阿隆は下車する。タクシーは去る。
阿隆は少年に近づき、バイクから引きずり下ろす。バイクは倒れる。少年を殴る。抵抗する気配がなくなり、阿隆は背を向けて歩きだし、くるだろうタクシーを拾おうとする。そのとき身を起こし近づいてきた少年に不意に抱きつかれる恰好となる。怪訝な身体表情。少年はバイクで去ってゆく。阿隆は存在の本質的な不如意により、当初、痛みをかんじることができない。脇腹に異変をかんじそこを押さえ、あたらめてみるとてのひらが血まみれになっている。痛みより光景が先行しながら、先行した光景が痛みを事後確認させる「遅延の法則」。あらたなタクシーが一台近づいてくるがあげられた阿隆のてのひらが血まみれなことからそれは通りすぎる。こんどは現実的な「擦過」。数歩すすんでとりあえず路肩に腰をおろした阿隆は、そこに不法投棄されたTV受像機の画面部分から前述の「幻」をみて、からだを横たえてしまう。
彼の今際はしるされない。時間経過のあった翌朝、そのからだがさらなるタクシー(だったか)の通報により救急車へと搬入されるのを冷徹に記録するだけだ。運転手は通報の役目を果たし一服している。むろん映像の呼吸だけでなく、横恋慕するちんぴら少年からのとばっちりで犬死してしまうその経緯も冷徹なのだが。もんだいは、その死の経緯すべてに、運命の運搬人としてのタクシーが介在しながら、タクシーそれぞれが阿隆の孤立無援をふかめる点ではないだろうか。阿隆をめぐる計三台のタクシーのうち最初の二台が阿隆に「味方」すれば彼は死なずに済み、三台目も発見者にならなかったかもしれない。運命は近づき、その近づきにより対象を放棄するのだ。だから悲劇が醸成された。
――八月二十五日、札幌シアターキノのレイトショー(最終日)にて鑑賞。