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黒沢清・散歩する侵略者 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

黒沢清・散歩する侵略者のページです。

黒沢清・散歩する侵略者

 
 
【黒沢清監督『散歩する侵略者』】
 
「他の動物にたいし、人間は二足直立歩行する独自性をもつ(それで頭脳と感情が発達した)」――このたんじゅんな事実を映画のなかにどう中心化させるかが、『散歩する侵略者』を撮るにあたっての黒沢清監督の着眼だっただろう。前田知大(劇団「イキウメ」主宰)の作・演出の同題舞台が原作。ただし観劇したわけでも脚本を読んだわけでもないが、なにしろそれは舞台だから、その空間限定性のなかで「歩く動作」をさほど前面化することは困難だろう。つまり「演劇→映画」の変更は、「歩行」の点綴を頻繁にすることでまずはなされたはずなのだ。
 
速「歩」調で断絶を連続化させるアヴァンタイトル部分が詩のようですばらしい。水槽をおよぐ金魚。金魚すくいをするしろく華奢な手。その官能的な様相が黒沢『アカルイミライ』でのクラゲの水槽をおもわせる。すくいあげた金魚をビニール袋中の土産にして自宅へ帰るセーラー服姿の少女。スカートの裾下だけの(つまり歩行を露わにしない)画角からしろいひかがみのきよらかなエロスが強調される。このとき寓意的機械的といえるほどに歩行エキストラが空間の深浅を縫っている。あるかなきかの時間経過。少女の帰った家屋の玄関から中年女が一瞬恐怖の形相で飛びだすが、みえない手にふたたびひきこまれる(玄関から飛びだす者を全貌のみえない手が家屋内へ暴力的にひきもどす瞬時のシーンは、塩田明彦『害虫』、万田邦敏『接吻』にもあったが、それぞれの角度がちがう。塩田=水平ロング、万田=俯瞰、黒沢=斜め)。
 
室内。血まみれの惨状。のちの進展からわかるのは、そこで中年の男女がからだをバラバラに惨殺されているらしい(狼藉が過ぎて現状の画面には何があるのかわからない)。ゆかの血だまりに先刻の金魚が撥ねている。少女の手が血の感触をたしかめ、しかも指に付着したその血液は舐められる。時間経過。少女がセーラー服を血まみれにして路上をあるいている。ぎくしゃくしたうごき。とりわけむずがゆく不機嫌に上体をひねらせて、歩行そのものが自分に馴染まない窮屈なようすがつたわってくる。ロングの正面縦構図。クルマがゆきかい轢かれそうになっても少女は一切頓着しない。それでハンドルを切り誤ったクルマ二台が少女の背後で衝突を起こす。そこにタイトル「散歩する侵略者」。カットアウト。
 
タイトルからすると、黒沢の本作でもドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』に代表される宇宙人侵略物がイメージされるだろうが、黒沢は得意の恐怖演出を基本的にほぼ封印している。シーゲルの歴史的傑作にあった、閉域性によるサスペンス演出も、「映画史上最も怖い接吻」もこの映画にはない。ただし同様の、異様な説話効率はある。ところがそれは原作が演劇であることから科白の饒舌、その痕跡をも残存させていて、奇妙な不統一性をかんじさせる。ともあれシーンは演劇的桎梏をとりはらい、映画的に跳び、長いレンジでの空間閉塞は回避される。なにもかもがざわざわした混淆的な感触だ。
 
この映画のジャンルはなにか。宇宙人侵略SF。侵略者と通常人間との会話の齟齬をうちだすコメディ。その会話が人間の条件にふれることからの哲学映画。宇宙人侵略によってウィルス感染をもたらされたと誤認する人間側から生ずるパンデミックパニック映画。生起しつつある事件の本質に迫ろうとする無頼なジャーナリスト桜井(長谷川博己)が少年少女の姿をした侵略者と放浪をともにすることで印象される疑似家族(父子)映画。厚生労働省・警察・自衛隊が結託し、侵略者と人間のつがいを情報戦により追走してゆく陰謀サスペンス。
 
あるいは百年たかだかで決定される「世界の終わり」を三分間に圧縮させたらどんな感慨がうまれるかという挑発的な終末映画(黒沢はすでに『回路』を撮っている)。そして主体となる夫婦=松田龍平/長澤まさみが最終的には愛を「彼方」にどう伝播させるかという、観る者が気恥ずかしくなるほどの恋愛=愛情映画(これについても黒沢はすでに「愛の探索」を主題にして『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を撮っている)。
 
いずれにせよ多様なジャンル意識が、ことあるごとに画面連接に侵入し、統一性をずらし、そこでの脱臼感覚がわらえる。リズムが可笑的なのだ。俳優たちの演技がすべてノンシャランで、深刻な場面なのに重みを欠いているのも良い(このことで喜劇的「聡明」が強化される)。つまりノンジャンル映画という映画ジャンルがあるのだ。これとて黒沢清はすでに同様の『ドッペルゲンガー』を撮っている。ただしこの映画に、統一的なジャンル名をあえて付すこともできるだろう。それが「歩行映画」だった。だから先刻例示したアヴァンタイトル部分で中心となるのも、歩行動作を身体に初めて装着したときの存在の違和感を正面ロングでしめすショットだった。この動作の「質感」を過たずつたえた「立花あきら」役=恒松祐里の、映画的奇蹟ともいえる身体的優位性と魅力についてはのちほど別段で考察する。
 
「歩行映画」――なるほど俳優たちは「歩く」。それは通常人間役でも侵略者役でもかわらない。歩行は時間の物差しになり、映画の進展的実質と混淆する。しかも会話のような意味加算の不純がなく身体的感触だけをつたえる。映画が純化されようとすれば歩行描写が特権化されてゆくだろう(むろん完全には不可能だが)。黒沢清は人物たちの会話の応酬を科白の意味単位の切り返しにして事務的に撮る退屈をきらっている。たぶん動作だけをつないでゆくことで「人間の寓意」を撮りたいのだ。数人の人間が地平線上のロングで会話なしで互いになにかをしている影絵を全篇連続的に撮り切ったら、おそらく彼の作家的欲望はみたされるだろう。
 
アヴァンタイトル後、最初のショットは、手前、逆さにもたれた雑誌誌面ナメの加瀬鳴海=長澤まさみの、困惑と侮蔑と怪訝の表情。たいする夫・真治=松田龍平との切り返しにすぐ変じ、第三者の医師も布置されて、作品の発端がしるされる。夫・真治が数日間の行方不明ののち発見されたこと。認知能力がいちじるしく欠落してしまったこと。とりわけ初歩的な人間のやりとりに支障を来していること。真治の発語からは、とぼけられ、バカにされている感じもある。のちにわかるが夫の情事の事実もつかんでいるから、直近の過去の消去は彼女にとって安定がわるい。医者はショック症状か若年性アルツハイマーかと原因を推測するがあまり深刻感がない(こうした喜劇的「欠落」に注意)。怪訝なまま鳴海は真治を黄色いクルマを停めた駐車場へと連れ帰る。このとき真治の歩行動作が、まるで機械パーツが分解するように段階的に瓦解してゆく。バカにされているのかとしかとうぜん捉えられない鳴海は、叱りつけ、夫を支えて立たせる。ただし観客はアヴァンタイトル部分をすでにみている。歩行が身体装着によってようやくなる危うい何かだという点はすでに強烈に反復されているのだ。
 
この映画に『ボディ・スナッチャー』的恐怖が欠落している理由は、この「装着」の様相に負っている。宇宙人はひそかに人間を侵食し、存在を乗っ取るのではない。のちにわかるが宇宙人は「周囲すべて」ではなく個体明示数としてはわずか三人だし、みずからが人間を調査するための「ガイド」となるべき者には明示的に自らを宇宙人と言明し、存在にはいりこむのも個体利用のためで、はいりこまれた者が固有にもつ記憶まで「装着」する。ただし人間の多くもちいる初歩的な概念がわからず、それを偶有の対峙者からさらに奪い取ろうとするのだ。それすら奪取というより装着にちかい。だから恐怖感覚が低減する。
 
もっともそれはうわべだけのことで、やがてわかるのは概念を奪われた側の人間が、概念欠落によっていちじるしく劣化することだ。人格が変わり、概念を奪われすぎると廃人化する。これがウィルス感染と間違えられる。しかも人間の使用する概念が収集されたのち、その結果は彼らの故郷へと通信機で送られる(彼らは地上で、かつ自前でその通信機を創出しなければならない――そんなとぼけた設定もある)。それが予備認識どおりならば、地球から人間がすべてきえるだけのことだ。侵略は波のように渡来する。それが恐怖かどうかはひと次第だろう。黒沢清自身がたぶん恐怖をかんじていない。うつくしさはおぼえているだろうが。
 
この映画に恐怖感覚が基本的に欠落していることは、最も恐ろしい詳細が会話で間接的に語られるだけの処理をなされてしまう点にもあきらかだろう。アヴァンタイトルの映像のながれに秘められていた意味は、のち、ばかでかい放送局支給のワゴン車を運転する「ガイド」役のフリージャーナリスト桜井、その助手席にいる天野(高杉真宙)にたいし、後部のあきらにより、「失敗談」としてなんと自嘲的に語られてしまう。論旨をより説明的にして内容を転記しよう。
 
地球に来て勝手のわからぬ自分(あきら)は当初金魚にはいりこんだ。違和感をおぼえた。自分は金魚すくいの女子高生に「ポイ」で掬われ、居場所を移した。虎視眈々と寄生先を乗り換えようとしているうち目についたのが一家の主人。乗り換えを実現すると一家の妻が大騒ぎして逃げようとしたので、それを引き戻し、勢い余ってからだをばらばらにした。人間の内部構造をさらに知りたくなり、みずからの腹を手で裂き、はらわたを分解的にとりだしているとなぜか意識が遠のいてきた。やばいとおもったとき、部屋に自分を掬ってくれた少女が入ってきたので、今度はそのからだのなかに入った。――いま綴ったことはおぞましさの一語に尽きるだろう。それをあきらは車中で、淡々と、省略たっぷりに、わらいのめして語ったのだ。
 
この映画で最も歩行に感情を要求されているのが、鳴海役の長澤まさみだ。彼女は諸感情の伝達を歩行でみごとに実現した。なにしろ彼女はイラストを描くデザイナーの仕事に就きつつ、とつぜん精神に変調を来した夫の勤め先に退職届を出し、「人間」学習のためTVのザッピング視聴を一日中つづける夫をケアしなければならない。出勤にさいし怒りながら玄関を出ての「歩き」。家を出ないでと釘刺しておいたのに帰宅したら夫が行方不明になっていて、外に出て小走りに夫を探す不安な「歩き」。「宇宙人」を自称するまえの夫の浮気が心のこりながら、「ガイド」としての自分への全幅の信頼にふと心をゆるし、夫と同道するとき往年の幸福な記憶をよみがえらせているあまい「歩き」。尾行者が数多くいると直観、知らぬふりで歩いたあと、角を曲がった途端、夫の手をとり、それまでの「歩き」を増幅させてみせる危機的な「走り」。
 
この映画のメインキャストたちはみな脚の線のきれいな男性陣=長谷川博己、松田龍平、高杉真宙で揃えられているが、女性陣では繊い脛(それはたえず素早くうごく)の恒松祐里と、そこにやや女性的なふくらみをおびた長澤まさみとが好対照となる。ちなみにいうと、実は女優を魅惑化することでは定評のある黒沢清が、長澤まさみをとてもうつくしく画面に定着している。額を出したワンレンの髪型に、ややほそみをおびた顔の輪郭があり、しかも顔色が聖なるしろさをおびて、造型の女性的な落ち着きをきわだたせている。まなざしにこれまでの長澤に多く印象された邪険さや驕慢がまったくとりはらわれた浄化がおこっているのだ。それで身体性の全体までもがなつかしさの文脈にはいる。
 
対峙する「人間」の歩行についてもあきらかにクレッシェンド型の増長が作中、意図されている。当初はアヴァンタイトル部分に代表されるように、無関係な住民の歩行が機械的に、しかもどこか謎めいた作為性をもたらすよう画面のここかしこを織り上げた。通行エキストラの無意味性の運動は、やがて有意的な尾行者の集団となり、尾行の気配が見事に画面に点在的に表象される。対象=加瀬夫妻が逃走しだすと、集団疾走が組織され、彼らは動勢と区別がなくなる。
 
あるいは主治医から真治の精神的退潮がウィルス感染の結果だという連絡が入り病院へ夫婦そろっておもむくと、院内はパンデミックパニックの様相をしるし「感染者」家族の長蛇の列ができていて、その列を乱すように精神変調者が「歩き」「走り」、自衛隊服と感染防備服の列が「縫い」、さらに新患関係者や厚労省関係者が入口から危機的に「侵入」するなど、歩行の増幅的諸形態が多様な運動性をともなって集中展覧される。このとき芦澤明子のカメラが満を持したように回転運動をおこなう。
 
ただしそうした事実的な歩行のヴァリエーションよりも、この映画の「語法」が歩行的だという点が重要だろう。前言をふくめていうと、加瀬夫妻の陥っている状況は、夫の失踪と再発見、精神の変調、夫による「人間」調査などだった。いっぽう書き落としていたが、アヴァンタイトル部分の映像はつぎのように発展する。警察と自衛隊が異様なうごきをしているとすでにつかんでいたフリーライター桜井が、つまらない取材の依頼をクライアントからうける。立花一家惨殺事件。父母がバラバラ死体のまま屋内に放置され、女子高生の娘あきらが失踪しているという。気乗りせずに現場に赴いた桜井が、そこで少年の風情の天野から干渉をうける。会話に精確さを要求しながら、目上への尊称も知らぬ奇妙な奴。彼は自分が宇宙人で、おなじ宇宙人である、失踪したあきらを探しているという。桜井と天野のやりとりは、冗談めかされながら相互の飲み込みが早く、省略的・核心接近的で、深刻な事柄を軽く語りあう長所をもつ。ところがそれでも、やはり作品の複雑な前提をも説明するため、演劇科白的な冗長さをまぬかれないし、多くは切り返しでなされる会話進展がカッティングと空間創造に凡庸さをもたらしてもいる。
 
ともあれ、この「加瀬夫妻」パートと、やがてあきらと合流することになる「桜井」パートとが並行モンタージュで進むのが、前半の作品法則となる。並行モンタージュの原理が右足を出し、さらに左足を出す「歩行」と通底するのはあきらかだろう。並行モンタージュはそれじたいが時間体験としてサスペンスをうむという三浦哲哉の指摘があるが、いっぽうでそれは人間性や緩徐性の付与でもある。喜劇性を意識した本映画では後者のほうが優勢だろう。とうぜんこの2パートはやがて加瀬夫妻の家に桜井が待ち伏せているところを加瀬夫妻がもどって収斂する。しかも家の手前に停めたクルマから妻の鳴海が「近づく」という具体的「歩行」を召喚するのだ。
 
もうひとつ、挿話の点綴がそれじたい等時的移行を組織して「歩行的」となる。『散歩する侵略者』はロイ・アンダーソンの名篇『散歩する惑星』と題名が似通うが、『散歩する惑星』は断章分けされたようなエピソードの羅列映画だった。意識されているだろうか。
 
『散歩する侵略者』の挿話単位はすべて、人間のどんな「概念」を「宇宙人」が「もらう」「うばう」かでとりあえず分割される。そこで前述したような会話齟齬コメディと、人間の本質を剔抉しようとする哲学映画性が混入する。その会話シーンの多くで、会話当事者同士が当初空間的に離れていて、だからこそやりとりに「歩行」が混入するのがミソだ。しかもレヴィナス的にいえば、会話のやりとりはもともと「同道」だ。ところが本作では会話的同道はかならず齟齬する。宇宙人の本質的な質問によってだ。黒沢の頭には酒鬼薔薇事件「余波」時の「なぜひとをころしてはいけないのか」があったかもしれない。もともと黒沢は会話を同調させないことで、「加算」をしるすべき映画的時間に脱臼をあたえてきた。記憶障害により相手の寸前の会話内容が欠損、おなじ本質的質問を相手にくりかえした『CURE』の萩原聖人。会話の本質は同道ではなく反復であって、そこに別の音・光の反復が混入、相手が催眠術にかかり、殺人願望を転写される。会話は多く空洞空間でなされ、そこがきみわるく磁場化する(これを発語のシンコペーションと粘ついた表情各部の遅延的連動によっておこなったのが『クリーピー』の香川照之だった)。ところが黒沢的空洞をもちいない『散歩する侵略者』では、相手の本質を乗っ取る会話が成立したその空間が磁場性をかんじさせない。「欠落」もまたこの映画の法則なのだ。
 
最初に犠牲になったのが真治によって「家族」概念を奪われる鳴海の妹・明日美(前田敦子)。「犠牲になった」としるしたが、この映画の法則どおり悲惨さは強調されず、ことの次第に気づいたのちの鳴海にとっても、明日美のゆくすえがさして案じられていない残酷が事後的に笑える。明日美はその日、姉とちがって手許に束縛したい実家の意向に倦んで姉のもとに家出してくる。ところが記憶朦朧とした真治は明日美を関係同定できない。「義妹」のことばを明日美にもちだされ、さらに混乱する。彼はもともとひとつの胎から生じた姉妹が出生順の前後をもつ同血だとすら認知すらしていないのではないか。明日美は成り行きで「家族」とはなにかをたどたどしく説明することになり、それで興味の灯った真治が、鳴海が眼を放したときに、その概念をもらう。「なるほど、それもらうよ」。仕種と変化ふたつがある。概念をもらうとき真治のゆびは相手の顔にふれる。もらわれたほう、この場合の明日美は涙を一筋ながす。それで概念移譲が完了する。明日美はこの瞬間からにわかに性格まで変え、帰るといいだし、真治が機嫌を損ねたのか案じる姉を背にして、「家」の束縛を断ち切った意識から生じた奇妙な笑顔を捉えられる。こうして宇宙人による概念奪いの様相が、最初は謎めいたままではあるが観客につたえられる。
 
あきら探しの準備のため天野の実家に天野とともにおもむいた桜井は、天野の両親がそこで廃人化しているのをみる。ただしそれは「自由」その他の概念をもらったためという事後説明しかなく渦中がない。つぎの概念奪取は、真治が散歩がてら丸尾(満島真之介)の自宅庭に不法侵入したときにおこる。自称の方式を知らない真治は、丸尾の「俺の家」ということばに反応、丸尾の家を「俺の家」と認識して不躾になかへと入ろうとして、前提認識を改められる。「の」に人間特有の「所有」概念が介在しているのだ。興味を点火された真治は丸尾から「所有」概念をもらう(ゆびをその顔にあてる詳細はあるが、落涙が「欠落」している――ともあれその概念放棄でひきこもりをかこっていた丸尾に解放がおとずれ、のち彼はユートピストとして戦争反対を訴える広場の説教者へと転身する)。松田龍平に負けないシンコペーション発話を「あかるく」おこなう満島の演技力が印象的だ。
 
つぎの「概念」奪取は、桜井の情報収集力によりついにあきらと実現された邂逅シーンで起こる。あきらはじつはすでに病院に身柄を拘束されていて、しかも乱暴を働いたのか麻酔薬で昏倒させられていた。直接的な警備はノンキャリ刑事の車田(「アンジャッシュ」児島一哉)たったひとり。ここではシーンの経緯じたいがみごとに混在的だ(並行モンタージュも挿話分割も組成が混在的なのだが)。①上司との電話のやりとりから職業柄「自分」の一人称をつかう児島に、ふと覚醒して興味をいだいたあきら。②そのあきらを、見舞客を装い訪ねる桜井と天野。③ふたりを排除しようとする車田に仕掛けられるあきらのカンフー俳優ばりの肉弾アクション。④さらには攻撃にずたぼろにされた車田から概念「自分」「他人」をもらうあきらと天野。以上四つの異質な列が、タイミングのたくみさにより連接されてゆく。黒沢演出はすごい。器用なのだ。
 
冒頭、歩きの動作の異常性でその身体能力を印象づけた恒松祐里は、児島への眼の覚めるような攻撃を展開する。いわゆる性的体位でいう「駅弁」姿勢から両腿で児島の胴を締めあげたり(彼のからだにのしかかるその身軽さにニホンザルのような獣性がある――トレーナーから臀部の割れた形状が透けるのも生々しい)、殴打、蹴り、投げ技など、打点が高く、速く、しかもやわらかく、展開性が目覚ましい。相手を「物」に貶める叡智が攻撃性に結集されている。なんという運動能力だろう。もともと性差と脆弱性の意識のない宇宙人が少女のからだを借りているという設定だから、自己身体を自損的に扱って厭わないということにもなるが、むろんそれを実体化させているのはこの若い、名前を売り出したばかりの女優自身なのだ。しかも八頭身で、そのちいさい顔が少女的抒情をおびている。身体自損的な意識は、蹴りあげやその他の日常的躍動でスカートの裾を気にしない放埓さももたらしながら、同時にそのなかを決してみせない慎重な自制もそこに窺える。運動神経はこの点にもつかわれているのだ。「走り」に圧倒性をみせた黒沢『Seventh Code』の前田敦子以上だ。
 
宇宙人にからだをはいりこまれたゆえのつよさという設定ながら、恒松の身体能力はプロレタリア革命的だ。国家権力から奪取した武器を自らのものにするという瞬間逆転じたいを革命力にするためだ。彼女の役柄だけが作中、殺しの許可を特権的に得ている。まずは警官。彼女は警邏中の警官に、失踪中の「立花あきら」と見破られる。有無をいわさず警官に攻撃をしかけ電光石火、拳銃をとりだして紐のついたまま発射、絶命させたのち、紐を剛力でちぎり、異変を知らせようとする同僚警官のパトカーに早足で近づいて、そのフロントガラスをじかの拳で突き破り、さらに拳銃を発射、死へとみちびく。連動動作の根底にみえないほどの速さの「歩行」があるが、それらは手の動きと連接して孤独化しない。全身がうごいているのだ。それは鉄道高架下にワゴン車を置いてひそんでいるところを追っ手たちに張られていると気づいたときも同様で、今度は追跡者ふたりを「同時に」相手にして、投げ技、蹴り技を展開、ひとりから奪った先刻からはスケールアップされたマシンガンを、相手それぞれに連射する。一連が華麗な舞踏のようだ。このときはラガーシャツにミニスカート姿だった。
 
つぎの「概念奪取」相手は鳴海の仕事先の社長(光石研)。奪取は仕事に行く鳴海を尾けてきた真治による。〆切ダンピングぎりぎりのチラシデザインの依頼にこたえ、仕上がり案をデザイン事務所にもってゆくと、もともとセクハラを仕掛けていた社長の難詰をくらう。事務的なデザイン踏襲を要請されていたのに創意を発揮してしまったのだ。クライアントのOKさえ出ればいいんだ、きみは「仕事」のなんたるかがわかっていない、と社長がヒステリックにいうのを真治が聞きつけ、「仕事って何」「イメージしてみて」と執拗に近づいてゆき、後ずさりして怯える社長から「仕事」の概念をもらう。このあと「仕事」の抑圧から解放された光石が幼児化してほとんどご愛嬌のおバカ演技をする姿が挟まれるのが笑える。
 
最後の犠牲になるのが、公安にちかい働きをずっとおこない、加瀬夫妻や桜井たちを追う黒幕的中心となっていた品川(笹野高史)だ。真治との出会いを果たし、黙契による瞬時の情報交換を経て、壮絶な最期をしるしたあきらからの置き土産=接続器をつなげ宇宙への通信機を機能させる寸前だった隠れ場所に、品川とその部下がたどりつく(ちなみにいうと、宇宙人の用意する「世界の終わり」よりも、それを阻止しようとして「人間」のしるす陰謀や、危機を訴えても聞かない「人間」の無関心のほうがずっと不純だと感じていた桜井は、父性意識もあって、天野をずっと手伝っている)。桜井と天野にたいする品川の面罵のことば「邪魔者」「迷惑」、さらに「目障り」「ウザイ」まで加味し、「排除意識」の概念を天野は品川からうばう。銃弾に身を貫かれても。結果、見事に陰気な威厳を湛えていた品川の顔に柔和以上の痴呆性が兆す。
 
ひとつだけ奪えない人間の概念が真治にあった。「愛」だった。追っ手を排除したあと、真治と鳴海のふたりは、とおりすがった教会から自分たちの結婚式でも唄われた讃美歌を耳にする。なつかしさもあり、しかも「愛とはなにか」という説教主題がしるされたポスターも貼られていて、ふたりは教会内にはいる。愛の讃美歌をうたう聖歌隊のこどもたちに「愛とはなにか」を訊ねてもはかばかしい正答が出ない。そこに牧師(東出昌大)がやってきて、さらにその問いをくりかえす。「愛」はあなたのなかにあります。ないからそれを訊いているんです。そんな問答のあと、牧師は聖書の訓えをつなげ、愛を刻々と定義しかえる。複雑すぎて背景、前提を真治はイメージできない。それもあり、「愛」という概念を牧師から「もらう」ことをあきらめざるをえなかった。これが愛情面でのクライマックスへの伏線となる。
 
最終局面の加瀬夫妻は、とりあえず天野とあきらのふたりから離れたほうがいい、という桜井の助言を容れ、世界から逃走しようとしていた。鳴海は、真治がウィルスに感染した病人だという指摘を信じなかった。宇宙人だと信じたのだ。それまで口にしなかったかぼちゃ煮をこのみだし、就寝中の自分の足うらをてのひらでひそかにつつみ、自分のなかの真治と宇宙人の区別がつかなくなってきたとかたり、自分たちのおびている使命=「侵略」を隠さず披瀝した真治に、彼女はあたらしい愛着をいだき、すでに「世界の終わり」を受けいれる達観にいたっていたとおぼしい。夫の変貌を蔑していた時点から翻心にいたった具体的な展開はあまりないが、この作品で聖化されている長澤の魅力的な顔がそんな「言外」を告げる。逃走のためのクルマに同乗しているふたりをフロントガラス越しにとらえるときも「ロマンチックラヴ」モードに車窓外がスクリーンプロセス的になり、しかも音楽のハリウッド調がしのびこんでくる。あるときは雲を割り、フロントガラスから荘厳な夕光が射しこんだ。この作品で最もうつくしいやりとり。鳴海「侵略が始まったの?」/真治「いや、あれは夕日だ」。
 
ふたりの帰趨がどうなるのかは書かないし、天野に託された、人間消滅を決定させる通信機の起動がどうなるのか、あるいはどのような逆転をみるのかは、ネタバレを避けて書かない。ふたつのことだけをしるしておこう。この映画には「泣ける」メロドラマというジャンルも混淆していた。最も催涙的なのは、逃亡の途中で天野夫妻が立ち寄ったモーテルでのこと。世界が終わるのなら、その前に自分をころしてほしいとばかりに、鳴海は自分の首を絞めるよう真治に依頼する。大島『愛のコリーダ』ばりの局面移動だが、真治にはそれができない。「愛」の所産によるものだとふと気づいた鳴海は、そういえば「人間」の概念すべてを判定用に収集したといったけど、「愛」の概念を人間からもらっていないじゃない、これなくして人間の全体は判断などできない。それならいまあなたを愛しているわたしからもらうのが捷径だし最も適切だというようなことをいう。廃人化は必須だというのがこれまでのドラマの経緯だから、その自己犠牲精神が泣けるのだ。しかもその直前、ベッド上に横たわる真治のからだを、うしろから包み込む鳴海の仕種が、静謐さにおいて「仕種の完成形」をしるしていた。それは「同道」の永遠状態なのではないか。はたして真治は鳴海の愛の概念をイメージしきり、その顔にゆびをかけるのだろうか。
 
作品では「歩行」をころすのが転倒だとさまざまに示唆されてもいた。最初の真治の転倒から作品全体を経緯して、最終的な転倒を受けついだのは、バカでかさによって笑えるCG機影(とうぜん『回路』終景をおもいだす)から散々な爆撃を繰り返された桜井だった。地面にうつ伏せになって死んでいるとおもわれた桜井。演じる長谷川博己の身体能力が、恒松祐里の身体能力がカンフー俳優並みだったのに比例し、前衛舞踏の踊り手のようにたかい。その臀部だけがもちあがってゆき、彼は尺取虫のような「くの字」になる。おそらくは腹筋を駆使した連続動作のままたちあがり、「歩き」だそうとするが、片脚を完全に破砕されており、歩行がままならない。畸形性を内包されたまま、やっとくりだされる歩行がゆがみまくり、足の甲を地面にひきずるようにして不安定に重心を移すのだ。息を呑む。むろんこれは「歩行動作」を不機嫌不安定に身体に「装着」するしかなかった冒頭の宇宙人たちへの、「人間」からの最後の応答だ。人間のゆがみやくずれは人間を装った宇宙人よりもさらに崇高だという、根拠のないゆえに真実となる発見。サングラスを爆撃粉塵で真っ白にし、衣服を炎で穴だらけにされ、なおもその歩行のまま不敵な笑みを浮かべる彼は、人間消滅後の参考サンプルとして生き残ることができるのか。
 
――九月九日より、全国ロードショー。
 
 

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2017年08月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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