ヨン・サンホ、新感染 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ヨン・サンホ、新感染のページです。

ヨン・サンホ、新感染

 
 
【ヨン・サンホ監督『新感染 ファイナル・エクスプレス』】
 
いっさいが超弩級だ。意味不明なほど盛りだくさんだ。韓国アニメ界のすばらしい才能ヨン・サンホがはじめて実写映画を手がけた『新感染 ファイナル・エクスプレス』は、「ゾンビ」を題材としたノンストップ・サバイバル・アクション・ホラーで、ゾンビ映画に必要不可欠な閉所サスペンスに、驀進するKTX(ソウル―プサン間を結ぶなど韓国の新幹線にあたる――つまり邦画タイトルは音のかけあわせ)の「猛スピード」をみごとに接続している。手に汗をにぎるという形容がなまぬるいほど、一挙に進展へ飲み込まれてしまう。観客じしんが破局的なKTXに乗るのだ。
 
叙述の中心となるファンドマネージャーのソグ(経済エリートだが、最初は自己中心的な性格と規定される)と、その学童期の娘スアンのすれちがい、娘側からの渇望を冒頭かんたんに説明したあと(学芸会での「アロハ・オエ」歌唱映像が作品ラストの伏線となる)、彼らがプサン行のKTXに乗り込むや、エンディングまでたわみのない「一気呵成」がつづく。物語構成的にはあいだに「破」すらない前代未聞の「序-急」といえるだろう。落涙をもよおされるくだりも多々あり、つまりこの映画では観客の感情が原初的に覚醒する。
 
起承転結よりも序破急のほうが、物語構成的にはリアルだ。理性ではなく感覚を直撃するためだ。発端は、病身らしい女が、KTXの発車時刻ぎりぎりにのりこんだこと。ドア付近に臥してあえいでいた彼女は不審がられるが、いきなり上体を起こし、救助者の首を噛む。すると、噛まれた者も「怪物」へと一挙に反転する(次第に了解されてゆくが、首を噛まれてのゾンビ「感染」は限界奔馬的、その他の部位を噛まれての「感染」は遅滞的なのだった)。白濁する瞳、くろく枝状にうきあがる血管、表情の怒気、人間的な抑制を失い、至近者を齧り、噛まれた者が即座にゾンビ化し、倍々ゲームで続々「ゾンビ」が増殖してゆく。この速さが、KTX運行の速さと相即している。
 
ひとつのフレームに空間恐怖的にゾンビと化した異形者があふれみちるだけではない。映画では「充満」は形象のみならず「うごき」によってもかたどられ、それが異常感知をみちびくことになる。蛆の繁殖を目にしたときの生理的嫌悪。あきらかにゾンビ化した乗客たちのうごきには周到な「振付」もなされている。バネをつかった筋肉の躍動は、四肢や首、背中のひねり、屈曲により舞踏的な撥ねあがりをみせながら、同時に各瞬間がぴりっとした静止を介して、うごきが分節される。しかも身体展開がコマ落としをおもわせるほど速いのだ。空間密度がたかまり、たがいのからだがはじきかえされ、「ひとつ」がゆかを転げまわるときにはブレイクダンス的な下方穿孔すらみせる(マイケル・ジャクソン=ジョン・ランディスの『スリラー』を換骨奪胎している)。画面認知の転覆。奥行きは瞬時に現れ、瞬時に異化され、瞬時に塞がれる。
 
KTX内の車輛が主舞台。ゾンビがゾンビを増殖させようとする力動にたいし、正常な乗客(だんだん減ってくる)がドアを塞いで身を守ろうとする攻防がとりあえず描写の主体となる。縦構図が駆使され、たとえばその奥行きでドアのガラス部分に、白濁した瞳で野卑な痙攣をくりかえすゾンビたちがひしめき、うごめき、ガラスを叩き、頭突きをくりかえしている。ガラスが血で汚れる。縦構図の奥行きはみえない「機械仕掛けの神」の鎮座する場所ではなく、希望を感知できない、ひたすらな混乱の現前なのだ。車輛の連結はもともとつながった「腸詰」をおもわせるが、肉を切断したとき切断面が内部的にこまかくうごいていれば、時間は外在と内在にも二重化される。静止の不能。縦構図サスペンスとしてこれほど出色な提示をおこなう映画は、ほかにあまり記憶がない。
 
人物が列車の車輛を渡りあるくすがたを通路にカメラを構えた縦構図で美的にとらえたといえば、吉田喜重監督『女のみづうみ』のクライマックスシーンをおもうだろう(その直前の先駆となった今村昌平監督『赤い殺意』も)。軍隊がゾンビの群を制圧したとの誤報を受け、途中のテジョン(大田)駅で主人公たちが下車、ところが兵士たちがすでにゾンビ化しているのを目の当たりにし、もとのKTXへとUターン逆走する緊迫したくだりでは、驀進を開始した車輛、その扉に主要人物たち――子役のスアン、車中で知り合いとなった臨月間近の妊婦ソンギョンが、別の扉にはファンドマネージャーのソグ、ソンギョンの夫にして格闘技経験者=けれども朴訥なサンファ、純朴な高校野球の少年ヨンググが、別々に飛び込むことになるが、列車の驀進性と「身体」(女たちにはそれぞれハンデすらある)がからむ点では、ロバート・アルドリッチ監督『北国の帝王』をも想起させる。ゾンビたちの攻勢から逃れるため最終的に主人公たちはKTXから地方駅の車庫にあったディーゼルの発進部(という形容でいいのか)に乗り継ぐことになるが、この乗り継ぎは列車映画ではないがクリント・イーストウッド監督の『ガントレット』をも継承しているだろう。
 
さほどゾンビ映画に通暁しているわけではないが、ゾンビものという恐怖映画の1ジャンルは、巨匠ジョージ・A ロメロが若くして手がけた『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を超えられないだろうとおもっていた。ゾンビを媒介に人種差別が複層で浮かびあがり、同時に低予算をものともしない「アイデア」により、ゾンビと対峙する「境界」の緊張が高まる。「夜」の利用が大きい。閉所サスペンスとしてもすこぶる上出来だが、手柄はその時代性にあった。腕をだらりと下げ、ちいさな痙攣を伴ってゆっくりと歩行してくるゾンビたちの様相には、たぶんモンキーダンスのスローモーション化がもくろまれている。それが眼を剥き、頬を齧られ、血糊をほどこされた彼らのサイケデリックな顔面メイクと相俟って、ゾンビにニューエイジ世代の不気味な跳梁をおもわせたのだ。
 
『ナイト・オブ―』は人間の「分断」を複層のまま剔抉することで成立していたが、その批判力はアンダーグラウンドからの角度によってなされたといえる(『ナイト・オブ―』のアングラ映画としての強度を印象づけられたのは、当初『生ける屍の夜』のタイトルで、サトウオーガニゼーション〔黙壺子フィルムアーカイブ〕にて上映された機会が鑑賞初体験だったからかもしれない)。これがその後のロメロのゾンビ映画では稀薄になった。いずれにせよ、ゾンビはゴジラやエイリアンなどとおなじく、なんらかの暗喩ととるのが批評の道筋だろう。ちなみにゴジラは核の脅威の暗喩、エイリアンは異物性すべての脅威の暗喩だった。
 
韓国内での脅威といえば「北」とかんがえるのが相場だろう。ところが賢明な映像作者たちはその短絡をきらう。ポン・ジュノの『グエムル』ではソウルを貫通する漢江にひそんだ複合的な巨大怪魚は、じつはそれじたいの意味を脱色されていた。アメリカの技術ミスが怪物を生んだという発端はあったものの、グエムルのうごきの狡猾な速さと、多様な生物体系を合体されたうごきの意想外な連接がそれじたいの恐怖だったにすぎない。形象はあるが実体が「無」でしかないもの。いわばそのような「無」をまえにして、ソン・ガンホ、ペ・ドゥナなどの「崇高なバカ」ぶりが純然と反照された。くわえて「不屈であること」が金科玉条となった。韓国映画の符牒となる粘つくほどの「ガッツ」――この「不屈であること」は、『新感染』でも中心的に価値化される。ところがゾンビたちもまた、世界終末を背負うだけで、政治的背後をすこしも負わない形象であるにすぎない。それは映画の進展をじかに追って判明することなのだが、実際はここには段階化があった。
 
当初、KTXに乗った客たちは、列車の密閉空間のなかで、国内から遮断されている。ところが国内では燎原の火のように異常事態がひろがりつつあった。各所で群衆が暴動を起こしている。たぶん国民のゾンビ化が大規模、同時多発的に進展しているのだが、解読格子をもたないマスコミは、それらを「デモ」と告げるしかなかった。それがKTX内の車内放映で判明する。かつては軍独裁、現在でも政治不正にたいし韓国では大規模デモが頻発している。正義を冠されるデモは、その対抗軸となる巨悪が奇怪であれば、実体は奇怪にひとしい。ただし「うごき」だけが解読格子に合わない至純な個別性をもつ。おそらくはそんな達観が監督ヨン・サンホにもあるのではないか。ゾンビの跳梁をも「デモ」としか形容できない無能。このとき真のデモが分節される。それは個別的かつ群衆的で、しかも無能と闘う決起行為の不屈性として「孤独に」分節されるのだ。それは無からの反映であって、たとえば北の脅威がそこに含意されていない。運動のための運動――この継続の質に、おそらく半島民の感情の中心、「恨」が反映されているだけだ。
 
映画のディテールにもどろう。この「腸詰」の内部を透視した(その意味で歴史をあつかった)映画は、車輛連結の文字どおりの「数学性」により、観客を眩暈に導く。どの車輛でなにが起こっているか。生存者はどこにいるか。それは連続する空間に、数学的なマーキングをすることだ。この数学性はケータイ電話のやりとりで知られてゆく。
 
より詳しくは――車輛内部で主だった配役の「説明」をしたのち、ゾンビの増殖があり、観客はトイレのある非客席部(連結部ちかく)や特定客席部に閉じこもり、ゾンビの侵入を全力で防ぐことになる。ところが先刻しるしたようにテジョン駅での下車を諦めた乗客たち(ここでも大量のゾンビ化が結果された)のうち、主要キャストがふたたび元のKTXの再乗車にからくも成功するが、ゾンビへの反撃に手をとられた高校野球選手のヨンクグとともに、ファンドマネージャー・ソグと屈強な中年男サンファは、家族とは別の車輛扉からの駆け込みを余儀なくされる。それぞれ娘、愛妻との「分断」だ。ソグとサンファは、離れたトイレに立てこもり孤立している娘スアン、妊娠中の妻ソンギョンを救出しに行かなければならない。ところが南北朝鮮の分断にしめされているように、相互を分断する「大きな境界」(ゾンビたちの跋扈する車輛)にあるのはリアルポリティックスではなく無の妄動だった。そこを突破するときに最大のサスペンスが生ずる。しかも突破はしずかにおこなえ、というのが作品の使嗾なのだった。
 
トイレに立てこもる、客席部から自分たちの居場所を遮断する――このとき攻防の境界となるのは、「一枚」と形容できる扉だ。その映画性を充分に連打したあとで、作品は車輛という長さをもつ「腸詰」空間へと案内してゆく。ゾンビの殴打に抜群の技量を発揮する屈強な中年男サンファの風情がすばらしいのだが、それは純朴さ、自己犠牲精神のみならず、叡智にも反映される。この叡智が、自己中心的なソグにも転写された。車輛内はすでに照明系統が機能せず、トンネルに入ると真っ暗になる。そのときゾンビたちのうごきが停まるのだ。ゾンビたちはおそらく昆虫のように、対象(のうごき)を視認、その刺戟により、正常者に害をくわえる反射行動を起こしているとおぼしい。ソグはケータイで自己位置を確認、列車が長いトンネルにはいる段で、盲目化したゾンビたちに気づかれずにゾンビたちのいる車輛を潜行移動する提案をする。緊迫した移動。薄闇のしずけさ。
 
ところが物音が立ってしまい、ゾンビたちがこちらへむかってくる。このときすでにサンファのケータイと自らのケータイをつないでいたソグが、サンファのケータイを向かってくるゾンビたちの後方に投げる。サンファのケータイに電話をかける。不恰好に鳴る着信音。その音に向かいだしたゾンビたちにより矛先が躱され、彼らは第一の車輛移動に成功する。先刻、ゾンビたちは暗喩化がなされていないとしるしたが、対抗手段にはそれがなされている。対抗は移動の形式をとり、しずかさが必須で、しかもケータイによる通信が重要手段となるということだ。
 
第二の移動。トイレには娘スアン(当初は少年とまちがえてしまうすこし異質な少女=キム・スアン扮)、妊婦ソンギョン(ホン・サンス作品にも出演している美人女優=チョン・ユミ扮)のほか、これまで言及しなかったが、妹とはぐれてしまった老婆、さらにはホームレスの男もいた(すべてが弱者で構成されている)。そうして彼らは一旦合流する。ところが高校野球の選手ヨンクグは、さらに離れた車輛にいる同級生の恋人ジニとの再合流を希望している。ケータイでのやりとりからすると、その車輛に大量の正常者が籠城しているらしい。そうして第二の移動がはじまるのだが、名手ヨン・サンホ監督はおなじ手をつかわない。ただし移動=突破は静謐にという鉄則はおなじだ。トンネルの恩寵を借りることなく、彼らは座席上部左右の網棚部分を、それぞれ息をころして匍匐前進した。移動者に「弱者」をふくんでいるだけに緊張感がたかまる。
 
大量正常者のいるその車輛に辿りついたかとおもった途端、彼らは正常者たちから手ひどいしっぺ返しを受ける。ネクタイ等で固定され開閉を不可能にされた扉。それごしに感染の疑いのある者は入れない、と宣告をうけるのだ。背後から迫るゾンビたち。正常者vs正常者の、扉を開ける・開けないの攻防がある。そこには暗喩はないだろうが、「本当の敵は内部に存在する」という教訓はある。車掌の補助を受け、正常者たち全体のオルグに成功しているのが、卑劣さの印象が申し分ないバス会社の重役ヨンソクだった。演じるのがあのホン・サンス監督『豚が井戸に落ちた日』のキム・ウィソン(『豚が井戸に落ちた日』はエドワード・ヤン監督『恐怖分子』に匹敵するパズル型のノワール映画だが、いつまでたってもDVD化がならない)。
 
この直前に、画面の魅力をさらっていた屈強な男サンファによる自己犠牲的な死の選択がある。身を挺してひとり扉のまえでのゾンビとの闘いをえらんだのだ。作品を貫通する利他と友愛の原理。以後、この自己犠牲は催涙を目的とするこの作品でつづいてゆくし、合流直前だった老婆姉妹も、それぞれが諦念により別のかたちで「自殺」をおこなう。「肉体」の突出をエネルギッシュにえがく本作は、感情によってなされる死への傾斜容易性ともセットだった(自殺多発国の韓国をかんがえてもいい)。みんな死ぬ。すなわちゾンビになる。車輛最後尾に正常者たちがソグたちを放逐したのち、不正と偏見のまかりとおったその車輛を、姉の死を見届けた老婆の妹が、ゾンビたちに解放する。(のちにわかるのだが)ごくわずかの「例外」(トイレに立てこもった)だけをのこし「正常者」たちはゾンビの餌食になり、壊滅した。合流なった高校生カップルのうち少女のジニのほうもゾンビに腕を噛まれ、ゆっくりとゾンビ化してゆく。振り払って逃げようとすればそれも可能だったのに、少年ヨングクは脱力する彼女を腕で支えている。ジニの瞳が一瞬にして白濁、彼女はヨングクに牙を剥く。そうなるのをヨングクは知っていた。つまりそれは心中の亜種だった。
 
映画というメディアには「操車場」の夢がある。最も映画的な場としてそこがえらばれるのだ(イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』にはみごとな操車場シーンがあった)。プサンに近づいてきて突然、当該KTXが前進不能となった。線路を倒壊した別の車輛が塞ぎ、一帯が廃車輛の「巣」となっている。つまり車輛の多さからしてそこは操車場に死がかぶせられているのだ。倒れている車輛により、KTXから脱出したソグたちにはわずかな隙間の脱出口しかのこされていない。斥候に出るソグ。のこった娘スアン、妊婦ソンギョン、ホームレスの男は車輛の底部を抜けようとするが、のしかかる車輛の窓内からはゾンビたちがひしめき、攻撃対象に自らを届かせようとして窓ガラスを猛烈な力で叩いている。サスペンス。ふと気づく。車輛内部を中央通路から捉える縦構図を駆使したこの映画は、車輛外部を横から撮ることを同時に欲望していた。それは何度かあったが、完全な恐怖演出として実現できる機会を待ち構えていたのだ。それがこの場面で実現された。
 
最後の脱出への導きは、先述のとおり、主要人物によって乗り継がれた進行中のディーゼル先頭部が請け合う。だれが自己犠牲で死ぬのか。終始絶望的なこの映画の最後に希望が灯るのか。それはしるさない。ただ一点、進行するディーゼルに追いすがるゾンビたちの描写の凄絶さには言及しておこう。ゾンビ一体がディーゼル後部につかまり、そのゾンビにさらに別のゾンビがつかまり、さらにゾンビが…というように数珠つなぎ状態となる。それを進行するディーゼルがひきずってゆくのだ。猛烈なスピード。彼らの下は線路と、そこに敷き詰められた石。観客の痛覚が刺戟され、進展が「肉体性」でみちる。この「肉体」の酷使が韓国映画の符牒だ。技術的な側面をかんがえざるをえない。おそらくゾンビたちがひきずられてゆく線路と石砂利は、プロジェクション・マッピングとCG合成によっている。それなのに方法が見分けられないほど抜群の臨場感が達成され、無惨さが「痛い」のだ。身体の自在性のために特殊技術が貢献するのではなく、肉体の無惨さを強調するためにそれが駆使される、この非ハリウッド的な逆説に「力」を感知するのはとうぜんだろう。
 
――九月十二日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。雨で肌寒い平日昼間の鑑賞だったので観客は多くなかったが、ほぼすべてが若い女性の友達どうしというのにびっくりした。常識でははかりきれない情報感度があるのだろう。脱帽。
 
 

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2017年09月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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