メモ10月26日
【メモ】
唄うのではなく、書くことを始原とした現在の詩作においては、「文」を反契機に詩が出現するのを手許に待たなければならない。もちろん文の説明性、小説的な時空の連続性(換喩性)は、息をする詩では息によってこわれてゆく(息をしない詩が調整意識だけでだらしなく散文を分かち書きするのだ)。それをみちびく要因は「飛躍」「省略」「音韻化」などとまずかんがえられがちだが、よりふかい欠性が脱論理や多義や決定不能性をよびこみ、語ならびの空隙が容積をつくり、その容積をまえに読みが畏れをいだいて遅延化し、さらにその遅延によって読みすすむ内心の声が静寂化してゆくこともある。語彙のやわらかさはそのしずかさを推進する。
喩法はあるのか。どこをさがしても暗喩がみとめられないその「詩になったもの」では、消去の痕跡そのものがひとつの実体として読者の声のなかに読まれるほかなく、その「ないもの」の結節を減喩とよぶことができるだろう。むしろそれは痕跡の不能なのだ。喩がみとめられないのだから、ただ書かれたものを「ただ読む」密着が生じ、詩は身体らしきものをたどる直接体験へと変貌してゆく。顔はない。
減喩を煩雑な技巧と誤ってはならない。「それ以外」が「それ」のなかに包含されたその単純な形式が、読むことの隔時的交響性を単純にあかしするだけのはずだ。ことは詩の救済にかかわっている。「それ以外」が「それ」に隣接することで本脈がきえ、たえず別脈が現れる換喩の本質は、すべてが「中途」だということだろう。その換喩の延長にこそ減喩が置かれる。度外視されてはならない点だ。そこでは渦中と事後が分離できなくなり、語の分散が語の綜合を使嗾しながら、どこかに穴をみることになる。空間的にいっても時間的にいっても、なにか得体のしれないものがゆれている。それは脱論理や結像不能性に似ている。これが読まれるのだから、換喩どうよう減喩で書かれた詩は要約ができない。むろん要約不能性こそが「生」の別語だし、詩の物質化をみちびくものだ。詩の細部では、足りないのにすべてが的中している。それがはじまり、それがおわる。
べつだん特殊な事例を示唆しているわけではない。八〇年代の江代充の詩や、近年の川田絢音の詩には「減喩」それじたいがみられる。近接する詩篇は他のすぐれた詩作者にも数多くある。すくなさが要件なのは一目瞭然だが、「文」をどのように反契機にするかで、偏差もみられる。これらの偏差こそが詩のゆたかさなのだ。くりかえし読まれる詩を追究し、みずからが愛着し、しかも可読性を厳格にすると、この型の詩がうまれるのではないか。可読性だけの詩とはなりたちがちがうが、苛烈というわけでもない。くりかえすが、ことばが信じられ、すくなさが進展のうえに「自由に」書かれ、付帯的に音韻が意味をくるむだけだ。むろん現代的な散文詩の饒舌は、多音だし、反契機にすべき文や口語をそのまま契機にした不自由を病んで、同列に置くことができない。饒舌体の詩からすれば減喩詩が定型詩にみえるかもしれないが、自由度の審級がちがうのだから、むろんそれは迷妄だ。
――以上、減喩にかかわり、それまで書かれたものを瞥見することなく、ただの怠惰と思いつきでかかれた低能な文章をフェイスブックで眼にしたので、要点を流し書きしてみた。