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カニエ・ナハ『IC』 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

カニエ・ナハ『IC』のページです。

カニエ・ナハ『IC』

 
 
ことばの分散は、ことばの綜合を希求する。断層をふくみこんだ「タイトル+詩篇」の現れのなかで、そこにあるすべてのことば=細部が、それぞれのことば=細部と反響しあい、ひとつの全体に向かおうとする気配をかんじさせる。ところが一読後、即座に再読をこころみても、最終的に読まれるものがやはり断層でしかない――むしろそうした逆説におおのくことが、そのまま詩の繙読体験になってしまうのだ。
 
カニエ・ナハの私家詩集『IC』は多くの私家詩集、たとえば望月遊馬の『水門』がそうだったように、詩集全体で自己組成の「すくなさ」を提出しようとしている。詩集でありながら「半詩集」を体現しようとする「停止」の状態こそが、積極的に読まれるものだ。とりわけ冒頭部分の連作が興味をひいた。句跨りもしくは破調をふくむ短歌一首がそのまま詩篇タイトルとなり、詩篇本体はみじかい散文体として起こる。タイトル→本体は導入ではなく、断絶を介在させた対置として出現していて、さらに詩篇本体すら断絶によって分解可能となっている。
 
年度の収穫としてまずかぞえなければならない鈴木一平『灰と家』の中心部では俳句と日記体の散文記述が対置される枠組がつづいた。そこではわかさに彩られた生活をめぐる日記体記述が読みすすめられ、ときに時空を錯誤させる換喩構造まで露呈される。このことが刺戟的だったが、同時に俳句そのものの出来の安定にも眼を瞠らされ、結果、読みがいわば散種的な分散をしいられた。カニエ『IC』の冒頭連作では、タイトルをなす短歌は、瀬戸夏子の達成に影響されたのか「短歌外」を志向していて、しかも瀬戸短歌よりも愛着性がうすい。ところがそうした事態を、開始される散文詩体=本文がつくりなしている「分散」が救抜してゆくので、やはり鈴木一平どうようの眩暈が起こる。連作の冒頭なら――
 
私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨
 
ここから矩形の水槽のガラスの三面が見えていて、二匹泳いでいるはずの金魚が、場所によって、四匹に見えたり六匹に見えたりする。ときに頭と頭とが重なり合って、頭のない、ふたつの尾ひれをもったひとつの生きものになったりする。「気づかずに、偶然、あなたの前の席に座ってしまって、けれどしばらくあなたの声だと気づかなかったの。外国映画の日本語の吹き替えみたいに、別のひとの声のようだった。」
 

 
タイトル部分が短歌と気づくためには、最初の「私」を「わたくし」、即座につづく二度目の「私」を「わたし」と訓むひつようがあるかもしれない。その短歌であらわされたタイトルと詩篇本体に断層があり、同時に詩篇本体が、水槽中の金魚のみえかたと、その後の「 」で括られた女性の発話内容によってさらに区分されるのが即座にわかる。読みは綜合へとうながされる。「透明な遮蔽物の物質的実在」「それによる遮蔽物内の像の怪物的変容」「数の増殖」といったことがらが、「 」部分でしるされる「実在者の眼前性」「遮蔽物の感知」「声の印象の変容」へと接続される。ところが骨子は「 」内として発話される述懐の前提が、どんな位置関係なのかついに判明しない「抹消」自体にある。この抹消こそが、タイトルとしてしるされた短歌へとやがて遡行してゆく。タイトル=短歌も情景と条件を読者に伝授することがついにない。「短歌+散文詩」のかたちをとる冒頭部分の連作から、今度はその終結部をとりだしてみよう――
 
眠るのは朝までしむだふりをするんだよ、といって二度寝をする子
 
私がおわった子供は、耳が聞こえないように、見える人を羨ましがって、何もしなかったので、まだ生まれていない。音のないテレビで、口をいっぱいにして、何かを話していた私が、何を言っているのか、分からなかった。石は寝ているふりをしていた。
 

 
直前の「短歌+散文詩」のパーツから、掲出歌中の奇怪な修辞「しむだ」が「死んだ」の幼児語だと判明している。つづく散文詩本体は、助詞の誤用をふくめ連辞の論理構造が破砕されていて、ばらまかれたパズルピースが全体をつくりあげることはないだろう。ところが「子」(歌中にあり、詩中にある)と「私」は接着されようとしてなおも分離する「運動」を、これほど短い措辞のなかでふくざつにくりひろげる。接着の動因が、五感の遮断と就眠だといったん理解しようとすると、「子」が二度寝によって「石=死」を具現している奇妙な日常もせりあがってくる構造なのだ。けれど構造はそう見切られた途端、決定不能性によりさらにゆれてゆく。まるでゆれることが感覚や生のあかしであるかのように。
 
書記効果が、書かれているその渦中に多元的なゆらぎを胚胎してゆく。そんな手つきをかんじる。内容よりもゆらぎのほうが先んじて書かれているのではないか。ゆらぎは詩集『IC』の構成そのものにもおよびはじめる。「短歌(タイトル)+散文詩」の連作のあとは、「短歌(タイトル)+改行詩(最初は縦書き、のちに横書き)」にすりかわり、その後は詩篇本体が欠落して、短歌だけが無音の交響として紙面に間歇連鎖してゆく。なんとそれで詩集全体が満尾してしまう。短歌(タイトル)では《どの穴も塞がなくては。あなたが石をコヂ起こすので》のように第三句五音が欠落する大胆な破調が生じるいっぽうで、主題としての「映画」が「内容」に断続的に出来し、通奏性が維持されたりもする(「どうぶつが…」に描かれた映画館のすばらしさ)。「双方であること」はあらゆる局面で多元的に展開されている。それで小冊子なのに、「すくなさ」に「多さ」が錯視されることになる。
 
みごとな構成だ。周知のようにカニエ・ナハは詩集を最近立て続けに上梓しているが、どれもがことなる野心をもっている。カニエを絶好調とおもうのは、それらが「ことなりつつも」多元的才気の展覧ではなく、「すくなさ」のつつましい変奏となっている点だ。それで減喩の方法論がヴァリエーションを実現している。このことが現在的詩作の指針となるだろう。
 
 

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2017年11月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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